有限会社 教育報道出版社
(ホームページ改定中2017/12)
会社案内 著者デビュー企画 講演・講師依頼 教育ブログ
 考え合う響室づくり
過去の
「論壇」
書籍案内
“創り合う研修”の効果
 
 この夏も、いろいろな学校で先生方と学び会う機会を得ることができた。特に、校内研修では講義型の研修を大幅に減らし、ティームによる課題構成・問題解決型の研修を大幅に増やした。先生方による「グループ学習」というイメージだとわかりやすいであろう。数年前より、校内研修でジグソー形式の研修会を試行し、「先生方と共に考え合うこと」が質の高い研修効果に繋がるという実感を得ていた。 そこで、この夏は「ティーム協議研修」を思い切って増やしてみた。
 この研修方式では、先生方が課題ごとに話し合いを進めたり、話し合いで課題を作っていったりする。話し合いの場面では、先生方の意見が交換され、指導上の課題に対する解決の視点が生まれたり、新しい課題が浮かび上がってきたりするのである。
 「同じ研究課題が、教師間でこんなに違う意味で捉えていたとは驚いた」「一人では、これほど幅広い視野から物事を考えることができない。他の先生方の考え方のバリエーションを知って参考になった」などなど、概ね好評であった。先生方が相互に触発し合い、考え合うことで、新しい知恵を生み出して行く。私は司会者(ファシリテーター)として考え合いの状況を促すだけであるが、指導や児童に関する見識の出し合いは圧巻である。
一人の教師が持つ指導資源をかけ合わせて行くと、非常に次元の高い指導方法やアイディアが生まれることも多い。企業における研修も講義型から、体験型、協議型が増加している。知的生産性を高めるためには、知を生み出す人と人が協働するということが不可欠の条件となる。ピーター・F・ドラッカーは「ティームの行動を変えなければ、高い成果は生まれない。ティームに貢献する仕事に力点を置くべきだ」と指摘しているが、学校組織でも同じことが言えるのだろう。
 こうした協働型の研修会では、二つの創造的な出会いが生まれる様である。一つは、「自分たちが作り上げた新たな知見との出会い」であり、もう一つが「考え合うことの価値の再発見」だ。何よりも、前向きになれるエネルギーを高められることが、協働型研修の効果だと感じている。(2007/9/5)
 
※協働参加型の研修会として「ワークショップ型研修」が広がっています。鳴門教育大学の村川雅弘先生が全国に紹介、指導をしておられます。
プロフェッショナルの言葉

・「身分の上下差をつくらない」
=人と人の壁が情報の風通しを悪くする。情報の行き来が停滞すると組織の情報力が落ちる。
・「落伍者を出さない」
=落伍者を出す組織の体質が問題。落伍者を排除しても、新しい落伍者を生み出してしまう組織体質を変えなければ何も変わらない。
・「意見の正反合」
=いろいろな意見が出てこその、正反合。意見の出る組織、意見の出せる個が大切。
・「能力でトップでなくても、意欲ではトップ」
=能力のトップではなく、意欲のトップをとり続けることがリーダーの条件。
・「自己をさらけ出す」
=かっこをつけていないで、自分の姿をさらけ出すこと。人間同士の本当のつきあいからすべてが始まる。
・「正しいことより楽しいこと」
=楽しいことは自然とやりたくなるのが人間だ。正しくとも無理は続かないものだ。
・「聞いて学ぶ力」
=聞いて学ぶ力がもっとも大切。一人の偉大な天才の意見よりも、集団の知を信頼する。聞けるまで待つ。
・「創造性」=創造性は「出しなさい」と命令しても出るものではない。創造性を出し合える環境づくりが重要。

上記で紹介したのは、NHKの番組「プロフェッショナル・仕事術スペシャル」で語られた、カリスマ経営者達の言葉である。日本のカリスマ経営者だけでなく、世界のカリスマ経営者の言葉も紹介されていた。
 こうした成功者の言葉には幾つかの共通点がありそうだ。@人と人の関わりの質を高めることを重視するA意欲の喚起を重視するという二つの点は、どのカリスマ経営者も大切にしている様である。「意欲」も「人と人との関わり」から生まれることが多い。意欲は、他者との接触をきっかけとして生起する場合が殆どである。自分一人で自分の意欲に火をつけることは予想以上に難しい。教育の世界でも、考え合う、聞き合う、学び合う、など「合う学び」が広がりを見せている。教育のプロフェショナルも「自ら社会性を高め、子どもの社会性を高めること」が一層求められる時代に入っているのであろう。(2007/8/13)
★寺尾愼一先生より頂戴した書籍について、先生にお送りした私信の一部・・・です。

★日本生活科・総合的な学習学会/生活科・総合の実践ブックレット
創刊号 生きる力・人間力を高める生活科・総合

「本書が試す指導の眼」

 学びには、二つの領域がある。一つは物語性が高い学びであり、他方は物語性が低い学びである。生活科や総合的な学習は、物語性が高い学びである。学びが進む中で、学びのプロセスを語れるストーリーが構成されていく学びが、物語性の高い学びの特徴である。物語性の高い学びには、ドラマチックな展開場面があったり、深く問う問題との対峙があったりする。つまり、生活科や総合の学びは、シンプルなロケーションで形式的な段階を追う学習でなはいのである。ここにこそ、単純な反復学習とは異なる価値としての、学ぶ意義があると言える。
 
 また、生活科や総合の学びは、指導をする者に対し、かなり高度な教育的知見と指導力を求めるとも言える。百ます計算の如き形式性の高い学習であれば、誰が指導をしても一通りの指導は可能である。なぜならば、学びの形を握っている部分の形式性が高く、その形式に依存した指導が可能だからである。
 
 一方で、「学校探検を体験させたが、深い問いや、質の高い気付きに導くことができていない。どうしたら、深い探究活動に導けるだろうか(本書10頁)」や、「自分のよさや成長についての認識が深まるには、活動の充実や振り返りが大切だ(同35頁)」という、指導のポイントを的確に掴む能力は、優れた実践者だからこそ持っている力だと言える。子どもの「あたま ことば こころ」の動きと学びとの接点を見出す能力が、生活・総合の学びを充実させる上で重要な指導力となる。
 
 さて、本書に収められた実践は、それぞれが個性的であり、物語性をを持っている。一回性が高く、個別で特殊な学びの記録でもある。従って、同じ題材を使い、同じ様な展開をすればどの学校でも、同じ様な結果が出るという訳ではない。では、本書の教育的価値はどこにあるのだろうか。それは、“実践を読み解く態度と能力を読み手に要求していること”にある気がする。
 
 本書に価値を見いだせるか否かは、読者が「理解の態度と能力」を持ち、学びの本質を見出そうとする眼(まなこ)を機能させて読むことができるかどうかにかかっている。オデュッセウスが英雄となるのは、ホメロスを読み解こうとした者の心の中だけである。学びの物語を読み、学びと指導の本質を見抜く眼を持つことを、本書は読者に要求しているのであろう。2007/8/1
学問と「楽問」(あるいは我苦悶?)

 先日乗った電車の中で、とある親子の会話が聞こえてきた。
「ねえ、ヤマネコってネコでしょ。でも、ウミネコってネコじゃないでしょ。鳥なのにネコって変だよ。どうして?」
「ワカサギって魚だけど、シラサギって鳥でしょ。サギって魚にもいるし、鳥にもいる。どうして?」
「青虫ってなんか、青じゃなくて緑だと思うんだけど。なんで、青なのかな?」
なかなか鋭い質問である。質問攻めにさらされている父親は、相当にうんざりした表情を見せていた。父の表情とは対象的だったのが、子どもの表情である。なんとも楽しそうであり、嬉しそうな表情で質問を父に投げかけている。何かが分かったから面白いというのでもなく、何かを知り得たから嬉しいというのでもない。問うことを楽しんでいるのである。この子どもの表情を見ていて「楽問(ガクモン)」という言葉が閃いた。「楽しく問い、問うて楽しむ」ということである。学問(知識)があるというのは、よいことに違いない。しかし、「学問=楽しく問う心」を持つということも、素晴らしいことなのではないか。そして、楽しそうに父に問う姿からは「楽聞=楽しく聞く」という言葉も想起された。
 以前、静岡の倉澤先生という先輩から「言葉を自分流に置き換えて解釈すると、別の角度から物事の本質が見えてくる」ということを教えていただいた。学問が「我苦悶」では寂しい。「楽問・楽聞」の世界を子どもの姿から学ばせてもらった気がする(2007/7/19)。
「関わり」は手段か目的か

 「関係を大切にする」という言葉が、社会の中で流行している。「お客様との関係を大切にする」「職場での人間関係を大切にする」「家族の関係を大切にする」など、関係という言葉が多く聞かれるようになっている。これは、関係という機能や実態の希薄化に対するアンチテーゼなのかもしれない。あるいは、電子ネットワーク化する社会の中で「実際の関係性を大切にしたい」という願いから生み出されている主張なのかもしれない。人と人の関係はもちろん、人とモノや自然の関係も意識的に創造して行かねばならない時代に入っているのであろう。もしかすると、自己自身との関係すら希薄化している時代に入り始めている恐れもある。
 「関係」が大切だという主張は正しいかもしれない。しかし、あまりに「関係」が強調されると、関係の根本を支える本質的な存在を見失いそうな気もする。関係が関係として成立するのは、関係の結び目となる存在によってである。
 例えば、「人と人の関係が大切だ」という。だが、人と人の関係の価値に根拠を与えるのは関係の大切さそのものではなく、他者の存在が大切だからである。関係が生じるのは、「関係を必要とするほど大切な相手の存在」があってこそである。相手や自己の実体を離れた関係などあり得ようがない。教師の中にも「子どもとの関係を大切にしたい」「子どもと子どものつながりを大切にしたい」という先生がいる。だが、そうした先生方の話しを伺っていくと、「関係」や「つながり」よりも子ども個々のエピソードや想いについて語られることが多い。子どもが大切だから、大切な対象に対しての「関わり」が生まれているのであろう。
 本来、「関わり」は目的ではなく手段である。大切にしたい人や、モノや事(目的)があるところに「関わり」という手段が創られていく。関係の重要性が叫ばれる時代だからこそ、その人、その場所、そのモノという「存在そのもの」に注目したいものだ。(2007/7/12)

埼玉教育界の巨星・藤井均先生の教え

 藤井均先生(元埼玉県教育委員会教育委員長)が、6月17日に逝去された。藤井先生と言えば、埼玉県の教育界において、多くの後進を育てた事で知られている。筆者が教育に深い関心を抱き、教育について考える様になったきっかけは先生との出会いによる。また、講演や文章の達人としても知られ、先生の表現や指導から感銘を受けた教師は多い。
 
 私が藤井先生と初めて出会ったのは、全国教育新聞に勤務していた頃である。先生は「鉄剣」というタイトルのコラムを執筆されており、読者から好評を博していた(このコラムが“ゆずり葉のこころ”として本にまとめられた)。
 以来、私が教職員ではなく、しかも親子ほども歳の離れがあることが、寧ろ、心の垣根を感じぬ交流を持たせて頂くことに繋がった。そもそも、私が独立を果たしたきっかけも「他人の傘の下でしか生きられない時もあれば、自分に力が付き、世の中を生きていく力が伸びて行くということもある。君はそろそろ、自分の傘を広げてもいい時期に来たのではないかね」、と言う藤井先生の諭しを得たからであった。
 藤井先生からは、教育については勿論のこと、歴史について、文章について、生き方や自己のふるまい方についてなど、実に多くの分野に渡って対話を通して学ばせて頂いた。そのエピソードを、何回かに渡って紹介して行きたいと思う。

その1:人生の意味と苦労
 藤井先生と車で近場へ日帰り旅行に出かけた時のことである。「人生における苦労と、成果は幸福とどの様に関係するのか」という話題になった。
 藤井先生は「シェイクスピアの如く、才能にも財産にも恵まれた作家もおれば、宮沢賢治の様に世俗的な成功には恵まれなかった作家もいる。果たして、どちらの人生に価値があると言えるだろうか」と問われた。私は「人生の途上で苦労をしなければ価値の高い人生を送れないものなのでしょうか。しかし、選んで出来る苦労とそうではない苦労では意味が違う気がします」と答えた。
 「苦労の有無ではなく、自己の人生を生きる者が、苦労であれ幸福であれ意味を見出すことが大切なのではないかね。苦労と幸福、成功と失敗、期待と不安。どれも反対の事柄として見るのではなく、意味としてどう捉えるかだろうね」と藤井先生。
 人生の過程は様々な事が不測の内に生起する。しかし、生起した出来事を良いか、悪いかという単純なモノサシで測るのではなく、意味として豊かに捉えよということを教えようとされたのであろう。

その2:今の努力と未来の自己
 これは、仕事の合間に先生の「肩たたき」をしながらこんな話をうかがった。
「私は学歴も無いし、このまま自由奔放な学びをしていても、将来役に立つような知識や人格は身に付かないのではないかと不安です」と私は藤井先生に話しかけた。
 藤井先生は非常に不愉快そうな表情になり「未来の自分を心配し、憂うために、今という時間を使うのかね。そうして、憂う今を継続して行けば、憂い続ける君が未来にも居ることだろう。今という時間を憂うということ意外の、もっと価値があることに使うべきではないかね。今日の君の質問は愚問中の愚問としか言えない」とおっしゃられた。
 今の時を憂いに費やすことを戒め、人生において問うべき価値のある問いを問えという教えである。若い頃の私には、とても印象に残る指導であった。

 藤井先生との対話による学びのエピソードは、また次の機会に書き足して行きたいと思う。
(2007/6/28) m.kajiura

「よく問う者ほど よく学び」

★知という文字は、解字によれば「矢を神前に供えて、神意を言葉(口)で尋ねる」という行為を、象形化したものだという。そう考えてみると、知るという行為や知識は、「尋ねる、問う」という行為と密接な関わりがあると言える。知識は書物や他者、あるいはネット社会の中に蓄積され続けていく。この社会に埋蔵されている知を引き出す行為こそ、「問う」という行為だ。

★現在、社会に蓄積されている知識も、その根元には「問うという行為」を必要とした筈である。雷は何から出来ているのか、子どもの発達はどの様な心理的メカニズムによるのか、人体の構造はどの様になっているのか等、「問うこと」によって人間の知識世界は広がり、深まって来たのである。「問う」という行為は、知識を知識たらしめる行為であると言っても過言ではないだろう。

★学習の場面においても「問う」という知的探究は重要な意味を持っている。子どもが「問い」を膨らませた時の目は、学ぶ意欲の高まりを象徴しているのである。知識は教えることによっても伝達できるが、「問うこと」によって最も子ども自身のものになりやすいのだ。“自ら課題を持ち”、とは「問うこと」の奨励であり、子ども自身が知に接近して掴み取ることを期待した言葉なのではないか。

★カリキュラムや指導法の開発では、「教える」という行為に焦点が当てられることが多い。これは、主に教師側の意図や行為の開発を目指す営みである。しかし、「問う」という子どもの姿に焦点を当てた実践研究も忘れてはならないであろう。「よく問わせることが、よく学ばせることに通じる」ということは、多くの先生方が経験的に知っていることだ。「多様な状況で適切に問う」「日常的に問いを見つける」という力こそ、知的熟達者として歩み始める第一歩なのである。“よく問う者こそ よく学び”と言えるだろう。(2007/6/21)
デトマール・クラマーに学ぶ

 デトマール・クラマーと言えば、少し前のサッカーファンなら誰しも知っている名前であろう。日本サッカー界の父とも言われ、釜本、杉山らを擁した代表チームをメキシコ五輪で銅メダルに導いた。NHK番組の「その時、歴史が動いた(第291回)」では、「メキシコ五輪 奇跡の銅メダル 〜日本サッカー・勝てる組織作り〜」として、クラマーの指導が紹介されていた。その中で教育にも通じる三つのエピソードが紹介された。

@選手の個性を知る
 クラマーは選手と共に合宿所に宿泊し、夜には選手の寝顔を見て回ったという。なぜ、そこまでするのかと問う側近に、「選手一人一人の個性を知らずして、よい指導はできない」と語ったという。教師は教える内容に詳しいだけではなく、子どもの個性にも詳しくなろうとする姿勢が大切だろう。子どもは自分を知ろうとする者に心を開き、教える者は子どもを理解した分、子どもに寄り添った指導が展開できるのである。
A勝った時に叱り、負けた時に褒める
 クラマーは試合に負けた時は厳しい指導を行い、勝った時にはあまり多くを語らないという。「負けた時は自然と反省もするし、しょげている時に叱っても効果は薄い。むしろ、勝った時の方が、厳しい指導でも受け入れやすい」という選手の心の動きを読んだ指導だ。子どもは教師が指導したことを受け入れやすい状況と、そうではない状況の時がある。子どもの今を掴んだ指導こそ、効を奏する指導だといえる。
Bティーム力で成果を挙げる
 東京五輪で、日本代表はアルゼンチンを3対1で下すという、大金星を挙げた。選手個々の技術、能力で上回るアルゼンチンに対してクラマーが取った策は「相手の技術を封じるコンビネーションプレー」であった。個々の力では負けていても、ティーム力を高めれば強い相手に勝つことができる。
 
 また、メキシコ五輪での釜本のゴールも、練習を重ねた杉山とのコンビネーションプレーであった。他者との関わりの中で生きざるを得ない子どもも、教師組織もティームワークによって個の力を超えた成果を出すことができるのである。
 教育もスポーツも人間を対象にした営みである。クラマーが人の心を掴める“人間通”だったからこそ、歴史を動かす成果を残せたのであろう。(2007/6/10)
実践の価値と「論」の関係

 授業を考える視点は、大きく分けると二つの視点がある。一つは「論としての視点」であり、もう一つは「実践としての視点」である。論としての視点から見た教育や授業は、一般化された趣旨として記述される。

★例えば、「子どもの個性や能力に応じたきめ細かな指導が求められる」という論があるとする。この論は、確かに正しいかもしれない。しかし、この「論」を実践に生かそうとすると、更に前提となる「論」が必要になる。「個に応じたきめ細かな指導をするためには、子ども個々の学習の進捗状況やつまづきを把握する必要がある」という様な論が必要になってくるのである。この「論」を実践化するためには、更に前提となる「論」が必要になる。
 「子ども個々の学習の実態を把握するためには、テストの結果だけでなく、授業中の子どものつぶやきや表情、発言や行動なども評価をして行く必要がある」、加えて、「子どもの学びを捉えるには、評価規準を設定したりルーブリックを作成する。学力の変化や時間経過なども把握しておく必要がある」という様に、更に前提となる「論」を必要としていくのである。

「論」は一般化された趣旨であるが、「実践」は個別で特殊な現実 である。実践の場では教師の指導スタイルも違えば、子どもの置かれた状況や抱えている問題も多様だ。「その学級の、その子どもの、その時の状況」という個別で特殊な状況の中で、教師は実践を進めているのである。一般化された趣旨という性質を持つ「論」と、個別で複雑な状況を含む「実践」に乖離を感じるのは、論と実践の置かれている次元が異なるからであろう。誰も批判ができぬ正論を聞き、納得をしたとしても、実践に繋げようとした途端に論の確かさ=リアリティが失われて行く様な感覚に囚われたことは誰にでもある筈だ。「実践」は「論」と異なる次元で、非常に複雑な現実に対処する高次の能力を必要とする営みなのである。そこに、実践としての価値の高さや尊さがある。

★では、「論」が不要なものなのかというと、そうは言えない。多くの優れた実践家は、必ずと言って良いほど「自論」を持っている。「論」を持っているからこそ、「実践」に繋ぐ道を創ったり選んだりすることができるのであろう。「論を持ち、論を磨きながら、実践に向かって実用化する力」は指導力の機軸となる資質ではないか。子どもの学力も、基礎基本から活用の力に向かってシフトしているが、教師にも論と実践に向けて実用化する力が求められているのであろう。同時に、優れた実践の中には「論に結晶する高次元の知」が潜んでいるとも言える。「論を実践に下ろす」というが、「論を実践に上げる」には、教師の高い知性を必要とするのだ。優れた実践の中に潜む知を、見つけ合い、活かし合うことにも大きな意義と価値がある。(2007/6/6)

※「アドバイスを聞くことは大切だけど、もらったアドバイスを生かすことがもっと大切だと思います」とは、授業中の子どもの発言である。この子どもは、論を実践化することの重要性に気が付いたのであろう。
知に向かう姿勢と指導

★先月31日(昨日)、福岡教育大学福岡小学校で授業を拝見する機会があった。授業のスタイルは教師によって様々である。しかし、授業の共通点は「子どもの知」に対して、教師が強い関心を抱くという点にあると感じた。

★授業中の子どもの気づきや意見は、全てが的を射た内容だとは限らない。焦点があいまいな意見であったり、必要な情報を欠いている発言も多い。同校の教師は、そうした子どもの発言に強い関心を持ちながら、授業を運んでいく。教師が子どもの知に向き合うことで、子ども達は「考える行為の価値と意味深さ」に気がついていくのである。

★学びには直接的に知識を教える伝達の学びもあれば、教師が知に向かうスタンスを伝えていく学びもある。物事を常に考え、深く思う子どもを育てる上で、「教師自身が知を重んずる姿勢」は極めて重い意味を持つのであろう。

★書物の中にある知は勿論、人の中にある知にも関心を持つ。子どもの外にある知と内に生じた知を結びつける姿勢こそ、教師の基本的な資質だと感じさせられた実践であった。(2007/6/1)
ノウハウを活かすチカラ 

 ノウハウやQ&A情報は、一見魅力的だ。ノウハウ本を読めば、問題は雲散霧消するかの様な期待を持つ。「こうすれば学力が伸びる」「いじめを出さない学級づくり」「心を育てる教育のコツ」等、ノウハウ本が巷に溢れているのは先生方が解決したい問題を抱えている現れである。
 こうしたノウハウ本やQ&Aには、問題に対する救いのヒントが潜んでいる。「潜んでいる」と書いたのは、書籍に書かれていることは一般化された論であり、論を実践化する作業は教師に任されているからである。
 ノウハウやQ&Aのアンサーは、個別の状況にそのまま適用することが難しい。一般化された論は、複雑なシチュエーションを捉えきれないのである。ノウハウ本を読んで実際の問題に適用するには、教師の読解力と活用の力を必要とする。ノウハウはそのままでは役立たないかもしれないが、教師の活用力によって子どもや教師自身を救う力を発揮する。
 子どもも教師も「知の活用力」があってこそ、ノウハウを実用の智に換えられるのではないだろうか。
(2007/5/5)
ファミレスでの会話

 4月早々のあるファミリーレストランでの会話である。

祖 父「先生と言うのはなぁ、色々な事を教えて下さるんだぞ。だからな、尊敬せねばならないよ」
子ども「尊敬できないよー。男の子と女の子で全然態度が変わるし・・・」
祖 父「先生はな、神様ではない。だから失敗することもあれば、すること全てが正しいとは限らない。でも、先生か     ら学ぶのだから、先生を尊敬せねばならんよ」
子ども「教え方だって下手だし、わかったね、わかったね、ばっかりが多すぎる」
祖 父「それは、先生だってわかったかどうか確かめたいだろう。しょうがないことだ」
子ども「そんでね、校長先生が来た時だけは、やさしく丁寧な授業をするの。そういう表裏があるのはは良くないこと     だと思うよ」
祖 父「それは学校だけのことではないよ。世の中とはそういうものなんだ。だからといって、先生をばかにしてはい     けないぞ」
子ども「無理ー。先生を尊敬するなんて絶対に無理」
祖 父「お前の気持ちはわかるが、それでも先生に対してはな・・・・・」

 延々と、子ども(孫)と祖父の語り合いは続く。傍らに居る祖母は静かに二人の対話を聞いている様だった。祖父の見方は保守的であり、子どもの見方は現実的で自分の都合を中心にした考え方なのかもしれない。しかし、身近に異見(異なる見方)をしてくれる大人がいる子どもは幸せである。自分の考えを持つことは大切だが、他者の考えと接する機会が無ければ子どもは独善的な考え方を強めてしまう。保護者は勿論、大人が子どもと関わることで、子どもに多様な考えがあることを教えて行きたいものである。(2007/4/19)
コウガクリョクあれこれ
 
つい最近、次の著作の執筆を始めた。教育再生会議や中教審の出方も気になるが、昨年一年間で学校や子ども達から学んだ事をまとめるつもりである。テーマは「公学力の創造」だ。この本の中で、子どもの学力領域の広がりについて触れてみた。学力というと、高いか低いかという高低のモノサシで語られることが多い。しかし、学校での学びを見るたびに、公教育の目指している学力は、高低だけでは語れないと感じる。先生方が日々工夫しながら指導をしているのは、幅広い豊かな学力を育てようとしているからなのではないか。
@高学力=高い知識 
A広学力=広い領域への知的好奇心
B幸学力=幸福に向けて自己実現を図る力 
C好学力(向学力)=学びに向かう態度 
D興学力=自分の学びを興す力
E考学力=考えることを好む力 
F恒学力=日常の中で学び続ける力 
G肯学力=学びを肯定的に捉える態度 
H巧学力=知識を巧みに使いこなす力 
I交学力=他者とかかわる力 
J効学力=効率よく合理的に考える力
K公学力=総合的な学力(知性)/公教育で育てる力=人格の完成を 目指す知性を育てる
 言葉遊びではあるが、意外と公教育で目指している学力の本質に繋がっているのかもしれない。

(ちょっと遊びが過ぎましたか??静東の倉澤先生)。2007/4/6
「学」の中の二人

 哲学の世界に現象学という新しい思想をうち立てた、フッサールという哲学者がいる。この現象学が20世紀の思想世界に大きな影響をもたらしたことは周知のとおりである。この、フッサールの自宅には、「甲冑を深めにかぶり、雨の中を行く騎士」の絵が掛けられていた。「学問とは、非常に厳しい環境の中でも、ひるまずに一人で戦い抜く様なものである」という、フッサールの学問観を象徴した絵だと言われている。学問に究極の厳密さを求め続けたフッサールの姿とも重なり合う絵だ。
 「勉強」という言葉は、一人で黙々と机や資料に向かうという姿を想起させる。一生懸命勉強をするという場合、誰かと共に学んでいるというイメージは浮かびにくい。受験勉強などは、正に孤独な戦いであるかの様に見える。勉強とはそれほど孤独なものなのであろうか。
 「学」という文字の旧字体は「學」である。漢語林の解字によれば、冠上にある××の部分は、教える先生と教わる子どもが交わるという意味を持っているという。学という文字には、先生と生徒双方が含まれていたのだ。学は一人だけで完成できるものではないのであろう。
 いよいよ新年度が始まった。先生と子どもが交わり、その関わりの深さによって「学び」が深まっていく。人と人が関わりの中で学び、関わり合うことも学ぶ。学舎とは、そうした社会的土壌を基盤にして教育を行う場だと言えよう
(2007/4/5)
清水小学校の実践的研究に学ぶ
 先頃、静岡県の清水町立清水小学校から「校内実践/研究」の資料が届いた。同校の研究は、以前「学べる力を伸ばす授業」の中でも紹介させて頂いた。子ども一人一人に寄り添いながら、教師が協働して子どもと授業を繰りかえし検証して行く研究スタイルから学ぶことは多い。今回頂いた研究実践も、子どもと学びがノンフィクションのドラマを構成しており、内容は圧巻である。以下、同校にお送りした感想を紹介してみる。

「見る目」と「聞く耳」の協創

 企業の会社案内を見ると、「顧客本位」という文字が頻繁に登場する。顧客あっての企業であり、企業のために顧客が在る訳ではない。それでも、敢えて「顧客本位」を掲げる理由は、様々な企業の不祥事を見れば説明の必要はないだろう(顧客の存在が当たり前になってしまうと言うこと)。
 
 では、学校ではどうだろうか。「子ども主体の学習」の必要性が声高に主張されてきた。しかし、誰が学びの主体かという主体の配分ではなく、「子ども本位の学びを展開する」ということが、学校教育の要なのではないか。子ども本位の学びを構想する教師の主体も、学びの場を構成する極めて重要な主体である。
 子ども本位の学びを展開する上で、欠かせない土台であり柱が「子どもを理解する態度」であろう。子どもの発達や成長は、学問的な一般法則では語ることができない。子ども個々の成長や発達は、実に個性的なのである。そして、切実な思いを持って生きているということを、清水町立清水小学校の研究資料は教えてくれる。
 
 漁師は不漁に陥ったとき、“魚に聞くこと”で解決策を見出すという。しかし、魚に聞くには、魚に聞く態度と専門的な知識を必要とする。魚に喩えることは子どもに対して不遜なことかもしれないが、子どもの頭と心の動きを見取り声を聞くことが、学習を成立させる上で大きな指導資源となることは間違いないだろう。
 子どもの声は誰にでも聞こえ、見るだけなら子どもの姿を見ることはできよう。だが、子どもの声を「聞く耳」、子どもの姿を「見る目」を持たなければ、子どもの育ちや命を見つけることは難しい。教師同士が自分の見つけた子どもと、その視点を共有しながら、相互に「聞く耳」と「見る目」を創り合う。個々の教師の発見を、教師全ての思考と指導の資源に変えて行く。
 
   「生きるとは順番通りの筋道を追うことじゃない。
               プロセスの発見ということだ」
  澄魚
 子どもの育ちのプロセスと学びのプロセスを繋げ合う。そうした、「子ども本位の学び」に本気で取り組むスタンスが、清水小の実践を貫いている。

                                 梶浦 真
PISA調査を超えて
 
日本のカリキュラムの肥大化は止まる所を知らない。“必要”という名の下に、次々と新しい学習が誕生していく。その代表格が「PISA型読解力」である。PISAの読解力調査による順位の後退によって、読解力を伸ばす学習の必要性が各方面から指摘された結果であろう。PISAの読解力調査は国語のテスト問題とは質が異なる内容であり、国語学習の充実だけでは対応がしにくい。そのため、PISA型読解力に対応した、新しい読みの学習を導入する学校が増えているのであろう(更に、深く見ればPISA調査において、数学的リテラシーでも科学的リテラシーで足を引っ張っているのは自由記述を要求される部分である。自由記述で書くというテストの形式に慣れていないのだとも考えられる。単純な読解力だけの問題に還元してしまうことも、問題があろう)。
 しかし、PISA調査では新しい調査領域が次々と追加されていくのである。「ICTリテラシー教育」、「ソーシャルスキル教育」、「市民教育」 などが今後の新領域として追加される予定になっている。そうなれば、ICTリテラシー学習や、対人能力育成学習、基礎的市民能力育成学習など、どんどん新しい学習領域を追加していくことになるのではないか。人間に必要な能力を、あれも、これも、と追加していくことで、本当に質の高い知性を育てることができるのだろうか。もう少し、ダイナミックなまとまりとして、人間に必要な能力と学習を捉える必要があるのではないか。 そうした、まとまりのある考え方の一つが「クリティカル・シンキング」という能力の育成である。
 クリティカル・シンキングは「批判的思考力」と訳される。「批判的思考力」の定義は明確ではないが、「あらゆる情報を賢く読み説き、活用する能力や態度」と考えて良いだろう。「読解」というと、与えられた資料の中から必要な情報を引き出していく受動的な判断力というイメージが強い。だが、「批判的思考力」は、あらゆる情報に対して賢く受け取り、賢く判断し、賢く発信する能力を含んでいる。
・情報を鵜呑みにせず、論理的に考える・物事を複数の見方で見る・自分の考え方に偏りがないかどうかを疑う・情報を理解するだけでなく、どんな意図を持った情報なのかを推察する・そうした「賢い情報のふるい」が、「批判的思考力」である。批判的思考力は記述された情報だけでなく、コミュニケーション場面でも相手の意図を読みとったり、相手に自分の意図や考えを効果的に伝える方法を考える力でもある。(2007/3/12)
学ぶスキルと学びの価値
 
 教育に限らず、世間では「スキルを身に付けること」が流行している。「ソーシャル・スキル=対人関係に関わる技能」「スキルタイム=読み、書き、算数のドリルタイム」「ビジネス・スキル=仕事に必要となる技能」など、スキルの獲得は社会を有利に生きることと直結している様にも見える。しかし、教育の世界で「スキルの獲得」にばかり目を向けることには問題もあるのではないか。スキルを中心とした学びも必要だろうが、学びの価値を実感する学びも欠かすことができない。
 スキルの獲得を目指す学びは、知識や技能を身に付けるため、直接的な方法で学習をして学んで行く。計算問題を解くことで、計算力を伸ばしたり、ボール投げをすることでボールを投げる能力を伸ばしたりする学習である。
 一方、「学びの価値を感じる学び」は自分が体験したり、考えたりしたことを自分なりに意味づけ、それを、智慧として自分の知性に織り込んで行く様な学びだ。学び方を学ぶという場合にも、学び方のスキルを学ぶ学びと、深く学ぶ経験を通して学びの価値を学んでいく学びがあるのではないか。 
 「スキルを身に付ける学び」はスキルを使うことによって、効率よく課題を解決してゆく力を身に付ける。「学びの価値に気付く学び」は、人生を歩む中で出会う人や状況、情報などから学ぶべきものを掴み、自分の学びを創っていく能力を身に付ける。
 この「二つの学び」は人生を知的に生き抜いていく上で大切な資質・能力だと言えるだろう。以前紹介した阿字ヶ浦中の生徒は「ただ、調べるだけでなく、疑問を持って調べたことを役立てるのが学問だ」と言う。総合に取り組んだ中学生が語ったこの言葉には、調べるスキルの大切さと、学びの価値の実感の双方がが含まれている。スキルの価値は、使用の目的を持つことによって、真の価値を帯びるのであろう。(2007/3/3)
学欲格差と他者の意欲

 保護者の意欲の格差が、子どもの意欲の格差に繋がる「インセンティブ・デハイド(意欲格差)」という言葉が近年非常に注目されている。東京大学の苅谷剛彦氏は、保護者が学歴に対する必要性を強く感じているほど、子どもの学力も高くなる傾向を示すと指摘している。一方で、学歴にそれほど固執しない保護者では、子どもが学校での業績を上げることから安易にリタイヤしてしまい、学歴に否定的な考えを持ちやすいという。子ども本人ではなく、“保護者の意欲が子どもの学欲に大きな影響を与えている”という見方には強い説得力がある。
 フランスの哲学者ルネ・ジラールは1970年代に「欲望は他者から模倣するものだ」という主張をしている。これは、主体が何かを欲するから意欲が生じるのではなく、他者が“それ”を欲するから“それ”に向かう意欲が生じるという考え方だ。誰かが欲している“もの”を媒介として、自己に意欲が生起する。他者・対象・自己という三項の関係が意欲を生み出すことから、「欲望の三角形」と呼ばれる。
 教育においては、主に学習者と学習の二項関係で学欲が捉えられてきた。しかし、意欲が他者との関わりと関係するとすれば、保護者の意欲だけが子どもの意欲を決定づけるとは言えないだろう。学ぶことが好きな友だちやライバルの存在、あるいは知識欲が旺盛な教師や学ぶことが好きな教師の影響もあるのではないか。子どもの主体性は自ら生み出すだけでなく、他者からの触発によるところも大きい。意欲的な人間に育てるには、充実した他者との関係性を体験できる環境が必要であろう。人と人のネットワークの中でこそ、意欲の育つ土壌が構成されていくのである。(2007/2/21)
教育再生会議への疑問

教育再生会議の主な提言と疑問
1.ゆとり教育を見直し、学力向上
授業時間10%増/教科書の頁数増=授業時間を多くして、教科書を厚くすると学力が上がる?。大衆学力論 の 典型。ゆりとり教育VS圧縮型教育という対立を避けるため、、「みのり教育=子どもも教師も充実感を持てる教 育と学習」の様なネーミングが欲しい。
習熟度別指導の拡充=学力格差、学欲格差は一層拡大するでしょう。囲われた繭(等質文化)に子ども集団を  切り分け、孤別指導ばかりが先行すると、子ども間のコミュニケーション阻害も問題になりそうです。
学校選択制の導入=同上。学校間格差が固定化し、一度不人気に陥った学校ではなかなか人気回復が難しい 。人気取りのために、塾的な少人数指導や個別指導という大衆学力観に基づいた学習が展開されることになる。更 に、選択できる学校が地域に無い過疎地域ではどうするのか。

2.学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする
24時間電話相談の開設=自殺予告を突きつけれた文科学省と同様の状況に学校が陥る恐れがある。学校側  に対応できる人的ゆとりがなければ、相談をした子どもも周囲の子どもも負の影響を被る可能性がある。その他、 相談員の人材確保や適性の問題、メンタルケアなど、付随する問題が沢山出てきそうな気配。 
出席停止制度を活用=出席停止の善悪ではなく、その適用が問題となろう。どの程度の問題で出席停止とする   のか、実用的な適用のルールが構成されるまでには時間を要するであろう。

3.すべての子供に規範意識を教える
道徳の時間の確保と充実=道徳教育は人間教育の根幹と大きくかかわっている。但し、保護者や教師自身の  行動改革を伴わなければ、教育効果は薄いであろう。
高校での奉仕活動の必修化=奉仕活動から何を掴ませるか、掴んでもらうかが肝心。「終わったからもうしなく ていい」と言うのでは、教育にならない。

4.魅力的で尊敬できる先生を育てる
社会の多様な分野から大量に教員採用=試用期間を長めにとって欲しいものである。子どもと学びに向かって  継続した努力ができる人、人間音痴ではない人を採用したい。
優秀な教員の優遇=競争に参加したい人はどんどん参加し、参加したくない人は給与が下がっても競争には参加 しない。市場原理だけでは公の組織を活性化することは難しいであろう。
指導力不足の教師を厳密に特定=評価規準の適用に問題が残るが、社会や学校の状況か ら見れば導入やむ なしか。指導力だけでなく、著しく社会性に欠ける場合などはどうするのか。
免許更新制の導入=何を規準にするかが問題。形式だけでは時間と金の無駄になり、ペーパーテストでは教師  として真のパフォーマンスは見えてこない。実践、実績の検証が 為されない更新制度は意味があるのかどうか   疑問が残る。

5.保護者や地域の信頼に真に応える学校にする
教育水準保障機関による外部評価=イギリス型を踏襲する模様だが、新年早々に本家イギリスでは成果に疑 問を投げかける研究結果が報道された。「評価をすれば良くなる」 という、工業生産的発想だけで学校力が伸びる のか疑問が残る。「改善したい」と言う、 学校内部のモチベーションアップに繋げる評価にしたい。
管理職に外部の人材を登用。数値目標の重視=外部にも適した人材はいるだろう。しかし、数値目標の重視  は点数稼ぎを目指した教育の形骸化を起こす恐れがある。進学率を上げる=必修教科の未履修などに繋がらない ことを願う。社会的地位や知識量の豊富さだけではなく、「人間通で教養の深い人」を選んで欲しい。

6.教育委員会のあり方見直し
教育委員会の外部評価導入=評価して良くなるものなら・・・
教職員の人事権を移譲=人事構造の改革は必要だろう。セオリー通りの人事ではなく、学校組織を生かす人事   が必要。
 
7.社会総がかりで子供の教育にあたる
●これは・・・提言をするだけなら、誰でもできる。一番、具体的な対応が難しい部分であろう。
(2007/2/5)
他者に育てられる体験の瞬間

 私は、子どもの頃より知力体力共に、年齢の平均を大きく下回っていた。早生まれであったとも関連しているのかもしれない。更には、極めて虚弱な体質であったことも影響しているのだろうか。そんな私に逞しさの芽を育ててくれたのが、母の実家の持つ豊かな環境であった。白神山地にほど近く、母の親戚や従兄弟も多い。自然と人という、人育ての環境が共に揃っている場所であった。小学生の頃は、夏休みの大半をここで過ごした。
 白神山地の麓は急峻な勾配がそのまま海に落ち込み、渓流がそのまま海に流れ込む様な地形である。海中でも渓流の魚を見ることができる不思議な世界であった。ところが、体力に自身を持っていなかった私は、なかなか磯の海に飛び込むことができなかった。真っ青な海の中には何が潜んでいるのか、興味は尽きなかったが、いつも岩の上から海を眺めていることが多かったのである。磯であるため、海のそこここに岩や小島が顔を覗かせている。元気な地元の子ども達は、岩から岩へ、島から島へと泳いで渡っていく。
 そんな、子ども達の姿を眺めながら、私はいつもの様に岩の上に座り込んでいた。「なぜ、海に飛び込まないのか?」。その声に後ろを振り返ると、叔父のTが立っていた。「プールよりずっと深いし、何がいるかわからないし・・・」。すると、叔父は私を抱き上げて、海の中に放り投げたのである。一瞬何が起きたかわからなかったが、立ち泳ぎをしながらあわてて水中眼鏡をかける。海の中を覗くと、竜宮城を超えた魚の世界が拡がっていた。深さは10メートル以上はあるだろうか。しかし、海の底までしっかりと見て取ることができた。この体験以降、私は海を恐れる気持ちが雲散霧消してしまった。
「そうか、想像しているだけだから怖かったのだな。やってみることで怖さが消えるのか」。
そんな事を考えたことを今でもはっきりと覚えている。やがて、磯向かいの岩に登り、自分が座っていたいつもの岩を
眺めた。泳いでいた時は感じなかったが、意外と距離がある。
(実際に“体験”をした場所)

「こうして、超えられなかった場所を超えて行くことが、大人に近づくことなんだな」。漠然とそんなことを感じていた。以来、母の実家に帰ると、度々この岩を見に行く様になった。私を海に放り投げた叔父は、この春、癌で他界した。しかし、自分に小さくも重要な進歩を残してくれた体験と、その時にわき上がってきた考えは一生忘れないであろう。 書物の中から引き出された意味や答えではなく、正に人と自然による関わりから生まれた貴重な悟りであったのだと思っている。(2007/2/1)
過熱する「量的学力観」と騙される大衆

先日、電車の中で「世界の子ども達は勉強をしている」という、大きな広告の文字が目に入った。
その脇には「OECDの調査では、イタリアの子どもは一週間の家庭学習の時間が12.8時間を超えている。日本の子どもは6時間弱。世界最低レベルの学習時間だ」という解説までついている。この広告を見た一般の方は、「だから、学力が落ちるんだ。もっと勉強をさせなくてはダメだ」と感じるのではないか。学習時間を増やせ、内容を増やせという圧縮型の教育に向けた世論づくりはこうして進んでいく。だが、同じOECDの調査結果を見てみると.

日 本 イタリア
読解力  14位 29位
科学的リテラシー 2位 27位
問題解決能力  3位 31位
数学的リテラシー 6位 31位
教員一人あたりの児童数 28.8人
18人弱
  
という結果になっている。日本より沢山の時間勉強をして、日本よりも遙かに小人数で学んだ結果がこれだ。上記の広告は長い時間勉強をさせることが、あたかも素晴らしい教育方法であるかの様な印象を与えている。だが、長時間勉強をしたからと言って、学力の高さとは結びついて行かないという現実をOECDの調査は示している。
 更に、学力比較のデータで見れば、イタリアでは学力が極めて低いグループの割合が、日本よりも遙かに多いのである。それでも、長時間勉強をさせることが学力向上の最善策だと主張するのは、長時間学習に対する信仰でしかかない。短い少年期を勉強体験偏重で育った子どもは幸せだろうか。もう一度「よい教育の本質」を問い直してみたいものだ。(2007/1/25)
教育再生会議と旧学力観の再興
〜歪む教育、潰される教師〜

 教育再生会議での議論が様々な反響を呼んでいる。どうやら、学力に関する議論では、東アジア型の圧縮/積算型の教育に舞い戻ることで、対処していくことになるらしい。沢山教えれば沢山学ぶ、教師の業績は評価したり競争させれば伸びるという、実に単純な発想である。会の名前が「再生会議」だということは、当所から過去の教育に戻すことがねらいだったのかもしれない。授業時数を増やす、教師の能力を評価するということで、果たして学力は伸びるのだろうか。増やした学習時間でどの様な学びを行うのか、教師を伸ばし、エンパワーメントする評価はどの様な方法で行うのか。こうした、本質的な問いが問われぬまま、安易でわかりやすい方法論を教育に持ち込むことは賢い選択とは言えないだろう。
 量の増大と方法至上主義に頼るという単純な思想は、大衆に指示され社会の中で共鳴しながら拡がってゆくのである。おそらく大衆や旧教育の信奉者は、「少ない内容を豊かに教える」ということなど、想像もつかないのであろう。長時間で沢山の事柄を教え込めば学力は上がるという視点でしか、学習を捉えることができないのである。
 かつて、昭和50年代に教育学の世界では、量から質への転換が盛んに主張された。それまでの学力観・発達観が「量の加算的増大」のみに向けられていたことへの反省である。一般的には、できないことができるようになる、一つの解法ではなく二つの解法を覚えるという加算的側面だけが発達として捉えられてしまう。「発達は学習の総和ではない。発達は単なる量的増大ではない。これからは、知識の構造化など質的に発達を捉えなければならない」とは、昭和50年代の中内敏夫氏の指摘である。しかし、そうした主張もむなしく、今、再び量的加算的な学習観に舞い戻ろうとしている。
 更に、知識の量がなければ、質も高まらないという非現実的な発想も広がりを見せている。子どもの学ぶ様子を観察していると、「今持っている知識を活用したり、そこから発想できる子」と、そうではない子どもがいる。それは、知識を教えるだけでなく、ある知識を活用する学力を育てる必要を示しているとは言えまいか。人間の知性は記憶だけでなく、“今ここ”から発想する力も重要なのである。むしろ、実生活ではその場で智慧を創る力が大きな意味を持つ。
 学校や教員に対する評価の方法や効果にも疑問が残る。教育評価の先進国であるイギリスでは、Independent紙に「主要教科の授業に子どもが退屈している。基礎学力が殆ど伸びていない。学力格差は全く改善されていない」という研究が報道されたばかりである。“改革や再生”という言葉の勢いにまかせ、「よい教育の本質」が不問とされてしまうのは残念なことだ。内容と時間と評価の強化増大によって、日本の教育界が潰れてしまうことは避けたいものである。その被害は、全て子どもが背負うのだから。(2007/1/23)
PISA型学力への拡張と「協働」

 「平成19年度全国学力・学習状況調査」の問題例が文科省から公開された。興味深いのは、国語も算数も「知識」と「活用」という二つの出題領域から出題されている点だ。「知識」を問う問題では、正しい漢字の適用や、比較的単純な計算で答えが導ける内容が出題されている。この部分は、今まで「基礎学力」と言われてきた領域での出題だと言える。漢字のドリルやワーク、計算問題をこなしていればさほど難しい問題ではない。
 一方、「活用」では、文章の中から問題の設問に必要な情報を選んだり、表やグラフなどの中から問題を解くために必要な数学的情報を選択・判断して行かねばならない内容になっている。例題を見る限り、PISA調査と非常に近い出題傾向だと言える。
 また、「基礎と応用」ではなく、「知識と活用」という知識領域の設定にも意図を感じる。「学校教育において学習することは日常場面に適用できることも含めて基礎基本である(問題作成と質問紙調査に関する意見の整理)」という、知識を活用する力も学力の基礎と捉えた点は、基礎学力観の転換を図ることを意図したものであろう。
 これまで、基礎知識は応用力に先行する学力だと考えられて来た。これは、まず概念的知識(わかる)が先行して、手続き的知識(できる)様になるという、かなり古い学力観に根ざした考え方である。わかる+できる=学力という学力観は、@わかるしできるAわかるができないBできるがわからないCわからないからできないという、「理解の四領域(ハイバート&レフィーバー/1986)」の学説が拡がったものと思われる。基礎知識の獲得が先行する学力であり、応用は後発の学力だという捉えは、わかりやすいが現実の学力とは異なっている。
 基礎学力はこれまで、建物にたとえられることが多かった。建物の基礎がしっかりしてこそ、その上に応用という高度な建築物が建つという重層的学力観である。それ故、基礎構造を支える地盤の力や、基礎構造の材料が木であるか鉄であるかという様な質的問題は不問にされてしまったのである。その結果、大衆は「土台と建物」という省略された単純な学力構造に疑問を感じなくなった。
 基礎的な知識も学力の基礎には違いないが、活用の基礎的な能力も学力の基礎である。一年生が学ぶ算数は数学の基礎的知識であり、同時に基礎的な知識を活用する能力の基礎も学力の基礎である。最近の研究では、「わかる」が先行し、「できる」が後に位置するのではなく、「わかる」と「できる」を往復することによって、双方が完成をしていくという見方(B.ritte/2001)が主流になってきた。今回の学力テストは、知識の活用力の基礎的能力も基礎学力だということを示しており、基礎学力観の変更を迫るものだと言えよう。
 更に、今後は「わかる」+「できる」に加え、「他者との関わりの中で知識を実用する」という、社会的文脈での活用能力も含めて「基礎学力である」といわれる時代が来ると予測する。建物の基礎に例えれば、基礎工事をする作業者のチームワークや設計者と作業者の連携がこれにあたる。筆者の言う「協働学力」も、そうした社会的な知の活用能力を意味している。独りでわかることもあれば、共にわかるという「わかる」もある。学力の基礎は、昔も今も変わらないという俗説は徐々に影を潜めていくであろう。(2007/1/16)
教育言説の脱皮

 「好好学習 天天向上」という言葉は、かつて中国の学校に掲示されていた標語だ。文革の頃、毛沢東が子ども達に贈った激励のメッセージだと言われている。「一生懸命勉強をしよう。そうすれば、毎日向上する」という意味を持っている言葉である。「一生懸命勉強をする」という子どもの姿が、学力向上と直接に結び付いていた標語だと言えよう。
 「多くの内容を、沢山反復させ、長時間学ばせると学力が上がる」という、量的な教育観は極めてわかりやすい構造を持っている。「沢山反復させる=沢山覚える」「大量の知識を教える=大量の知識を学ぶ」「長時間学ぶ=学習に習熟する」という、学習量最善論は昔の中国のみならず日本でも抜群の人気を誇っている。有識者と言われる人の中にも、この主張を声高に主張し続ける人が多い。最近のマスコミに見られる有識者の提言にも、
@ドリルなどを使い徹底した反復学習を行う
A少人数、習熟度別学習を徹底する
Bより多くのことを教える
という三つの項目は必ずと言って良いほど含まれている。大衆の支持を得やすい言説だといえよう。
 こうした、有識者と言われる教育素人の発言は、わかりやすいだけに危険である。百マス計算を代表とした反復ドリルが数百万部も売れ、計算ドリルのソフトも爆発的に売れた。漢字ドリルのソフトも、発売2ヶ月で55万本が売れたという。もしも、この反復学習に圧倒的な効果があるならば、既に日本の学力問題はとっくに解決されている筈だ。しかし、百マス計算や脳トレーニングが、どれほど日本人を賢くしたのであろうか。更に、日本の発展は寺子屋教育に支えられていたのだから、寺子屋時代の教育に戻すべきであるという暴論まで登場している。リテラシーの基礎的能力と知識の基礎を同一視すると、この様な「寺子屋学力論」に陥ることになる。「現代における基礎学力とは何か」を
検討せず、無闇に過去の教育を信奉する有識者は、自らの知が古めかしくなっていることに気が付いていない。大衆の人気を得やすい情報をばらまいているマスコミ組織も、クリティカルな判断ができていないのである。
 そもそも、長時間の勉強、教える内容の高度化・大量化、反復回数を増やした学習、個別指導の徹底で学力問題が解決するのならば、学力向上策はそれほど難しい議論を必要としない。学習の「量」をどれだけ増やすかを議論し、実践に移していけば学力低下問題は解消される筈である。しかも、漢字は必ず20回書かせる、計算問題は類似問題を20問以上計算させるというような、法則化も簡単であろう。
 ところが、「量頼みの教育」だけでは学力問題が解決することはない。「反復学習が有効な時期・状況の子どもとそうではない子どもを区別せず、反復学習をさせる」「知識のインプット=知識のアウトプット」など、軽薄軽率な学力観では子どもの知性を育むことが難しい。「革新に必要なことは、前世紀の終わりに作成され、大衆が強調する暗記学習ではなく、協同的な問題解決能力を伸ばすカリキュラムである(バルミザーノ・レポート)」
 量的な解決だけではなく、量の中身(配置や関連)、質的な部分に着目した、新たな解決策で学力問題を考えて行きたい。「好好学習 天天向上」も、“好い学習をすると、学びの意欲が向上する”と、現代流に読み替えたいところだ。

※ リテラシー(literacy)とは、汎用性/実用性を伴った知識と言える。 語源のlitteraは英語の「letter“手紙”」の語源に同じ。大卒で識字率が高いにもかかわらず、「電話がとれない」「仕事上の手紙を書く言葉が見つけられない」など、社会で知識の活用ができないのは文字に対する知識が足りないのではなく、リテラシーの不足だと言えよう。
「ヒドゥン・カリキュラム」の脅威

 「人の話をよく聞きなさい」と言う、大人が子どもの話をよく聞かない。「本を沢山読みなさい」と言う大人が、本を読まない。「悪口やいじめはいけません」と言う大人が、悪口を言ったり他人の足を引っ張るようなふるまいをする。「みんなと仲良くしようね」と言う大人が、誰かを仲間はずれにする。「正義や倫理が大切だ」と言う大人が、正義や倫理を守らない。「言い訳をしてはいけません」と言う大人が言い訳をする。「勉強をしなさい」と言う大人が、勉強をしない。「コミュニケーションは大切だ」と言う大人が、あいさつもせずコミュニケーションを回避する。「チームワークが大切だ」と言う大人が、職場組織や地域コミュニティに参加しない。「ずるいことをしてはいけません」と言う大人が、ずるい行為をする。「ねばり強く、面倒くさがらない」と言う大人が、面倒くさがり、何事も長続きしない。「不平不満を口にするな」という大人が、不平不満を漏らす。「子どもには厳しく躾ている」と言う大人が、自分を躾られていない。「夢と希望を持て」と言う大人に夢も希望もない。
 大人は子どもに望ましい行動や考え方を教えようとする。しかし、それを教えようとしている大人のふるまいは不問のまま、「子どもをどう変えるか(指導するか)」という議論になってしまうことが多い。子どもが大人の指導内容を学ぶか否かは、指導内容以上に大人自身の行動や発言に影響を受ける。こうした、特定の形式を持たずに子どもの行動や価値観に影響力を及ぼすのが、「ヒドゥン・カリキュラム(潜在的カリキュラム)」である。
 カリキュラムというと、@目標に向かって内容が系統化され、A目標の実現に向けて教育的経験を選択し、B選択された教育的経験を構造化し、C結果を評価するもの、と考えられやすい。だが、こうした顕在的なカリキュラムを超えて子どもに影響を与えるのが、「ヒドゥン・カリキュラム」である。子どもにとってリアリティーの感じられない指導は、指導の内容や大人の発言以上に、指導をしている大人の姿と指導の内容が一致していないことに起因しているのであろう。大人全てに聖人の様なふるまいを要求する訳ではないが、「大人自身がよりよく」を目指し、最初に挙げた「負の行い」を減じていくことが重要だ。
 子どもは大人社会の縮図を体現しているのである。子どもの問題は子どもを変えるだけでなく、大人自身が変化することを必然的に要求している。「子どもの振りみて我が振りを直す」ということが、いじめを始めとする様々な教育問題の解決に大きな力を発揮する。 学校の教師だけに全てを期待し、責任を追究するのではなく、大人全てに「行動改革」が求められていると言えるだろう。
(2006.1214)

※アレクシス・カレルは「培養液の中で育つ生物は、培養液の持つ性質によって特性や能力が決定される」と指摘している。社会という培養液の中で育つ子どもは、社会の影響を自然と引き受けて育つのである。
優れた授業者の着眼点

 授業者には、様々な授業スタイルがあり、様々な個性を持っている。
しかし、優れた授業の展開や指導を見ると、いくつかの共通点を見つけることができる。

 @子どもを伸ばす教師の言語的思考力(言語マネジメント力)
 A子どもの状況と学習のめあてを繋ぐ分析力/構想力
 B子どもをとらえる視点/観点

という三つの点から、優れた授業を支える「指導の資質」を捉えたのが下図である。



 この三つの視点は、相互に関連をしており個別に機能している訳ではない。
優れた授業者は、子どもにとっての学習を成立させるため、上記の様な能力/技能を駆使しているのであろう。

子どもは本質的に「みつけてもらいたい」という性質を持っている。
子どもは「対話を通して考えを深めやすい」という性質を持っている。
学習にはねらいがあり、ねらいと子どもを近づけることが指導者の基本的役割である。

 こうした子どもの持つ「習性/性質」と「指導者の役割」が上手くかみ合ったとき、優れた授業が生まれるのではないか。(2006/11/28)
「教科と総合の可変的関連性」

 「総合的な学習の時間に教科を関連づけること」が大切だと言われる。これは、教科との関連を示せば、総合が学習としての客観性を高められるという考え方に基づいているのであろう。この考え方は、暗黙のうちに「カリキュラムの構造を決定する」役割を果たしている。教科側から位置づけられる総合は、教科あっての総合というイメージを助長するものだ。反対に、総合で学んだことを教科に関連させるという主張はあまり聞かない。教科と総合が相関しているのであれば、相互に位置づけられても良い筈であろう。
 教科は工学的接近の側面が強く、生活や総合は羅生門的接近(※1)の性質が強い。そのため、理解しやすい工学的接近との関連を持ち込むことで、総合を客観化しようという試みが「教科に関連づける」ねらいなのであろう。
 しかし、「教科が工学的接近であり、総合が羅生門的接近である」「教科はパラグマティックであり、総合はナラティブである(※2)」「収集型か統合型か(※3)」「教科は客観的知識を教え、総合は主体的、能動的理性を育てる」という様な二元的構造は、本当に成り立つのであろうか。むしろ、教科と総合は相互に関連しており、その関連の度合いが学習のねらいや目的によって可変していくのではないか。教科の中にも総合的な学習で求める、自ら考える力や課題設定能力が求められる場面がある。総合の中にも、教科的な知識を使う力が求められる場面もある。 
 教科と総合は、学びの両輪だと言われるが、それは独立した車輪ではない。自動車の車輪の如く、車軸とデファレンシャル・ボックスで繋がれているのである。右、左という車輪の役割をそれぞれが主に担いつつ、右の車輪に力が加わることもあれば左の車輪に力が加わることもある。デファレンシャル・ボックス(差動装置)は教師の学習設計能力を象徴し、同時に子どもの学ぶ実態とそれを見極める教師の目を意味する(図)。

教科と総合は縦線で区切られるのではなく、それぞれが目的とする主たるねらいによって、学びの性質が変化をしていくのであろう。
 下図に挙げた「学習目標の外在性-/内在性」「獲得する能力の総合性/系統性」「カリキュラムの性質」「主知主義的/体験的」という項目も二分される訳では無い。それぞれの学びの主たるねらいを象徴してはいるが、教師のねらいや単元の性質などによって可変していくのである。


 学びの独自性は孤立性ではない。教科、総合が独自性を柱にしながら、学習の目的と子どもの頭の働きに基づく学習を行う。そうでなくては、バランスの良い知性を育むことが難しいのでは無いか。(2006/11/17)

※1『カリキュラム開発の課題ーカリキュラム開発に関する国際セミナー報告書ー(J・Mアトキン)』(1975文部省)
※2 「paradigmatic modeとnarrative mode」(Bruner,1986,1996)
※3 Bernstein.B.B. (1985)
知の伝達と相互作用
 
 知と文化の伝達が教師の仕事の主軸だと言われる。では、どの様な伝達技術が優れた伝達技術なのであろうか。科学技術の世界で言う「技術」は、客観的に高低の判断が付きやすい性質を持つ。それは、「機械工学」「電子技術」「薬品化学」の様に、モノサシとなる知の系統が控えているからであろう。それぞれの分野で、より難易度が高い問題を解決できる技術が、高い技術と呼ばれる。
 では、教師の伝達技術の高低はどこで見極めるのであろうか。教育における伝達技術は、学習者という多様な性質を持つ対象によって大きく左右される。安定した学級で高い指導力を発揮できる教師が、異なる学級では力を発揮できないという事例は珍しくない。あるいは、どの様な学級でも安定した指導力を発揮する教師も居る。学習者の多様な性質に応じられる能力が、教師の伝達技術の重要な部分なのではないだろうか。

 公立学校は入試選抜によって、特定の学力領域の学習者を集めることは難しい。従って、学習者の能力的個性を掴み、学習者の知的個性に応じた指導が求められるのである。格差への対応も、格差の質や量を踏まえてこそ可能になるのであろう。知の伝達は「伝えるべき知の内容と構造に精通していること」のみでは成り立つものではない。「伝えるべき学習者との関係」によっても、知の伝達効率は大きな影響を受ける。

「私も、隣の玄関先で今あなたに浮かんだ妙想のお裾分けにあずかりたいから(アガトン)」
「それあ好都合だろうね。アガトン、智慧というものが、ちょうど盃の水が入っている方から羊毛の糸を通して低い方へ流れ込む様に、われわれも互いにふれ合ってさえいれば、われわれのうちの充ちた方から空の方へと流れ込むものだったら(プラトン/饗宴)」
 
 ソクラテスの指摘は、伝える者には伝える知識の量に加え、伝える相互関係を築く必要を意味している。伝わる関わりの中で、伝えることを伝える。授業とはその様な場なのであろう。(20006/11/6)
「教師の協働と学力」

 先日、都下の小学校で研究授業を行った時のことである。校長室でしばらく話をした後、廊下へ出た頃には6時半を回っていた。そこには紙飛行機を飛ばしている先生方の姿があった。
 「明日、1年生の遠足なんです。航空公園に行くので、公園で紙飛行機大会を行う予定です。でも、まず、自分たちが良く飛ぶ紙飛行機をつくれないと、子どもに上手くアドバイスができません。そこで、どの様な形の紙飛行機が一番良く飛ぶのか、試行錯誤していたのです」という。若手の先生とベテランの先生、そして専科の先生も一緒になって試作機を作っては、廊下で飛行実験を繰りかえしていた。「飛行機飛ばし大会なら、飛距離合戦と滞空時間合戦の二項目で大会をしたら、子ども達も盛り上がるのではないか。いや、距離や時間だけでなく、デザイン賞があってもいいだろう」と、話し合いは続く。ベテランの先生と若手の先生、専科の教師が額を寄せ合い智慧を絞って、明日の教材の試作を行っていた。
 この学校の研修会には過去数回伺った。上記の様に教師の同僚性・協働性が高く、指導案も学年で相談しながら作成される。校長と教師がダイレクトに意見交換をし、改善へのアクションは迅速である。また、子どもと教師の関係が非常に良好だ。他の学年の教師が研究授業の参観をしている時も、担任外、学年外の教師が自然と授業に溶け込んで行く。その雰囲気は「全学校一学級」という一体感を感じさせる。
 都市部の学校であり、子どもの家庭環境も様々だ。教育上の課題も少なくは無いであろう。ところが、この学校の学力はその街の中でトップだという。近隣他校と同じ教科書を使い、ほぼ同じ時数で授業を行い、おかれている環境も同様である。それでも、高い業績を挙げられるのは、学校の協働的組織性が高いからであろう。組織とは、一人だけでは出来ない仕事を可能にする為に必要なシステムである。教師の協働が機能する時、組織としての学校は最大の力を発揮する。(2006/10/31)
人は人を求める

 人間で最も精神的に辛い事は、「仲間外れになる」ということであろう。職場で、自分だけが無視をされたり、情報を伝えられなかったりしたら、どんな思いになるだろうか。特に、多感な子ども時代に「仲間外れ」にされることは、子どもを絶望的な気持ちに追いやる。学校は学力を伸ばす場所である以前に、人間を育てる場所だ。学力が高ければ、対人能力は必要がないという主張をする学者もいるが、極めてナンセンスな主張である。
 人間は生きていく上で出会いを選ぶことができない。例えば、今、職員室にいる先生同士は、互いに選びあって出会ったのであろうか。また、結婚も家庭生活も一人でできるものではない。ひきこもりの子ども達も、本音では他者との関わりを熱望しているであろう。「人間は人間を求める」。この人間の本質を忘れた教育は、教育として失格なのではないか。 仏教では人間の根本的な苦悩として「怨憎会苦(おんぞうえく)」という苦しみがあるという。これは、嫌いな人、嫌な人を避けて生きることができないという意味だ。「誰とでも仲良くすること」は、理想に過ぎず、現実的ではないかもしれない。しかし、学校という場では、子どもも教師も共に「学ぶ仲間であること」が必要だろう。
 「人」という文字は支え合いを意味すると言われる。それは、「人」という文字一つの中に支え合う二人が存在するということである。「認め合い、支え合い、分かち合い」が希薄な学校では、本質的な人間教育は不可能である。
006/10/27
参考資料

 「総合的な学習の推進や知的好奇心の育成を国が進めようとしているのか?基礎基本の重視に戻るのではないのか?」。そんな疑問の声が寄せられたため、以下に参考資料を添付させて頂いた。ここには、文部科学省の予算要求に対する考え方が示されている。「総合的な学習の時間の推進」に予算要求がなされていることがわかる。

教育課程部会(第44回(第3期第30回))議事録・配付資料


 公教育は、「子どもを学力化すること」だけが使命なのではない。「学びを人間化、子ども化すること」によって、全人的な成長を促すことが公教育の使命だと言えるであろう。「総合的な学力向上策」は全人的・総合的な側面での学力向上を目指しているのである。前掲した「学力格差への挑戦」は、総合的な学力向上の重要な柱である。しかし、学力のレベルだけではなく、クオリティを上げる学習指導が公教育に求められているのだ。「学力の質」の向上である。但し、教師にだけ負担を求めるのではなく、マスコミや保護者を含め社会全体が学校を支援することも極めて重要だ。それでこそ「総合的な人間教育環境の実現」を目指すことができるのである。批判の北風だけでは、学校も子どもも意欲を維持することが難しい。(2006/10/18)
格差の克服と公教育の復権
 
10月7、8日の二日間、『第5回国際シンポジウム「東アジア的学力の将来−ポスト受験社会的ヴィジョンの形成−(主催:東京大学大学院教育学研究科)』に参加した。ポスト受験社会なるものが本当に見えてくるのか疑心暗鬼であったが、結局新しいビジョンは提示されず終いであった。
 理想としての教育は全人的な発達と成長を目指し、現実としての教育は社会的選抜に有利な学力の向上を至上の目標とする。社会選抜の勝者=受験勝組は生涯賃金も高く、敗者は社会の下層に留まって生涯を終える。日本だけではなく、東アジア圏内では同様の傾向が見られるという。
 安部総理は「再挑戦が可能な社会」を目指すというが、学歴が低い者には再挑戦のチャンスすら与えられない。これが、東アジア圏の現状である。人の一生が,人生の初期において決定される傾向は、新自由主義によって一層助長されている気もする。保護者の学歴や収入によって受験学力が決まり、子どもはそれを引き受けざるを得ない。
「公教育が信頼を失い、保護者は私塾を頼る。子どもを私塾に入れられる家庭と、そうではない家庭で子どもの競争的学力に差が付く」(某教授の分析)。国、数、英の偏重教育推進は、現実の社会構造から見れば当然の成り行きであろう。何故なら、試験主要科目の得点が学歴社会に通用する唯一の貨幣だからである。人格や徳性、知的好奇心などは進学試験において殆ど勘案されることはない。「社会的な成功は学歴という一つのはしごによってしか到達できない」(東アジア圏の某教授)。そう、共通一次は共通万事になっているのだ。
 しかし、格差固定社会だからこそ、公教育の責任は重くなっていると言えるだろう。誰にとって重要かと言えば、子ども達にとってである。更に、公立学校が公平性や平等を重んじる組織だとすれば、格差の是正、補正は公教育界が威信をかけて取り組むべき課題であろう。 小学校約1万校、中学校7千校にアンケート調査を行ったところ、「子どもの学力格差が拡がる=強く思う・そう思う(88%)」という集計結果が出ている(東京大学大学院教育学研究科)。この、学力格差拡大を防ぐことが、すなわち、公教育の信頼回復と密接に関係していることは言うまでもない。
 少人数習/熟度別学習が学力格差克服の切り札と言われているが、既に7割の小中学校がこうした学習を実施している。だが、学力格差を縮小することに成功していると言えるだろうか。筆者は、「協働的学校組織の開発」「教育評価の役割・活用・ねらいの見直し」「子どもの実態に基づく継続的な授業研究」が、格差是正の三種の神器だと感じている。この三つから、カリキュラムや指導の工夫、学習指導の本質的な進歩が生まれるのではないか。(2006/10/11)
規矩無き国家の子ども達
 
 「警察官の飲酒運転」「教師の信用失墜行為」「教育行政の信用失墜行為」など、大人の不祥事が連日報道されている。警察官や教育関係者だけが批判のやり玉に挙がっているが、その他の大人達はどうなのであろうか。報道されている企業や団体の裏金づくりや談合などは、氷山の一角に過ぎないだろう。
 こうした世の中で、「人を信じ、社会を信じ、潔白に生きよ」と諭されたところで、子どもにはリアリティが感じられる筈がない。しかも、身近な大人が不正や狡猾な態度を見せれば、子どもは利己的な欺瞞を通常の事柄だと受け取る様になるであろう。
 規矩を失った大人達の社会は、どの様に子どもの目に映るのであろうか。人間教育の根幹が揺らいでいるのは、規矩を失った大人のふるまいが原因なのではないか。もし、日本の大人達が規矩を失っているのだとすれば、これこそ最大の教育問題だと言えるだろう。大人一人一人のふるまいが、教育の土壌を形成しているのである。
 かつての日本社会では、「後ろ姿で教える」という感化の教育思想が存在した。言い換えれば、「見られても困らない後ろ姿を持つ」ことが、全ての大人に求められているということであろう。特に、子どもの身近に在る大人の責任は重い。(2006/10/6)
「個」を大切にする二つの視点

 「子どもの個を大切にすることが大切だ」とは良く聞く言葉である。確かに、子どもにとって自分という個がないがしろにされたのでは、学ぶ意欲も湧いてこないだろう。しかし、「個を大切にすること」は、教師だけの役割なのであろうか。指導の姿勢として、教師が子どもの個を大切にするということは必要であろう。だが、もう一方で「子どもが相互に個を大切にする」ということも、「個を大切にすること」なのではないか。
 ある体育の授業でのこと。授業中に一人の女の子が、しくしくと泣き出した。先生が一生懸命言葉をかけるが、泣き止む様子は無い。先生も、その子どもだけに対応している訳にも行かず、全体への指導に入った。先生が、泣いている女の子の許を去った後、次々と色々な子どもが泣いている子どもをなだめ始めた。それでも、泣いている女の子は、うつむいたまま顔を上げようとはしない。
 やがて、サッカーの試合へと授業の場面は移る。泣いていた女の子は、うつむいたままフラフラと走るだけである。ところが、チームメイトが彼女に積極的にパスを出し始めた。ある子どもが、高めのパスを蹴り「ほら、ヘディング!」と声をかけた。その言葉に反応した女の子は、見事にヘディングを決め、泣きっ面が満面の笑みに変わった。
 教師が日常から「個を大切にすること」に加え、「子どもが相互に個を大切にする集団づくり」を心がけていたのであろう。「子ども同士で個を認め合い、思いやること」ができてこそ、真に個を大切にした教育になるのではないか。
(2006/10/1)
次期指導要領のキーワードは言語力・コミュニケーション力

 平成19年度文部科学省概算要求主要事項が公表された。それによれば、
@言葉や体験を重視した学習や生活の基本づくり
A国語力の育成や理数教育の充実などを重視する

ということが教育の最重要課題として挙げられている。「言葉の力や国語力」は学習や子どもの生活全般においても“要”となる能力と言えるであろう。
 どの様な教科の学習であっても、言語による知識の媒介と理解は必要不可欠である。理数科の学習であっても、教師の指導や指示を理解したり友達の考えを理解したりする上で、言語によるコミュニケーションの成立が学習成果を左右すると言える。
 言葉の力や国語力を伸ばすことは、国語だけの専売特許ではない。国語テストの点数を稼ぐ事も大切ではある。しかし、国語テストの点数だけを伸ばせても、他者と実際に考え合い、関わり合うことができなければ「言語力が伸びた」とは言えない。身に付けた語彙は多いが、他人に話しかける事ができない。そうした貧しい言語力ではなく、「人間力=じんかんりょく=人と人の間で言葉を実際に使える力」を子どもに育てたいものである。
 そもそも、社会の中を生きるという行為は、コミュニケーションによって実現されるのである。しかも、実際の社会では、好きな人や気が合う人とだけコミュニケーションをすることはできない。進学であれ就職であれ、その先でどの様な他者が隣人になるのか、自らが選ぶことは難しい。学級編成において、教師と波長が合う子どもばかりを集められないのも、その一例である。
 あらゆる学習の場面で、対話や聞き合い、話し合いを通しながら自己の頭を働かせることが、子どもの言語力を伸ばす。そして、言語力を伸ばすことが、子どもの学力や意欲、自己肯定感を育てて行くことに繋がるのであろう。
(2006/9/27)
次期指導要領・「総合的な学習の見直し」その心は?

 9月3日の朝日新聞に「総合的学習、根本的見直し 次期指導要領」との記事が掲載された。この、「見直し」という言葉で「やっぱり総合が無くなるのか」と考えた人も多いであろう。だが、実際には「総合への取り組みが強化される」という方向に進んでいる様である。
 
 総合的な学習は「体験」や「ゆとり教育」だけに結びつけられやすい傾向がある。それゆえ、学力低下の原因と考えられてしまうのであろう。しかし、それは総合の性質やイメージに基づくものであり、総合的な学習の本質を代表しているとは言えない。実際に総合を体験した子ども達のふるまいや発言から、「総合的な学習は最も知を尊重した学習である」、と言える気がする。知識軽視の学習と見られがちな「生活・総合」の学びは、子どもの姿から考えると、最も知を重視した学びと言えるであろう。

@知を作り出す能力を高める=知の創造と創意工夫
(もっといいやり方が見つかったよ。こんなことに気が付いたよ。)
A知の使い方を学ばせる=知の活用
(社会科見学で上手くいった方法を使えばいいんだ)
B必要な知識を見つける方法を学ばせる=知の獲得
(資料で調べたときよりも、実際に老人ホームに行った方がいろいろわかったよ)
C血の通った知を育てる=倫理・道徳的知識
(子どもが死んでしまったお母さんの話をきいて、命は絶対大切とおもった)
D知を社会的・具体的行動に結びつける力を育てる=考動力を育てる
(最初はやだなと思ったけれど、ゴミのことを調べてみて自分でも何かをしたいと思った)
※カッコ内は筆者が実際の授業で子どもから聞いた言葉
 
 つけさせたい力という方向からではなく、「総合を通して現実に育っている力」を観る(構成的な視点)とこの様な子どもの姿を見つけることができる。ワークやドリルなどの形式上で使える知識を育てることも重要だが、高次精神機能を伴う知性を育てる学びが、生活・総合の学びなのではないか。知の領域固有性を拡げ、実用的な知性=人間力・生きる力としての知性を育てている学びが、生活・総合なのである。

 総合は知識重視の学習であり、知識を重視するからこそ課題追究や、表現や考え合い、体験、社会からの学びが組み込まれているのだ。課題解決に資する知性、学び方や物事を考える知性、教科の知を自己目的の実現に向かって使える知性が育つ。それが「総合的な学習」で身に付く知の力なのである。教科の知識だけを学んでも、“間に合わない社会”になっているということも、忘れてはなるまい。2006/9/13
「学習指導法の工夫改善」に潜む罠

 「学習指導法の工夫・改善」は、学校における研究の旗印となっている文言である。研究紀要の中でも頻出する言葉だと言えよう。また、「教師の指導力低下」がマスコミ等で喧伝され、指導力の向上が社会から期待されている。しかし、学校が研究の主眼としている内容は「学習指導法の工夫・改善」であり、社会が学校に期待している内容は「指導力の向上」である。この差異は、学校の教育研究において非常に重要な意味を持っていると考えられる。
 まず、以下に学力向上を目指し「学習指導法の工夫と改善」に取り組んだ学校の研究紀要から、その取り組み項目を示してみた。

A中学校研究紀要
│@各教科等において、個に応じた学習指導法の工夫改善を図る。
│A少人数指導(TTを含む)を通して、個に応じた指導方法の一層の工夫改善を図る
│B生徒の興味・関心を生かし、補充的な学習、発展的な学習の展開に力点を置いた選
│ 択教科を展開する。
│C評価(絶対評価)の研究を深め、指導と評価との一体化を図る。

B小学校研究紀要
│@各教科の基本的授業過程を認識させる。
│A一人一人の実態に応じた多様な支援を行う。
│・形成的評価の実施と把握
│・ほめ、励ましの姿勢
│B基礎的基本的事項の徹底を図る。
│・基礎基本の絞り込み
│C自力解決と学び合いの場の時間を保障する

C小学校研究紀要
│ @個に応じたきめ細かな指導の工夫(TT・少人数指導)
│ A学習活動の工夫(自力解決学習)
│ B学んだことを定着させる工夫(反復学習)
│ について研究、実践することで児童一人一人に確かな学力が身に付くであろうと考え
│ る

 どの学校も、大切な「学習指導法の工夫・改善のポイント」を押さえていると言えるだろう。ところが、「指導力の向上」という視点から見ると、具体的な視点が希薄な印象を受ける。
 本来、「指導の方法」とそれを実践する「教師の能力」は不可分なものである。方法を選択したり、実践する教師の指導力は学習指導の重要な部分を占めている。だとすれば、教育研究の項目に、「教師の資質・能力の向上」が謳われてしかるべきであろう。学校での研究において「指導法」が重視される理由は、「指導法を改善すると学力が上がる」という、暗黙のコネクティシズムが存在するからではないか。また、「指導法の工夫改善」という場合、指導法とは何かという本質的な問いが問われていない場合も多い。
 そこで、「指導法の工夫改善」と「指導力の向上」という二つの側面を統合し、「学習指導の工夫と改善」として分析してみると概ね下記の様に分類できる。「学習指導」はそれを行う教師(人的要因)と、選択される方法を含むものとして考えてみた。学習指導+法だと、方法論に終始してしまう恐れがある

A・学習形式(学習者の思考や行動を学習の形式に沿わせる)
│  百マス計算
│  反復学習
│  ワーク・ドリル学習 など

B・学習様式(学習の目的を実現する上で共通させる学習方針)
│  課題解決学習
│  習得型学習
│  体験的学習 など

C・学習・指導形態(学習者が学習する社会的形式)
│  グループ学習
│  個別学習・少人数指導
│  習熟度別学習 など

D・指導スタンス・スキル(教師の資質・能力と教育理念)
│  発問技術
│  説明能力
│  評価能力
│  教材理解
│  コミュニケーション・対話能力
│  学力観
│  児童観
│  学習観
│  リーディング・スキル(子どもの表情から心や思考の働きを読む) など


A・学習形式(学習者の思考や行動を学習の形式に沿わせる)
B・学習様式(学習の目的を実現する上で共通させる学習方針)
C・学習・指導形態(学習者が学習する社会的形式)
D・指導スタンス・スキル(教師の資質・能力と教育理念)

 という四つの分類のうち、「D」は教師の指導能力に関わる部分である。学習の場で学力の向上を目指す適切な指導を行おうとするならば、この部分の研究が全ての土台になると言えるであろう。学習を計画し、実践の方法を選択・構成し、実践し評価を行うという行為は、教師の資質・能力に立脚するのである。「D」の能力によって、A・B・Cを選択したり、組み合わせることで学習の効果を高めることができるのであろう。 
医療に例えれば、どれだけ素晴らしい薬があっても、いつ、どのタイミングで、どの様な与え方をするのかによって、効果が異なることと同じである。
 今後は、「学習指導法の工夫改善」というテーマから、「学習指導の工夫と改善」に変えていくことが、学校の教育研究をより本質的な内容に近づける筈である。これまで、研究において成長し、変化を期待される対象は子どもばかりに偏っていたのではないだろうか。子どもと共に教師も成長することを目指すのであれば、教師の成長と資質・能力の向上を研究の機軸に据えるべきであろう。(2006/9/1)
評価の要は「評価者の能力・精度」にあり

 現在の社会は「評価社会」に向かって動いています。人事考課システムの導入や、病院の治療実績、企業の実績や改善目標の達成度なども数値化して示すなど、社会のあらゆる活動が評価の対象となる時代になってきました。学校の教育活動も例外ではなく、今後、数値で評定されることになりそうです。

 なぜ、それほど「評価」が重視された社会になるのでしょうか。恐らく、情報化に加えて、社会の権威構造が溶け始め、水平化しているという理由が大きいと思われます。情報化によって、あらゆる組織の活動状況や結果が、ネット上に流通する様になりました。例えば、ネット上で様々な情報を公開している学校と、そうでない学校では心理的に信頼性が違って来ます。更に、社会の権威構造が崩壊し始め、例え、お医者さんと言えども、「医師である」ということだけでは信頼されない時代になりました。治療の成果や実績を以て、自らの専門性を証明しなければならなくなっているのです。「学校評価の導入」も、学校における信頼性の向上と実質的な取り組みの改善を促そうというねらいがあるのでしょう。
 しかしながら、学校の教育活動や授業を評価するということは、そんなに簡単な事でしょうか。例えば、機械の性能を評価する場合、最も重要になるのはどんな条件でしょうか。それは、評価をする測定機器の精度です。評価をしようとする意図には意味があり、正しいことであっても、測定する機器の精度が低く、誤差が大きい様では評価が生きませんね。
教育も「評価をしよう」とすることは、決して悪いことではありません。しかし、評価をする人間の能力や見取りの技能は、特に注意を払うべき問題だと言えるでしょう。

 英国などでは学校評価委員会 = OFSTED ( Office for Standars in Education )を設け、学校教育の専門家や教育評価の専門的技能を有した「評価視学官」がチームを組んで、学校評価を行っています。しかも、学校評価にあたっては、綿密な評価計画が練られ教師の指導力や学力の到達も含め、学校の能力が評価されるということです。学校評価とは、評価できる技能を有した専門家がチームを組んで取り組まねばならいほど、難しいものだと言えるでしょう(一部、一般の方も参加して意見を述べることがあるそうです)。

 例えば、「個別指導」=「少人数指導」、「習熟度に応じた指導」=「習熟度別学習」と捉えてしまう様な素人が教育実践を評価したら、相当に怖い気がします。藪医者が患者を診るようなシステムでは「評価」とは言えないでしょう。
 しかも、学校評価をすれば、学校の実績が伸びるとは限りません。詳しい順位は示しませんが、TIMSS(2003)などの調査でも、測定上の学力はイギリスより日本の子どもたちの方が遙かに高い成績を残しています。
 「評価とは教育活動の改善のための情報の収集と活用である(クロンバック)」
評価は評価をする人間の能力と、結果の生かし方で全てが決まってしまうと言えるでしょう。
「意図の変化から読む授業」

「授業をどういう視点から分析しているのですか」

 時々、こう問われることがあります。授業という現象は、先生個々によって観方が異なることが多い様です。また、教育学の本の中にも「こうすれば正しく授業が読み解ける」という、絶対的な法則は示されていません。それぞれの学者さんや研究者によって、色々な意見がありますね。

 但し、構成的な手法で観るというのが、現在の全体的な流れだと言えるでしょう。構成的な手法とは、学習者の視点から教材や指導を考えて行くことを意味しています。子どもよりも先に理想の授業が存在しており、その理想と比較して授業を観ていく検証型の見方だけでは、子どもの学びと指導を見取ることに間に合わなくなってきた、ということでしょう。
 さて、私は授業を観る上で、「子どもと教師双方の意図の変化と深まり」に注目するようにしています。授業の中には「子どものねらい」と「教師のねらい」があります。ねらいは目的と言い換えることもできます。授業では、始まりから終わりまでの間、次々と双方の目的が変化をしていきます(変化が少なければ、学びの少ない授業だと言えるでしょう)。目的が変わっていくということは、子どもと教師それぞれの意図が変化をしていくことを示しています。意図の深まりや強まりが、学習内容への接近や望ましい頭の働かせ方に繋がってこそ学習になるのでしょう。

 ですから、私は「子どもと教師の意図の変化」を双方の発言やふるまいから観る様にしています。「意図のベクトルの変化」と呼んでも良いでしょう。授業における、学びの深まりは学習内容への接近、学習目的への接近という意図の変化を随伴しています。そして、教師の側にも新しい発見や意図の深まりが生起した時、より充実した授業になる気がします。授業は子どもにとっても教師にとっても、知的創造の場だと言えるのですね。
「協創的学力」のすすめ

 「協働学力」の出版をきっかけにして、全国各地へ「協働学習」の支援に伺う機会が増えました。他者との関わりを通じて学び、関わり合う力と学力を同時に伸ばすという考え方が共感を得た様です。考え合う、伝え合うということは、社会生活の基本的行為ですね。企業に就職しようと研究者になろうと、あるいは生活者としても、考えあったり伝え合ったりする能力は不可欠な力でしょう。
 塾などでは「完全個別指導+○○段階習熟度別」という指導方法を理想とすることが多いですね。究極の少人数指導は一人であり、到達度を細かく分ければ分けるほど、究極の習熟度別学習になるということなのでしょう。しかし、こうした学習で、考えあったり伝え合う能力が育つかどうかは疑問です。「学力裁判」でも紹介しましたが、大学に入学しても人間関係が構築できずに退学していく学生が増えています。
 知識の量を持っているだけでは、社会を生き抜いていくことは難しいでしょう。学力という「力」は、使えるからこそ価値が出るのです。沢山の言葉を知っていても、手紙を書く相手もいなければ、話し合える相手も持てないのでは悲しいですね。
 これからの学力や学習は、どう考えても「協創」を基盤に据えるべきだと思います。そもそも、社会は「協創」で成り立っているのです。考えを交換し合い、感情を高め合うことで、自他共に成長を遂げて行くのです。互いに互いを創り合いながら、仕事や社会的な活動の成果が創られて行きます。「自分と社会を繋ぎつつ創造していく態度と能力」を子ども達に育てたいものですね。(2006/9/1)
※協という文字は、「十=沢山の」「力が三つ=力を合わせる」という意味です。旧字体は「叶(かなう)」であり、多くの人々の言葉と言葉が合うことを意味します(漢語林)。
小学校英語教育の価値
 
 小学校教育に英語を持ち込むべきか、否か。様々な立場から意見が主張されています。その善し悪しは、主に@脳科学の視点からA教育効果の視点からBカリキュラムバランスの視点から考えることが必要でしょう。
 @脳科学からの視点については、早期学習の効果が認められると言えます。しかし、「英語を習得させるために」という、英語力の向上を目的にした場合においては、という前提があっての話です。目的が音楽であれ体育技能であれ、早期教育の効果が前面に出ると、なんでもかんでも早期教育を理由に押し切ってしまうことには問題が多いですね。子どもの人生の初期を、早期教育による時間の奪い合いで埋めてしまうことは、あまり感心できません。保護者の母国語が英語であり、家族とのコミュニケーションが必要な場合は、親子関係の面から考えれば英語は必要になるでしょう。国語による、子どもと保護者や友達との充分なコミュニケーション体験が、子どもの人生にとっては大切な気もしますね。
 A教育効果からの視点では、小学校英語教育でどんな成果を期待するのかということが問題ですね。先日、小学校で英語教育に取り組んでいる先生にお尋ねしたところ、「国際人として、英語で生き生きとコミュニケーションができる資質・能力を育てること」を目指しているとのこと。「国際的なコミュニケーション能力を育成する」ということが、多くの実践校で目指されています。しかし、これまで小学校では「国語」を教えて来ましたし、家庭でも国語を使って生活をしていた筈ですね。その結果、子どものコミュニケーション能力は高まったと言えるのでしょうか。他者と接することのよさや、共感する感動を通して、人と繋がる力を育てなければ、言葉を通い合わせる関係などできないのではないでしょうか。英語を教えると、英語のコミュニケーション能力が上がるというのは、非常に浅い考えの様に思えます。
 Bカリキュラムのバランスについては、「総合的な学習の時間」を削って、充当している学校が多い様です。「総合」と「英語」は、そこで学ぶ知識の性質が異なります。総合は、体験や課題解決を通して、自分で考えを創ったり行動をしたりする力を育てる時間です。英語は、基本的に語彙や文型を覚えたり、会話の方法やリスニングなどの技能を身に付ける「語学学習」として、頭を働かせることが多いでしょう。「総合」と「英語」は、頭の使い方や、知識の使い方の性質が違うのです(そもそも、学習の目的が違うのです)。よって、等価交換的にすり替えるのは、カリキュラムのバランスが崩れることを意味しています。教科的なカリキュラムが益々肥大化して行く恐れがあると言えるでしょう(総合と同じく数値で評価しなければ教科にならないから、良いのだという意見もあります。こういうことを、“まやかし”と言うのです)。
 但し、例外もあります。これまで拝見した実践の中では、英語を使いながら自分達の課題解決を進めるために、子ども自らが英語を学ぶという「総合」もありました。しかしながら、指導者の先生は留学経験があり経験カリキュラムの研究も相当された先生であり、一般の小学校ならば誰でも指導ができるという内容ではありませんでした。
 時代が変われば、学力も変わります。これからは、英語が基礎学力として重要な時代になるのかもしれません。導入の程度や可否も含め、本質的な議論を期待したいものです。(2006/8/22)
あなた達の学びは
 学習を超えた「学問」です(阿字ヶ浦中学校のみなさんへ)

      (日本生活科・総合的学習教育学会茨城支部での発表について)

 今、多くの中学校で、地域や環境をテーマにした「総合学習」が行われています。そのほとんどが、発表会を開く、ポスターを作る、地域の人に向かって発表する、ネットで成果を発信するという形でまとめをしています。しかし、あなた達の学びは市の環境意識を高め、企業に働きかけを行い、大人達の意識や地域社会を変えようとしました。
 
 市長さんや企業に働きかけたことは立派なことだけれど、あなた達の学びの素晴らしさは本物の「学問」になっている点にあると思いました。
 
 学習は、誰かから「習う学び」です。教わって学ぶタイプの勉強ですね。これも、大切な学びです。ところが、学問は「問うこと」を学びます。「どうしたら湧水地を守れるか」「スカシユリを増やせるか」。こうした問いは、「解きなさい」と誰かから指示をされた問いではないですね。あなた達が調べ、考えて、問いを作って解決に挑戦したのです。「どうしたらよい教え方ができるだろうか」と問うのが、教育学という学問です。「どうして病気を治したらよいか」と問うのは医学という学問です。

 そして、あなた達も調べ、考えて自分たちの問いを作っていきました。しかも、自分とは関係がない対象を研究するのではなく、自分が住む地域のメンバーとして課題に挑戦しましたね。だからこそ、地域の環境を守りたいという強い意識を持つことができたのでしょう。
 
 あなた達は、地域を変えようとしましたが、本当に変わったのはあなた方自身ですね。地域のことが「わかる」ことで自分の知識や価値観が「変わり」、「地域を変えよう」としました。「わかる」ことは「変わること」。そして、本当に変わると、外の世界を「変えたくなる」のです。
 あなた達の学びは、本気の学びであり学問でもありました。本当に素晴らしい学びをしましたね。羨ましいくらいです。

    本気になると
       世界が変わってくる
         自分が変わってくる
            変わってこなかったら
         まだ本気になってない証拠だ        坂村真民

 これからも、自分の力、みんなの力で「自分たちの学び」「学べる自分」を創って行って下さい。
                                               学習文化研究家 梶浦 真
学びの力は縁を結ぶ力

 筆者は幼少の頃より、学業では最低の成績を受けてきた。通知票のオール1は毎度のことである。
(信じられないという方がいるので下記に添付・私の通知票)

 
 しかし、今、色々な先生方と交流が持つことができ、教育に携わる仕事ができているのは、様々な先生方のお陰だと言えよう。

「学べる力は縁を結ぶ」


 この言葉が私の人生の全てだと断言できる。学べる世界、学べる先輩、学べる両親、学べる友達、学べる書籍。私の外側にあるものと、私を引き合わせてくれたのは「学べる力」であった。

「学力」と「学べる力」。私は「学べる力」を信頼し、信念としたい。

今+心。念が学びと未来を創る。(2006/8/19)
意欲の生起と他者の存在
 

 「自ら意欲的に」という言葉は、子どもの望ましい姿を表現する場合によく使われる言葉です。「自ら意欲的に学びに取り組む」「自ら意欲的にかかわりを持つ」など、自主的な意欲の喚起は確かに望ましいことではありましょう。しかし、人間にとって「自ら意欲を創り出すこと]は、かなり難しいことなのではないでしょうか。

 「学習への取り組みが深まると、理解も深まり、学ぶ意欲も高まる」という意見は一見正論の様に思えます。ところが、学習への取り組みが深まるのは、意欲が随伴するからだと言えないでしょうか。子どもの学びが深まる様子や場面では、注意力や集中力の高まりを感じる筈です。この姿は、理解に意欲が随伴していることを示していると言えるでしょう。しかも、「自ら一人で意欲を作り出す」という状況は、意外と少ない様な気がします。自分と違う意見を聞いたり、友達と一緒に取り組んだり、友達から認められたりした時に、意欲が高まりやすくなるのではないでしょうか。

 「自ら意欲的になる」という言葉は、ややもすると「個人(孤人?)で意欲を高めること」と考えられがちです。ところが、実際には他者と関わることで意欲が生起し、学習へ取り組む意欲も高まっていくことが多い気がします。我々大人の生活でも、他者から認められたり、必要とされたり、共感したりした場合に、意欲や感情の積極性が高まることがあります。意欲は他者との相互関係で生起することが多いのです。
 いいライバルがいたり、いい仲間がいる。他者と関わる場である学校だからこそ、「共に意欲を高め合うことができる」のでしょう。(2006/8/16)

 
「物語」は読もうとした人だけ理解する

 子どもは「物語」に似ています。同じ教室で場や心や空間を共有しながら、自分という物語を生きているのが子どもであり、人間なのではないでしょうか。では、子どもが「物語」だとすれば、その物語を読み解いて行くためには何が必要なのでしょうか。私は、子どもという物語を読み解くには、「読み解こうとする教師の姿勢」こそ大切だと感じています。
 かつて、ブルーナーという教育学者は、教育を二つの形式に分けて捉えました。一つは、論理-科学的様式(Paradigmatic Mode)、もう一つは物語様式(Narrative Mode)です。嶋野先生が主張されているAモード、Bモードと似ていますが、前者は普遍的な真理を求める教科的な学習であり、後者は生活や総合などの体験的な学習を意味しています。
 論理-科学様式の学習成果は、点数によって説明しやすく、読み解く側に理解の態度を要求しない性質を持っています。80点は80点であり、そこに説明の必要性は無いかの様に見えます。一方、物語様式の学習成果は、成果を理解しようとする態度を要求します。子どものふるまいや発言を価値づける、意味づけるということは、「子どもを理解しようとする教師の姿勢」があるからこそできることなのでしょう。
 さて、それでは、「論理-科学的な学び」と「物語形式の学び」は峻別できるのでしょうか。それは、学者が分析する上で便宜上分けたものであり、学びの中にも子どもの中にも論理的な部分と物語的な部分が含まれているのです。しかし、子どもの中に「物語的なもの」があるとするならば、その物語は教師が読み解こうとしない限り見えて来ません。物語は、それを理解しようとする者の前だけに立ち現れるのですから。
 清水小学校の「校内実践発表会・報告」に収められた子どものエピソードは、子どもという物語を読み解こうとした先生方の姿勢が生みだしたものです。
      
      よくみれば なずな花咲く 垣根かな(芭蕉)

 学習は始めに子どもありきと言われます。しかし、子どもを「見つける目」「見つめる目」「見守る目」を持たなければ、子ども不在の学習論になってしまいます。清水小の研究は子どもという物語を読み解くという、教育、教師の仕事の原点に立ち返る実践です。今後も、“素晴らしい子ども”を沢山見つけて行って頂きたいものだと願っております。
梶浦 真

★以上は、「学べる力を伸ばす授業」の中で紹介した、清水町立清水小学校の研究報告書に対するコメントである。この報告書は子どもの姿やふるまいに基づく、実践的研究の取り組みをまとめたものである。「子どもから学ぶ」には、「子どもを読み解くことが大切だ」と再認識せられた報告書であった。(2006/8/8)
教師のコミュニケーションと組織開発

 「忙しいのは学校の先生方だけではない」とは、一般社会から良く聞かれる批判である。しかし、実際に学校の先生方の忙しい様子を見ると、相当に繁忙な日々を送っていることがわかる。しかも、子どもの生活指導、保護者への対応、研修への参加や書類の作成など、業務は多岐に渡る。特に学校での仕事の特徴は、様々な人が関わる複数の問題が重なりあって生起するということだ。しかも、努力をしたからといって必ず解決できる性質の問題ばかりではない。
 校務分掌組織も企業とは違い、一人の教師の職務領域は広範にわたる。企業における「営業」「事務」「管理」「企画」という様々な業務を、場面や状況によって使い分け、それぞれの仕事で責任が追究されると考えるとわかり易いかもしれない。更に、現代のカリキュラムは肥大する一方である。情報教育、英語教育、あるいは安全に関わる学習や対人的スキルを獲得する学習など、社会の変化に伴って仕事の領域は拡がる一方だ。
 この様に学校が繁忙化すると、職員同士のコミュニケーションの質が低下を始める。考え合いながら話し合う機会が減り、「伝達」を中心としたコミュニケーションが増加してしまう。連絡と報告は大切だが、「相談」をする時間が減ってしまえば知の創造はしにくくなる。
 これまで多くの学校を見て来て感じることは、教師のコミュニケーションの質が高い学校は「学力を伸ばせる学校である」ということだ。意図的、定期的に子どもや授業を話題の中心に据えた時間を確保している学校が多い。テーマは評価であったり、授業であったりする。
 「成果とは質の高いコミュニケーションの別称である」ということが、学力を伸ばしている学校から感じていることだ。考えて見れば、我々の身の回りにある品物は、全てコミュニケーションの結果だと言える。市場調査や企画会議、販売戦略会議や営業マンの営業など、一つ一つの品物が成功したコミュニケーションの集積なのである。忙しい学校だからこそ、一人ではできないことを協力して実現して行く。同僚性が希薄化する時代だからこそ、組織開発(Organization Development)による協働とコミュニケーションが重要になってくるのであろう。(2006/8/1)
ミラー・ニューロンという発見

 このところ、脳科学の進歩が目覚ましい。その進歩が、脳の解析テクノロジーの進歩に支えれていることは間違いないだろう。しかし、「文章を読むと脳のある部分に血液が集まるから頭が良くなる」、「計算をすると脳の特定の部分に血液が集まるから頭が良くなる」という、短絡的な判断は非常に危険である。頭の特定の部分に血液が集まっていれば、考えるということになるのか、また特定の部分に血液が集まることは、脳の活動バランスに異常をもたらす恐れもある。脳科学の進歩は脳の働きを機械的分業として細分化してしまい、人間としての全体性を希薄にする様な気がする。
 脳科学の進歩は、脳の血流を解析するということだけではなく、「ミラー・ニューロン」という新しい機能を持った部分を発見した。ミラー・ニューロンの発見は、脳科学最大の発見とも言われている。ミラー・ニューロンは他者の行動を理解する機能を持っている。他者と関わる力は、他者を理解し、他者と共感できる力と密接に関わっていることは言うまでもない。脳が発達をする時期に、他者との接触体験が少なければ、ミラー・ニューロンは発達しない。早期教育で知識を教え込むのは自由だが、他者と関われない脳を作ってしまったのでは、知識を活かすことができないであろう。それは、他のパソコンとデータをやりとりする部品を外してしまったパソコンに似ている。
 学校は、子どもが他者と関わり合いを体験できる貴重な場所である。心と体が、他者の心と体に響き合い、他者と関われる能力の基礎を育んで行くのである。ゲーム、ドリルなど、他者との接触体験を必要としない子どもの生活文化は、「放っておくととんでもないことになる」のではないか。(2006/7/22)
とある研修会で

先日、大都市の中心部にある小学校の校内研修に伺った。講演に招かれたのであるが、講演を始める前に先生方から沢山の質問・意見が出された。

・教育委員会から、点数を上げろ、数値を出せとばかり言われる。
・子どもの成長格差が大きすぎて、学習が成り立たない。
・教師の予測を超えた行動、発言をする子どもが多くなり、指導の常識が通用しない
・評価をどうしたらいいかわからない。表現力が高まったということをどうやって判定するのか。
・家庭の格差が大きく、家庭と教師の教育観が合わない。
・子ども同志の関わる力が落ちている。子ども同士の話し合いが成り立たなくなっている。
・利己的、攻撃的な子どもと、閉鎖的、消極的な子どもの差が大きすぎる
・忙しすぎて、落ち着いて教材研究ができない
・国語の教科書の使い方がわからない。最近の国語の教科書は総合の教科書みたいだ
・算数の教科書にたよりすぎた授業をしてしまう。どの程度教科書を使い、どの程度自作の教材を使うことが許される のかわからない。
・子どもの感性を育てることが大切。感性を伴わない知識重視の指導では子どもが歪んで しまう気がする。感性に点数はつかないが、伸ばしてやりたいと思う

 なんとか、質問に答えて研修会は終わった。だが、圧巻だったのはそれからの時間である。校長室に多くの先生が集まり、まだ、話を聞きたいという。校長室で、延々と議論が続いた。「どうせなら、価値ある実践に本気で取り組みたい」「昔の学校では、子どもに根ざした議論が毎日展開されていた」等々、論議は続く。最後に校長が「教育の本質に立ち返って、本物の教育を創っていこう。軽薄な世の風潮に流されない学校があったっていいじゃないか」と締めた。

質疑応答の時間をとっても、全く発言の無い学校もあれば、この学校の様な情熱的な言葉が飛び交う学校もある。どちらの学校が子どもを伸ばせる学校なのか。答えは、自ずと見えてくるのではないか。(2006/7/7)
テスト対策教育の悲劇 
 

 学校教育の課題といえば、「学力向上」が筆頭に挙げられる。多くの学校では、指導方法を工夫したり
、反復学習やミニテストの回数を増やしたり、様々な方法で学力向上に挑んでいる。しかし、指導法を工
夫したり、テストや反復の回数を増やすと、本当に学力が上がるのであろうか。筆者の経験からすれば
、数値上では確かに向上すると言える。しかし、そこには見落とすことができない落とし穴も潜んでいる。
@テストの形式に近い問題を反復練習させ、テストで効果を測定する
A繰りかえすと覚える子もいるが、繰りかえすと飽きる子どもも多い
Bテストや学習時間を作り出せば、出すほど教師が多忙になる
Cテスト形式の問題を解く方法に過適応するため、問題の形を変えると答えることができない
等には注意する必要があるだろう。
 
 ドリルを沢山こなすと、学力は上がる。その理由は、ドリルの形式に慣れたところで、ドリルと同様の形
式のテストで学力を測るからである。筋肉トレーニングでバーベルを持ち上げた後で、何も持たずに手を
持ち上げると軽く持ち上がるという経験は誰にでもあるだろう。ドリル後のテストは、これに似た現象であ
る。しかし、時間が経てば元の感覚に戻ってしまう。学力で言えば、小中でできた問題が、大学生になっ
て出来なくなってしまうことに似ている。短期的に見れば、見かけ上の学力が上がるため、一層こうした
学習に力を入れることになる。佐藤学氏は「麻薬のような学習であり、やればやるほど抜け出せなくなる」
と指摘しているが、説得力のある表現だ。
 「あ〜あ、またか」。先日拝見したドリル中心の授業で、授業開始早々こんな子どもの声が聞こえた。そ
こには学びに対する期待も、新鮮味も感じることができなかった。この状態で更にドリルを課すとどうなる
かは、簡単に予測がつくであろう。ドリルは必要な子どももいれば、そうではない子どももいる。だからこそ
、個に応じた指導が必要になるのである。
 
 現在の教師の仕事は増加の一途を辿っている。忙しいというよりも、目まぐるしいという表現が適当かも
しれない。現状に加えて、量を多くする指導を持ち込めば、教師の仕事が一層繁忙になる。仕事量の肥
大化は、いずれ教師の心身をむしばんでいくことになる。 ドリル学習を徹底し、点数の向上が見られた学
校で6年生にこんな問題を出してみる。「5×4になる様な問題をつくって下さい」。6年生と言えば、一桁の
かけ算はほぼマスターしている筈だ。少なくとも、テストでは非常に好成績を収める。ところが、「5人の女
の子と4人の男の子がいます。かけるといくつでしょう」「あめが5個あります。リンゴが4つあります。かける
といくつになりますか」と言う様な、妙な答えが続出する。ここからは、確かな学力やPISA学力と相反する、
学力が形成されていることがわかる。PISA調査でも、日本の子どもの記述問題に対する無回答率の高さが
問題になった。テストと同じ解決方略が通じない問題に直面すると、思考が停止ししてしまうのであろう。だ
が、PISAで順位が後退したとなると、ドリルと反復の学習が強化されるケースも多い。

 「ドーアによれば、大事なのは学校教育(カリキュラム)の内容で、これが犬の本体なら、入試(テスト)と
いうのはしっぽのようなものだ(央教育審議会 第225回総会 議事録)」。日本の教育はしっぽ(テストの点
数)にカリキュラムが振り回され様としているのではないか 。学力を上げようとすると、上がったことが確か
められる部分の学力を上げようとする。学力テストの点数を上げる教育活動が学習の中心となり、テスト対
策的学習が行政でも学校でも重視されるようになる。テストの点数に反映されない、資質や能力を育てる
機会は一層減少していくことになる。

 フレダーリクセン (Frederiksen)はテストによって、教育全体が歪められてしまうという指摘をしているが
、今後の日本の教育がどちらに向かうのか非常に心配である。(2006.6.29)

「顔向けができる」子ども達 


 その授業のテーマは「命をみつめて」。ゲストティーチャーの話を聞きながら、子ども達は自分が感じた命
の大切さを発言していく。「100%命は大切だと断言できます。その理由は、自分の命の代わりは無いし、
誰も命を交換することはできないからです。だから、誰の命であっても大切だと思います」。子ども達の発言
は続く。
 命が大切か?と聞かれれば、多くの子どもが「大切だ」と答えるであろう。しかし、知識として大切さを知っ
ているということと、命の大切さを実感できることは別のことである。病で命を落としそうになった人や、自
分史を調べて親から聞いた話から、子ども達は「命の持つ意味や重み」を深めてゆく。自分が自分の命を
大切にしてきたかどうか、改めて考えることで「命」は子どもの中で、重みを増していくのである。
 見事な授業であったが、なんといっても子ども達の「他人の話を聞く態度」には驚かされた。凹の字型に並
べられた教室で、誰かが発言を始めると、全員の顔が発言者の顔に向けられる。それは、砂鉄を載せた紙
の下で磁石を動かした時の、砂鉄の動きにも似ている。発表者が変わる度、子ども達の顔が吸い寄せられ
る様に、発表者の顔に向けていく。発表者の直ぐ前に座る子どもも、体全体を180度反転させて、発表者の
意見を聞く。話す子どもも懸命だが、話を聞く子ども達も懸命である。
 「顔向けができない」という言葉がある。これは、相手を裏切った時の心持ちを表した言葉であろう。信頼
に反する行為から、「顔向けができなくなる」のである。しかし、この授業の子ども達の姿は、「全員が全員に
対して顔向けができる学級であること」を象徴したものであった。「誰の命もかけがえのない命だ」という意
見は、言葉だけではなく、子どもの態度からも実感することができた。「命をみつめる」ことは「命を見つける
こと」であり、友達の中にも自分と同じ命を見つけているからこそ、授業は深まりを見せたのである。「顔向け
ができる学級」は、子どもの学び合いを成立させる基盤なのである。(2006/6/18)
「専門家」の罠

「子どもの自ら考える力や創造性を育てるという名目で「総合的な学習」の時間が大幅に取り入れられてい
るが、これは、すでに基礎学力が充分にある生徒に適用すべき考えであって、まだなんの基礎知識も固ま
っていない低学年の子どもに適用すると、ただ何となく体験学習やグループ発表などをやってみたものの、
いったい何がわかったのかわからないという結果を招く危険性がきわめて大きい。誰かが、中東の位置も
歴史も学んでいない子どもたちに中東情勢を論じさせてなんの意味があるかといっていたが、その通りであ
る。」

 上記の文章の筆者は、教育の世界で相当に高名な先生である。
 この論を一般の社会人に見せると、相当多くの方が同意をする。しかし、この批判は的を射た主張と言える
のだろうか。私には、的外れの批判としか考えられない。

@総合が大幅に取り入れられている≠教科の時間からすれば相当に少ない
A基礎学力を知の量だけで捉えている=基礎学力と基礎知識を同一視している。「方法知」 と「内容知」を
ごちゃ混 ぜにして、教えられた知識の量だけに一元化している。
B中東の知識がないと中東情勢を学べない≠総合で体験的に中東を学んでいる学校があっ たら教えて欲
しいもの だ。また、中東の位置と歴史を知れば、中東情勢が論じられると いう主張もリアリティに欠ける。
Cただ何となく、体験学習やグループ発表をやってみたものの・・・≠「ただ何となく体 験習やグループ学習
をする」 のは総合の学習ではない。よって、総合ではない学習を批 判している。
 まだまだ、おかしな部分があるが、こうした専門家の主張は賢く分析することが必要である。さもなければ、
「分かりやすくて、間違いやすい学力観」を強化することになってしまうであろう。“一流の専門家”に騙されな
い様、頭を働かせて情報を受け取る必要がある。(2006/5/30)
「言葉受け 言葉がけ 言葉分け」

 今、子どものコミュニケーション能力が問題になっている。この点への対応については、新刊「コミュニケー
ション能力の育成と指導」に譲る。では、教師のコミュニケーション能力には問題が無いのであろうか。これま
で、多くの授業を拝見させて頂いたが、よい授業には、よいコミュニケーションが不可欠な要素だと感じる。教
師自身が質の高いコミュニケーション能力を持ち、子どもと子どものコミュニケーションを紡ぎだすことに長けて
いる教師は、授業力も高い場合が多い。授業の中における、教師のコミュニケーション能力は、概ね三つの
領域に分けることができる。
 第一は「言葉受け」である。子どもの言葉や、言葉の裏にある思考や感情を察しながら、言葉を受け取っ
ていく。
 第二は「言葉がけ」である。受け取った言葉を活かして、子どもが考えたり興味を高める言葉がけを行っ
ていく。
 第三は「言葉分け」である。子どもの発言を学習の内容に近づけるように意味づけをしたり、意見をまとめ
て一つの考え方に仕立てて行く。
 授業力は教師の対話力と極めて密接に関わっている。「言葉受け」「言葉がけ」「言葉分け」を見なおすこと
から、授業の質の向上を考えてみてはいかがだろうか。(2006/5/19)
悪定義問題と良定義問題

 問題には、大きく分けると二つの領域がある。一つは良定義問題であり、もう一つは悪定義問題と呼ばれ
ている。良定義問題とは、解決の手順や方法が厳然として存在している性質の問題である。例えば、算数
の計算問題や理科の問題などには、必ず正解が存在し、正解に至るまでのプロセスも存在している。学習
を始めた段階では、問題を解く方法や答えを、子どもは知らないかもしれない。しかし、子どもが知らないだ
けであり、教師の側には答えも解決のプロセスも存在しているのである。解決の方法や正解の答えが予め
準備できる問題が、良定義問題である。
 一方で、解決の方法や答えが用意できない問題もある。川の自然環境を守るにはどうするのか、地域の
昔話を伝えるにはどうするのか。こうした問題に唯一解は存在しない。つまり、インターネットで調べようが、
どの様な学術書を調べようが、答えが書かれているわけではない。つまり、問題解決のために自分で情報
を探し、蓄積、分析して、現時点でベストと考えられる智慧を創っていかねばならない問題なのである。
 考えてみれば、我々の生活場面では悪定義問題と対峙する機会が非常に多いのではないか。どの様に
学級経営をするのか、どの様に研究成果をまとめるのか、どの様に保護者と接するのか。これらは、いずれ
も悪定義問題である。社会の中で生きていける力を育むためには、悪定義問題と対峙する学習を経験させ
ておく必要がある。伝統的教科は良定義問題を解決する力を育てることを担い、「総合」や「道徳・特活」は
悪定義問題を解決する力を育てることを担う。だが、最近の教育界を取り巻く状況からは、良定義問題ばか
りを重視する傾向が見られる。これで、バランスの良い知性が育つのかどうか、不安を感じるのは筆者だけ
であろうか。(2006/4/13)
「読んで欲しいと願うのは子供達?」
「子供たちからの小さなサインの気づき方と対応のコツ」
                横藤雅人著/学事出版

 「よい教師の資質とは、何を意味する言葉なのですか。熱心で知識が高ければよい先生なのでしょうか。私は今、教員を目指しています。しかし、向上させるべき資質とはなんのことを意味しているかわかりません。」
 この発言は、「教員の資質向上に関する全国フォーラム・文科省主催」で、教師を目指す大学生が発言した言葉である。この学生が発言をするまでは、資質向上のシステム論など、抽象的な論議が行われていた。ところが、この学生の発言によって「専門的な知識、人間力、指導力の高さ」という言葉の意味を充分に考えていなかったことを、会場の参加者は感じた様であった。
 よい教師の資質とは何か。この学生の問いに対する答えが「どの子も輝く学級づくり 子供たちからの小さなサインの気づき方と対応のコツ/横藤雅人著/学事出版」の中に収められている。よい教師とは、先ず持って子供たちにとって、よい教師でなくてはならない。そんなことは、あたりまえのことだと言われるかもしれない。しかし、あたりまえであるが故に「子どもにとってのよい教師とは何か」、真剣に問う機会を逃してしまったことはないだろうか。
 本書を読むと、「子供にとってのよい教師が持つべきスタンス」が見えてくる。収録されている内容は日常生活や授業場面、あるいは不登校児童との対応事例である。だが、その対応事例から学べることは、子供に対応する技術に加えて、子供に向かう教師の姿勢が極めて重要であるということだ。教師は個々に指導のスタイルが異なる。しかし、「子供にとってのよい教師」には共通のスタンスがある。それは、子供の心を見つけることによって、子供とつながり、共に学んでいくというスタンスである。子供は自己との繋がりを見いだせない教師を、よい先生と呼ぶことができるであろうか。
 最近、学級づくりが難しくなったという声を聞く。生活体験の差や社会の変化など、その原因を探れば限りなく原因を挙げることができよう。しかし、学級づくりが難しくなった社会的な原因を取り除くことは不可能である。教師の積極的な対応によってのみ、子供達が伸び合う学級が育っていくのである。本書に収められている子供への対応事例は具体的であり、同じ様な状況や問題はどこの学級(子供)にも見られるであろう。「もし、自分が同じ様な子供のふるまいや問題に直面したとき、どんな対応をするだろうか。」 そんな想定で読んで頂けば、自らの子供に対する対応の技術やスタンスを豊かにしていくことができる。この本を読んで欲しいと願っているのは出版社や横藤先生なのではなく、世の子供達なのかもしれない。
                                          梶浦 真
中教審経過報告に対する意見
「教育内容等の改善の方向」について


意見@反復学習の捉えについて
 今回の報告書では「基礎基本の着実な定着を図る指導方法」として、「反復学習」が推奨されている。但し、反復の回数を競うような反復の量を重視した指導が増加すると、学校現場において学びの形骸化が起きる恐れがある。また、単純反復学習は知の定着効率が決して高い訳ではなく、教え方の工夫による指導法の改善が有効である場合も多い。
 例えば「鯉」「杉」「竹」「鳩」「金魚」「苺」「雀」「芝」「秋桜」という言葉を覚えるとしよう。これらの言葉を単純に繰り返して覚えるよりも、絵や写真と言葉をカードにして「魚」「木」「草」「鳥」などのグループに分類して教えた方が遙かに効果的である。絵、言葉、分類という多様な情報が、知の定着を確かにしていく。つまり、現実の学習場面では反復の回数が多くても知が定着するとは限らないのである。むしろ指導法の工夫によって、能率的な学習が可能になる。反復の回数を追う指導は、昨今の学校における実践の中で拡がりを見せている。
 しかし、反復の回数のみを追う指導を推奨すると、反復の回数を追うことが指導の目的と化す可能性が非常に大きいことを指摘しておきたい。反復の回数を増やすことと知の定着には確かな相関が見られないことは、認知科学の知見から明らかである。反復学習の推奨は、@非効率でありながら手頃であり、工夫の少ない量的指導法の蔓延を生み出すA子ども個々の実態を軽視して反復の回数を競う学習の拡がりを助長することになる。その結果、@指導法の工夫による改善ではなく、反復回数を増やす工夫の増加A学びぎらいの増加B反復という学び方に向いた子どもと、そうではない子どもの学力格差の広がりを生む、などの現象が生起することを指摘しておきたい。単純な反復の回数を追う指導法は、「新しい時代の義務教育の創造」という教育改革のテーマに反し、義務教育以外の場面でも指導が可能な学習への依存を意味するとも言える。

意見A質の高い反復学習の推奨
 反復学習については、今回の報告の中に「丁寧な反復」という文言が見られる。今、子ども達の学力向上のために必要な反復学習は「丁寧な反復学習」ではないか。丁寧な反復とは
@教師主導の反復
A時間をおいての反復
B教師と子どもとの対話による反復
C子ども同士の対話による反復
D他教科との関連の中で、同様の知識を用いさせることによる反復
E生活場面での反復
など、多様な時、場、状況による反復学習を意味する。単純な形式の反復では、質の高い丁寧な反復学習と言えないのではないか。

 多様な場面や、状況での丁寧な反復は@活かせる形で知が定着する。内容知と方法知が関連しながら定着するA知の実用的な価値と意味に気づくB単純な反復学習と比較して、飽きさせることなく学習を進めることができる、などの効果が期待できる。例えば、ドリル学習に加え、「問題の解き方を隣の友達に説明する」など、同じ内容を異なる方法で反復させるのである。こうした、多様な反復こそ、指導法の工夫に繋がり、子どもの「確かな学力」を育てる丁寧な反復学習だと言えるのではないか。
 いずれにせよ、現在の学校では「教師にとって解りやすく、説明責任を果たしやすい指導」が急激に広がる状況にある。単純な反復学習の推奨ではなく、「充分な繰り返し学習を行うと共に、多様な場面や状況の中で丁寧な反復学習を行うことが求められる」という表現の方が適当ではないか。更に、「多様な場面や状況とは、例えば・・・・」という、例示を付記することが望ましい。これは、答申文全体に関して言えることであるが、「一層の工夫改善が求められる」という記述では、「何をどの様に工夫するのか」具体が見えない。具体的例示を多く盛り込むべきであろう。

★この子どもは、買い物場面を設定した学習と、机上での繰り返し反復学習が結びついたことによって、算数に対する肯定的な態度が育っている。
机上のドリルだけでも、算数活動的な学習のみでも、効果的な学習が成立しないことを意味している。
机上の繰り返しと共に異なる時、場、状況での反復が学習効果を高める。

総合的な学習の時間の改善・充実」について


@教師の学習観格差の是正について 
 「総合的な学習の時間」の充実については、教師の意識格差が最大の問題であると考える。総合的な学習の学習場面は、ある教師には学習に見えるが、別の教師からは学習に見えない場合も多い。例えば、老人ホームに行ってお年寄りと交流をする学習場面があったとする。この学習場面を見た教師の一人は、「年寄りと話をすることが学校でやるべき勉強とは思えない」と評価し、別の教師は「予め、お年寄りに聞きたいことが想定されており、事前の学習で適切な表現をしようとする工夫や意欲が見られた」「お年寄りが想像以上に色々なことを考えていることに気づき、もっと色々な話を聞きたいという意欲が見られた」などと評価をした。教師の側に、「旧来の勉強方法で学ぶこと=学習である」という学習観が強ければ、体験的な学習が学習には見えない。「総合的な学習の時間」で期待される子どものふるまいと、学ぶ力の相関を明らかにして行かなければ、総合的な学習を学習として評価することが難しい。
 これらの問題を改善するには、教師の学習観の転換及び、修正を行う研修が必要である。具体的な方策としては、総合の学習評価に教師の協働による評価システムを導入することが考えられる。総合的な学習の授業場面でみられる子どものふるまいや発言などを、教師相互が意見交換をしながら評価をしていくシステムが必要である。見える教員と見えない教員の接点が無ければ、双方の乖離は埋まることがなく、総合の一層の充実は実現できない。教員の指導力の格差を縮小するためにも、「教師の相互交流・協働・意見交換による評価システム」を設置すべきである。その場合@学習評価の客観性・妥当性を高める(学習評価の側面)A学習としての成立と指導の作用・効果の関連(授業評価の視点)という、二つの視点で学習、授業評価システムを運用することが重要である。

A時間数の弾力化について
 「総合的な学習の時間」は塾や進学教室、ドリル学習などで学習を行うことが困難な学習である。この時間のねらいに基づいて学習を行う機関は、義務教育以外の場面では極めて希だと言えるであろう。国語や算数などの伝統的教科の学習は、学校外の教育機関でも可能である。バランスのよい知性を育む上で、公立学校が行う総合的な学習の意義は極めて大きい。この学習を学校の自由裁量とするならば、それを補償する学習の場が少ないことから、総合のねらいに基づく学習機会は激減することは間違いない。更に、「自由裁量=重視する必要がない学習」というイメージが一気に蔓延し、総合的な学習の充実は不可能となる。現在の授業時間数でも他の教科と9(教科)対1(総合)の割合しか占めておらず、充分な時間が充てられているとは言い難い。まずは、現状の時間数を維持した上で、学習の質の向上を目指す取り組みが必要となる。
 また、英語教育と総合的な学習は、そもそものねらいが異なり、互換性のある学習ではない。ところが、多くの学校では総合の時間を英語学習にすり替える取り組みが増加している。英語学習は、保護者から受験の前倒し学習として非常に人気が高い。このまま、総合の枠における英語学習を容認するならば、やはり、総合の一層の充実は不可能になるであろう。英語は伝達のコードに位置する学習であり、進学や社会選抜に有利となる外国語を学ぶ。総合は創造のコードに位置し、知と行動を自己の行動や生き方に結びつけ、知的に充実した人生を送る上で必要となる資質、能力を身に付ける学びである。「総合的な学習の時間」が英語という教科的な性質の時間に振り替えられることは、カリキュラム全体のバランスを歪めてしまうことを意味する。(2006/3.23)


尚、上記二つのコードは、社会内に潜在的に存在する学習観・教育観を相対化したものであり、二つのコードを分析的に峻別するものではない。

 いずれにせよ、教科の学習は教師が知っていることを教える学習としての性質が強く、総合は教師が知っている事柄を教える学習とは性質が異なる。教科の目標が持つ性質と総合の目標が持つ性質は異なるものであり、目標が異なるということは目標に到達させるまでのプロセスも異なることを意味している。こうした差異を無視して、総合的な学習の時間を他の学習に流用することが、総合的な学習の一層の充実に繋がるとは考えられない。この時間を学校裁量に任せた時、この学習は実質上消滅することになるであろう。従って、現状の時間数を削減したり、他の学習に流用することは避けるべきである。教育の自由化が、安易化につながり、学習文化が軽薄化していく結果を招かない様にしたいものだ。
「効果のある学校」 
公立学校の教育力には、「学校差」が存在する。学区の自由化の導入などは、競争原理によって学校格差の是正と特色化を図ることが目的であろう。しかし、競争原理を導入すれば、公立学校の教育力は底上げが可能なのであろうか。
 英米には「エフェクティブ スクール」という概念がある。エフェクティブとは効果的という意味だ。エフェクティブ スクールとは、地域性や通塾率と関係なく、子どもの学力を高めることに成功している学校を示す。日本にも実際にその様な公立学校が存在し、志水宏吉氏が「力のある学校とは何か(岩波ブックレット)」に事例を紹介している。
 今、「新しい時代の義務教育の創造」の必要性が叫ばれているが、学校の体質そのものを「エフェクティブ」にしていくことが非常に重要である。それは、学力を育てられる学校文化を創りあげることを意味している。
 大阪市立大学の鍋島祥郎助教授によれば、「効果のある学校」の条件とは@子どもを荒れさせない A子どもを力づける集団づくり Bチーム力を大切にする学校運営 C実践志向の積極的な学校文化 D外部と連携する学校づくりE基礎学力定着のためのシステム Fリーダーとリーダーシップの存在だという。また、ロナルド・エドモンズらは、学校に@校長の強力なリーダーシップが機能している Aすべての生徒に最少限必要なコア(基礎・基本)を習得させることに対する期待や風土がある B授業に秩序のあるしかも安全な雰囲気がある C必要に応じて教育的資源が学外から求められること D生徒の達成度の評価に複数の評価方法があることだという。
 多くの先生方も、力のある学校とそうではない学校の差異に気づいているのではないだろうか。エフェクティブ スクールの条件と力のある学校のイメージが近いとすれば、競争以外に学校の教育力を高める道があることを意味していると言えよう。競争的なシステムの導入や義務教育改革という外部の仕掛けではなく、学校の内部のシステムを変える。足下からの学校改革を考えることは、最も手近な教育改革だと言えるであろう。(2006.3.17)
総合的な学習「カリキュラムの整備」・・・・(その前に)
 
「生活・総合的な学習の時間」のカリキュラムは、教科のカリキュラムとは異なる性質を持っている。「総合のカリキュラム整備」を考えるためには、カリキュラムの性質による差異を整理する必要があるのではないか。

こうしたことから、「カリキュラムの整備」とは、生活・総合のカリキュラムの『何』を整備したら良いのかを考える必要があるだろう。伝統的な教科と異なるとすれば、同じ形式の計画では表現できない領域が存在するのではないだろうか。やかんの中の温度を測るためには、温度計があれば測定することが可能である。しかし、圧力も測ろうとすれば、圧力計が必要となる。評価対象領域が持つ性質が異なるということは、評価の手段や方法も変える必要があるだろう。


2006/2/28
掛川市立日坂小学校・「大地の実り発表会(生活・総合)」
学習発表
会参加の記録

1/「大地の実り」学習発表会の概要
 掛川市立日坂小学校(全校児童90名)は、旧東海道の宿場として知られる「日坂の宿」近く位置している。歴史、自然環境に恵まれた立地であり、学校に対する地域の期待も高い。 
「大地の実り発表会」は、生活・総合的な学習の成果を子ども達が発表する機会である。同校は二学期制を導入しており、前期の生活・総合は「個人別の課題追究」、後期は「学年ごとの集団による課題追究」によって学習が行われる。前期の個人追究で培った学習能力を活かし、後期は集団での学び合い、学びの創り合いへ発展させる。集団での意見交換や、考え合いを通して、集団と個の能力を共に高める学習である。

2/発表会の特徴
 「大地の実り発表会」は、後期に生活・総合で学んだ過程と成果を劇形式で発表する。劇は児童が創作し、小道具や大道具も児童の手で製作される。後期に学習した過程を劇として編み直すことによって、
@自分たちが学んできた事柄の整理をする
A学習過程をコンパクトに再体験することで学習過程を確かめる
B他者に説明できる形に加工する思考過程を通して、学んだ事柄をより深く捉え直す
C発表内容を創造することそのものが課題追究であり、考え合う力を高めている

等によって学習効果を高めている。
自己が理解している事柄を表現する過程においては、精緻化という現象が生じる。精緻化とは、知っていることを表現できる形に加工することによって、より深く知り直すことを意味する。この発表会を創造することによって、学びを確かで深いものへ進化させていると言えよう。また、学習過程を体験的に振り返ることは、体験的ポートフォリオとしての価値も持っている。
 
3/発表会に見る子どもの育ち
 発表会の児童の姿からは、児童が様々な事柄に気づき、理解の範囲が広がりつつ深まっていることが伺える。「わかる」ということは「かわる」ということである。同校の児童の様子からは、
@能力がかわる
A視点がかわる
B周囲をかえる 

という知性の伸張を読みとることができる。
@能力がかわる=生活科を通して、即興の詩が作れる力がついた(2年)、発表の場を想定して発話するスキルが身についた(6年)。
A視点がかわる=身近な東海道の歴史を知り、東海道に対する見方が変化した(4年)、身近な米を学ぶことにより、米や農業に対する見方が変化した(5年)。
B周囲をかえる=米のイメージアップを図りたい(5年)、郷土の昔話をもっと多くの人に広めたい(3年)などの変化が見られる。こうした児童の変化は、「わかることによってかわった」姿であり、ものごとに対する理解、思考の深まりを意味している。
 また、どの学年の学習も地域と関係しており、「体験と情報の二側面から自らの生活環境と地域を捉え直す学習になっている」(倉澤庄次郎氏指摘)。
更に、課題追究を中心とした学習が進むことによって、「教科間の垣根」が低くなり、教科的な知識を自らの必要性によって使う力が身につき始めている。詩の即興は国語的な学力であり、坂道の傾斜を分度器で計測したり布で再現する、物の大きさを写真から計測するのは算数的な学力である。郷土に関する調査では社会科的な学力が生きており、生活・総合の学習に調和している。下記の様に総合から教科に学習意欲が転位している児童も見られる。教科間の垣根が低くなることは、学習態度の生活化を意味しており、「学びと生活の垣根が低くなっていること」を意味している。

4/教師の指導姿勢
 米が豊かに実るのは、稲を育てる者が懸命な世話をするからである。「大地の実り発表会」 に実りをもたらしているのは、教師の世話(指導)の適切さがあるからである。
同校の教師は常に学習過程の適切化を図り、更に学習を深化させる工夫を行っている。今回の発表会においても、見栄えの良い発表会にすることにとらわれず、「良い発表とは何か」を児童と共に追究している。「会場から喜んでもらうことが発表の目的だろうか?」「スライドを沢山使えば分かりやすい発表になるだろうか?」。こうした発表の質に関わる問いを子どもと共に考え、学習の質を高めている。
 また、学習計画の軌道修正を可能にしている条件として
@子どもの学習過程を的確に捉えている
A教師、管理職相互の情報交換と相談が綿密に為されており、協働的学校運営が行われている
B学習の質を向上させようとする教師の意識が高い
 ということが挙げられる。

★総 評
「大地の実り発表会」から、日坂小学校の教育課程と指導の質の高さ、バランスの良さを伺い知ることができる。教科における学習の到達と、生活・総合による自発的な思考力の育成が両立していると言えるだろう。子ども個々の学習状況や成長の実体を教師が共有していることも、子どもの人間力育成を進める原動力になっている。また、考える力と行動する力=考動力が子ども達に育っており、学校全体としての教育活動が充実していることを示していると言える。 (2006.2.17)
学力の形骸化と新聞報道
 
 新聞で、中央教育審議会の審議経過報告書案の内容が報道された。その内容は、「国数理」の授業時数を増やし、総合の削減と英語学習の導入が検討されるというものだ。この記事を見る限り、「授業時数を増やせば学力があがる」という単純発想は変わっていない様である。授業時数で学力が決まるのであれば、日本よりも学習時間が少ないフィンランドは日本より成績が低くなるはずである。反対に、チュニジアやメキシコなど、日本より学習時間が長い国では、学力が高くなるはずだ。学ばせ方を度外視して、学習時間と学力の高さをニアイコールと考えることはナンセンスである。
 
 しかも、OECDが調査した国数理の三教科におけるリテラシーに追いかけ回されてる感じも強い。その意味では、極めて受動的な教育改革だと言える。更に、OECDが調査している学力の性質と、教科として国数理で教えている学力の性質は異なる。OECDの「数学・読解力・科学リテラシー」=「国数理」ではない。ただし、審議会ではもっと深い内容を議論しており、新聞記者の能力が低いために素人的な解釈しかできなかったという恐れもある。論説では懐の深さを見せながら、記事報道となると「総合の削減」を後押しする内容が多くなることも不思議だ。自らの報道の延長がNIEの衰退に繋がることは予測できそうなものである。国語教育の中でNIEを進めようという意図があるのかもしれないが、受験科目の国語において新聞が活用される場面は増えないだろう。むしろ、高学年になるほど新聞が入り込む余地は少なくなるのだ。
 
 どうも、日本の教育界は特定の場所だけに研究や実践の重点を置くことが好きな様である。総合の導入と言えば総合一辺倒になり、国語と算数といえばそればかり、少人数が流行だと言えば少人数が、学習評価が大切だといえばそればかりが脚光を浴びる。朝令暮改は悪いことではない。新しい真実を求めるための積み重ねがあれば、方針はどんどん変わるものだ。ところが、単なる風見鶏になってしまったのでは、外部から振り回されるだけになる。
 
 国数理が学習の中で重要なことは確かである。しかし、学習時間が長くなればなるほど、飽きさせない、学習から脱落させない教師の技量が問われることになろう。教師の指導力に対する風あたりは更に強くなる。だが、「国数理」の様に学力を要素だけに分け、要素だけを中心に学ぶ学習は極めて危険だ。カルシウムとタンパク質だけに偏った食事の如き学習になる恐れがある。形と要素に偏る教育によって、学習と学力を形骸化させない工夫が求められよう。(2006/2/9)

伝達か創造か
 
教育には「伝達のコードと創造のコード」という二つのコードがある。伝達とは文化を伝達すること、伝達が可能な内容を伝えることを主軸にした教育である。創造のコードとは、教師や子ども自身が自己の能力を創造していくことを主軸に据える。伝達のコードでは、知識や技能など伝達が容易な内容を教えることがメインになる。創造のコードでは、判断力や学ぶ意欲など、伝達がしにくく、学習者自身が自己を創造する過程の充実をメインとする。ニコラス・ルーマンやバーンスティンの教育に対する批判も、こうした二つのコードで構成されているのであろう。教師という伝達者が、子どもという習得者に知識や技術を伝達することは重要なことである。しかし、教師と子どもが相互に自己を創造する教育も極めて重要である。自己を創造する教師こそが子どもと共に自らを育てることができるのである。
 現在の教育は「選抜のコード」に大きく傾いた教育である。総合的な学習がどんどん英語に置き換えられていく理由は、英語は社会から選抜されるために有用な能力であり、総合で身に付く力は社会の選抜と無関係だと考えられているからである。総合的な学習で勉強をしても、超一流商社に入社できる訳ではない。それよりも、選抜に強い英語教育に関心が集まるのである。公立の学校は、本来「教育のコード」を重視している。学力も、徳性も、体力も育てようとするのは、選抜のコードではなく教育のコードで活動を行っているからである。塾などは「選抜のコード」で有効な領域のみが今の教育の対象となる。
 ところが、最近の公教育は「選抜のコード」に傾きやすく、世論もそれを支援する傾向が強い。今こそ、公教育に関わる者が「教育のコード」の重要性を主張して教育活動を行う必要があるのではないか。学校は学習機関であり、教育機関なのであるから・・・。(2006/1/30)
『連携』の意味

謹賀新年。 政府・与党が『幼稚園などの幼児教育を義務教育とする方向を決めた』と言う報道が元旦の新聞一面を飾っていた。家庭教育力の格差や、生活体験の差、少子化による社会的体験の希薄化を考えれば、当然の成り行きなのかもしれない。だが、一方で保護者の教育に対する責任感の格差が広がる恐れもある。子どもに向かう教育だけではなく、親に向けた教育も、更に重要な課題になるであろう。単なる義務教育の前倒しではなく、人格形成全体を視野に入れた教育の構想が期待される。 
 
幼児期の子どもは、生まれた時期も異なれば、発達の個性も様々である。子ども個々の発達段階を見極め、その成長点に作用する学びを構成するためには、教師の高い専門性が必要だ。幼小中の指導者が、子どもの発達に関する情報を共有しながら、個々の学齢と発達段階に見合った学習を構想することになるだろう。幼小中の連携とは、子どもの発達プロセスを共有することであり、共有できる学校間のシステムを整備しなくてはならないのではないか。

指導陣の充実した関わり無くして、連携における教育効果があがるとは考えにくい。産学連携、官民連携など『連携はやり』の昨今だが、効果の上がる連携を希求して行きたいものである。連携は目的ではない、手段なのだから。 (2006/1/4)
「基礎力」とは何か

昨今、「人材に必要な基礎力」とは何かということが、人材育成のキーワードになっている。基礎学力という言葉は聞き慣れた言葉だ。しかし、企業が人材に求める「基礎力」とはいかなる能力のことを示すのだろうか。
リクルート・ワークス研究所の大久保幸夫所長は
@コミュニケーション能力
A対自己管理能力
B問題解決能力
という三つの力が、「基礎力」の柱だと指摘している。
 社会に出ても、これらの力が育っていなければ、人材としての戦力にはならないということであろう。それでは、「基礎学力」と「基礎力」は類似の能力なのであろうか。社会が人材に必要とする「基礎力」が「基礎学力」の集積による能力だとすれば、系統的な学習さえ積み重ねていけば「基礎力」が育つことになる。しかし、「基礎力」と「基礎学力」は関連こそすれ、次元の異なる能力なのではないだろうか。
 @コミュニケーション能力の育成については、最近非常に関心が高まっている。語彙数を多く持っていれば、豊かな表現者になれる訳ではない。対人的に言語を使う能力と、テストに答えることができる力は同じ能力ではない。知っている言葉を適切に使える、図を使って説明することができる、表情や身振り手振りで伝える(ノンバーバル・コミュケーション)、相手の意図やねらいを読みとることができる(含むアサーション能力)、といったことも、コミュニケーション能力の重要な部分であろう。
 A対自己管理能力とは、自己の行動や感情をコントロールすることができる能力である。
これは、自分がすべき行動を判断し、課題との関係において思考、行動ができる力だと言えよう。対自己戦略を立て、実行する力である。
 更に、自己をコントロールする力は、他者をコントロールする力とも密接に結びついている。相手に期待する行動を取らせるためには、どの様な発言や行動をすれば効果的であるのか、判断をする力が必要だ。自己をコントロールし、表現や発問を通して、相手をコントロールしていく。相手の要求を受け入れるだけでは、社会の中で生きていくことができないだろう。
 B問題解決能力は、問題の所在と性質を見つけることができる力と、解決の意欲に支えられている。科された問題を受動的に処理するだけではなく、自己の知的感性によって、自らのおかれた状況に潜む課題を見つけて行く力が求められる。
 「基礎基本」の学力を育てることが重要であることは勿論、「基礎力」を培う学習もこれからの学校では必要であろう。しかも、新しい教科領域を設けなくとも、既存の学習の中で「基礎力」を身につけさせる指導は可能であろう。ただし、こうした「基礎力」や「人間力」と言われる様な、「社会的に作用する力」を育てるためには、教師の意図が必要である。どの様な学ばせ方や指導をすれば、既存の学習が、上記の様な三つの力と結びついて行くのか。子どもの未来を見通した「教師の意図」無くして、学習に何を求めるのだろうか。
 子どもを迷える子羊にせず、迷っても切り抜けて行ける力を育てたいものである。「基礎力」は社会を生き抜く上で欠くことができない、通行手形であると言えよう。

来年の新刊案内(その1)

」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
国語力・算数力・学ぶ力を伸ばす!
「コミュニケーションの学びと指導
<伝えあい・確かめあい・深め合う授業の創造>
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

○コミュニケーション能力は「生きる力」そのものだと言っても過言ではない。沢山の言葉を身につけ、高度な計算問題が解けたとしても、他者と情報の交換ができなければ、社会の中で孤立してしまうに違いない。ITテクノロジ(情報技術)の高まりと裏腹に、子どものコミュニケーション能力は低下の一途を辿っている。マスコミも声高に、コミュニケーション能力の育成が教育上重要な課題だと主張する。
 
 確かに、コミュニケーション能力の育成は、これからの教育において、より重い意味を持つことになろう。ところが、現在の教育課程にはコミュニケーション科という教科がない。これまでは、主に国語科の学習においてコミュニケーション能力の育成が図られてきた。だが、友達と積極的に関係を創る力や、対人的に言語を使う能力と、国語のテストに答えることができる力は同じ能力ではない。知っている言葉を適切に使える、図を使って説明することができる、表情や身振り手振りで伝える、相手の意図やねらいを読みとることができる、といったことも、コミュニケーション能力の重要な部分であろう。
 
 コミュニケーション能力は、国語も含めたあらゆる場面で育てることが有効である。コミュニケーション能力は、全人的かつ多様な資質・能力によって構成されている。つまり、多様な学びの文脈でコミュニケーションを学ぶことによって、コミュニケーション能力が育つのである。
 
 算数の学習においても、数を使った話し合いを通して、「学力の向上や定着」に効果があることがわかってきている。「コミュニケーション能力を育てること」と「コミュニケーションによって学力を確かにすること」は、両立しうるのである。むしろ、様々な教科の中で積極的に「コミュニケーション学習」を取り入れることによって、「コミュニケーション能力」と「学力」を同時に高めることができるのであろう。そもそも、教育とは「コミュニケーションを媒介とした活動」なのである。
 本書では、子ども達のコミュニケーション能力を高め、算数や国語といった教科の学力も同時に向上させる戦略と論理をまとめてみた。コミュニケーション能力の育成という視点では村松賢一氏、算数科の視点では金本良通氏、そして、国語科としての視点から掘裕嗣氏という各分野のエキスパートに、「コミュニケーションの学び」を解説して頂いただく予定である。
 コミュニケーション能力を育てることが、学力を伸ばし、子ども達が幸せな未来を築く力を育てることに繋がる。
学力とコミュニケーションを共に高める、授業の処方箋を示す一冊だ。
義務教育は勿論、私学、塾などでも活用が望まれる(2005/12/12)

確かな国語力・算数力の育成

            
より効果的な学習法、指導法はないか?
            
コミュニケーション能力と教科の学力を共に伸ばす!

  ・実践事例・考え方・授業の提案
                        
どの様な場面で? どの様な学習活動を通して学ばせるのか?
            
 コミュニケーション能力の育成

「カリキュラムの中身」
 
「カリキュラムの開発」「カリキュラムのデザイン」「カリキュラムのマネジメント」など、カリキュラムの○○という言葉が教育界では良く聞かれる。現在、カリキュラムとはどの様な意味で使われているのだろうか。さしずめ、「指導の内容と順序を計画化したもの」という感じであろうか。現代のカリキュラムは、工場の生産管理過程をモデルにしている(テイラーの理論を基にホビットが構想)。生産管理の過程の様に、効率よく、順序立てて学習の内容を配列すれば、教育の目標に到達しうるという考え方だ。
 これらの「カリキュラム」は紙の上に書ける情報を中心に構成されている。学習の内容と順序を計画として書き込めば、どんな教育をしようとしているのかが把握しやすくなる。しかし、カリキュラムさえ作れば、教育効果が挙がるという訳ではない。実際の「良い授業」には、紙に書けない情報が沢山含まれている。例えば、教師と子どもの人間(信頼)関係や、学級が持つ雰囲気などは、「紙の上に書くこと」が難しい部分である。そして、この言語化できない部分が教育成果を左右する要因を数多く含んでいる。
 カリキュラムはそれを実行する教師と子どもの「相互行為の質」に、極めて大きな影響を受ける。どれほど細密化されたカリキュラムであっても、教師と子どもの関係を目標として描き出すのは難しいかもしれない。だが、教室で行われる営みが子どもと教師の共同行為である以上、教師と子どもの関係を含むカリキュラムを構成しなければ、実効性のあるカリキュラムにはならない。
 例えば、話芸の名作と言われる落語の台本を読んでみても、落語の名人が語ることと同じ感動を聴衆に与えることはできない。話芸の名人はその場の空気をつかみ、客との微妙な間合いの中で関係を作りながら話をしているのであろう。これは、話芸の名人が客の反応をつかみ(評価し)、口調やスピード、話のタイミングを調整していることを意味するのではないか。それらの要素は、台本の中に書かれてはいない。
 学習内容を子どもに学習として作用させる能力は、教師の指導力の根幹にかかわる。教師と子どもの相互関係があるからこそ、カリキュラムは意味を持つのである。、カリキュラムと子どもを繋ぐ、資質、技術、センスが教師に求められているのであろう。カリキュラムを作用させる力は、カリキュラムの上に書くことが難しい部分だ。しかし、書くことができる部分だけを大切にしてしていたのでは、書くことができない重要な部分を見落とすことになる。教育において欠くべからざるものは、書くべからざる性質を持っているのであろう。(2005/11/16)
中央教育審議会答申と公教育の使命
 

先月26日に中教審答申の内容が明らかになった。今回の答申を貫くキーワードは「新しい時代の義務教育」だ。では、学習指導面において「新しい義務教育」とは何を意味するのであろうか。新しい義務教育というからには、「これまでの義務教育」とは何かが違う筈である。今回の答申では、「義務教育の使命の創造」と「全人的な資質・能力の育成」という二点を明確にしようとする意図が感じられる。「義務教育の使命」とは、簡単に言えば「私塾や家庭では対応しにくい部分の教育」と言い換えることができる。塾や家庭でもできる教育であれば、それは、義務教育固有の使命だとは言いにくい。塾や家庭で育てにくい部分や、徹底しにくい部分の教育をしてこそ、公立学校の存在理由が見えてくる。
 例えば、協働学習や「総合的な学習」、特別活動などがこれにあたる。学び合う能力の育成や、総合、特活などを塾や家庭で学ばせることは難しい。複数の子ども達が関わりながら、関わりの中で知を獲得したり、使ったりできるようにするには、義務教育という場が非常に重要である。
 また、このことは「全人的な資質、能力の育成」にも関わってくる。塾や家庭でのドリル学習で育てる力は、主に「受験課題対応型の学力」である。友達との関わりの中で、友達への思いやりを持つ心を育んだり、一つの課題に対して学び合いをしたり、体験的な学習を通して学んだりする機会は、義務教育の中でこそ頻繁に見られる。もしも、受験対応型の学力をつけるだけならば、塾でもインターネットでも家庭でのドリル学習でもできる。義務教育が公であるのは、なるべく偏りなく、人間の成長に遍く必要となる資質・能力を育てる場であるからだろう。全人的な資質や能力を育てるためには、教科学習+αの「α」の面が非常に重要である。
 植物で言えば、化学肥料(窒素、燐酸、カリ)だけではなく、実際に健全な成長を遂げるために、様々なミネラル分を必要とすることに似ている。
子どもという存在は成長のために、様々な場や体験、思考、感動を必要としている。それは、人間が総合的な存在であることを意味している。
「義務教育でなくてはできない教育=組織的な教育活動を通して全人的な資質・能力をバランスよく育てること」。これまでとは異なる社会構造の中を生き抜く力と、総合的な人間力を育てる教育が、新しい義務教育の中で一層重視されてくるのではないか。(2005/11/7)
「教えて考えさせる・考えさせることで学ばせる」

 最近の学習では、「教えて考えさせることが重要だ」と言われる。これは、教えることだけにとらわれ、教えた知識がどの様な意味を持つのか、他の知識との関連がどうなっているのかということは、あまり重要視されてこなかったのだろう。確かに、教えっぱなしにしてしまい、試験以外では役に立たない知識を教える傾向が強かったのかもしれない。こういう知識は、試験が終われば忘れてしまう。教えた知識の有用性や、他の知識との関わりを考えさせることも大切にされるべきであろう。
 
しかし、「教えて考えさせる」ことだけではなく、「考えさせることによって学ばせる」ということも価値があるのではないか。むしろ、「考えたことでよりよく学ぶことに繋がる」ということもある筈だ。
 但し、「良く考えなさい」と指導するだけでは、なかなか子どもは考えてくれない。考える価値を子どもが感じられる指導が必要である。「考えなさい」という指示によって考えるのではなく、子ども自身が自然と考えざるを得ない状況を作る。そのためには、子どもが考えたくなる教材が必要であろうし、学習内容に子ども達が関心を持てる形に加工することも求められる。ここが、教科書や学習内容と子どもを結ぶ教師の力量が試される場になる。

イチゴ農園が近くにある小学校で、ある先生がイチゴを使って算数の授業をした。イチゴ農園のおじさんやおばさんは、子ども達が良く知っている人である。先生は、このおじさんやおばさんがイチゴを出荷する時に、イチゴの重さを量ったり、数を数えたりしている姿を写真に撮った。その写真を使いながら、「イチゴを10個ずつパックに詰めるにはどうしたらよいか」、「100個あるイチゴを三つのパックに詰めるには」という様な問題を作って教えていった。効果はてきめんであった。「おじさんとおばさんを手伝おう」という気持ちから、算数の問題を積極的に考える様になったのである。休み時間になっても、「先生、もっといい計算の方法が見つかったよ」などという子どもの声が聞こえる。こうした事例は、「考えることによってよりよく学べた」好例ではないだろうか。

「学べる状況」を作り出す教材は、子どもの実態や置かれている環境から導き出される。子どもが考えたくなる教材を用い、考えることによって学ばせる学習ができれば、子どもにとって負担感が少なく「活きた知識」を学べるのではなかろうか。(2005/10/24)
学習時間と教育改革

 「学習時間」と「学習内容」は、学習の充実を決定づける要因と考えられている。教育改革を語る場合にも、「学習時間を増やす」「学習内容を増やす」ということが中心になりがちである。二学期制の導入で学習時間を増やす、教科書の内容を増やすといった改革の方向性は、正に「時間」と「内容」をターゲットにした改革だ。
 しかし、「学習時間」については、何をもって学習時間とカウントするのかということが全く論じられていないことが気がかりである。二時間勉強するよりも、四時間勉強することが学習成果に繋がるのかどうか。もし、学習時間が長ければ学習成果が上がるという証拠があるならば、時間数を増加させる教育改革は正しい改革だということになる。だが、次の子ども達の会話は一体何を意味するのだろうか。

「あの先生丁寧だよね」「丁寧だけど、もうわかっているのにくどくど説明するんだよね。次の問題で聞きたいところがあるんだけど」「そうそう、一通り全部説明しないと終わんない」「でもさ、あの先生本当に熱心でいい先生だから、最後まで聞いてあげないとって思っちゃう」「うん、本当にいい先生だよね」

 これは、筆者が実際に街中のファミリーレストランで耳にした言葉である。会話の内容から、この先生が時間をかけて丁寧に指導をしていることがうかがえる。しかし、子どもの側に立った場合、この時間は「学習時間」として成立しているのであろうか。説明時間にはなっていても、学習時間としての成立度は低いのではなかろうか。子ども達の声からは、時間の長さと学習の成立は決定的な関連を持っていないことがわかる。
 「学習時間とは、@学習者が学習内容に関心を持ち A集中力を維持しながら学習内容が持つ知的情報を理解・構成しようとしている時間のこと」と定義してみてはいかがだろうか。教師であれば誰でも、「授業の手応え」を感じたことがあるはずだ。その手応えとは、事後テストの点数だけではなく、@Aという点からも生まれてくるのではないだろうか。
 
 物理的な時間数のカウントだけではなく、学習としての成立を十分に考慮しなければならない。時間は必要だが、どのような時間であるのかが問われる。それこそが、「教育における時間の意味」を満たすのではなかろうか。(2005/10/14)

「学びあう世界」

  学ぶわたしが、あなたとわたしをつなぐ

  わたしの学びは、あなたの学び

  あなたの学びは、みんなの学び

  みんなの学びが、世界をつなぐ

  世界とわたしがひとつになる

  わたしをわたしにするために

  世界の中のわたしを学ぶ

  わたしが世界で生きるため

  学びの世界がわたしを創る

「学ぶわたし」

 わたしはなぜ学んでいるの

 わたしは本当に学べているの

 学べていないわたしは、わたしで在ることができない

 わたしがわたしになるために、わたしは学ぶ

 学んでいる友がいるから、共に学べる

 学ぶわたしがいるから、学び合うことができる
 
 学ぶわたしは、わたしを始める第一歩

「社会科の授業が対話型になっていますか」(明治図書刊行) 
         安野 功 著 を読ん


社会の中で「共に活かし生きる力」を育む
「社会科」の意味する「社会」とはどの様な意味を持っているのだろうか。英語のSociet(社会)とはラテン語で「友との交わり・絆」を意味する、societas(ソキエタス)に語源を辿ることができる。更に古くを求めてみると「仲間」、を意味するsocius(ソキウス)という言葉に行き着く。日本語の「社会」も、古い中国語で「田舎の祭り」という意味だと言う。“祭り”は一人だけで可能になるものではない。共感する多くの輩(ともがら)を必要とするのである。この事は、社会科の学習が「孤(個)人学習」、「孤(個)別学習」のみでは、完成し得ないことを意味している。共に聞き、共に考え、話し合い、現実の社会で「生かしあえる知性と行動力の源」を身に付ける。これが、社会科で身に付ける公民としての「生きる力(資質)」でなくしてなんであろう。
「社会科授業が対話型になっていますか」(安野 功 著 明治図書)のタイトルを見て、違和感を持った方はいないだろうか。著者は読者に尋ねているのだ。決して、こういう内容を教えろ!、こうやって学力を伸ばせ!、という押し付けを強要しているのではない。一般的な指導者が教えの「型」を教師に強いていることとは異なっている。教える者が、「学習者と対話を通して学びを共有しているか否か」を尋ねているのだ。筆者は、読者を「輩(ともがら)」の射程に入れている。子ども達に教える同胞、共に学ぶ同胞として読者(教師)に語りかけているのだ。「社会」の語源を辿ってみれば、著者が教えるということ、学ぶということを社会的(人との関わりで)に捉えていることは理解できる筈だ。
▲「社会科授業が対話型になっていますか」という問いは、その問いそのものが社会的である。公立学校の「公」とは、対話的応答関係と民主的思想に基盤をおいている。その、公である社会に参加し、生きて行く力を子ども達に育てるためには、「学びそのものが社会的」でなくてはならない。筆者は、授業の内容・学習対象と学習者の関わり、学習者と学習者の関わりから知や課題の共有を生み出すコツ、ノートやメモから子どもとの対話を作り出す具体的視点を提案している。これらの授業テクニックや指導観は、学級経営にもすぐに使える指導の智慧を含んでいる。
▲ 著者は、教える授業、伝える授業に止まらず、「対話によって考え合う授業」を提案している。その心は「つなぐ」ということにあると見た。子どもと知をつなぐ、教師と子どもをつなぐ、子どもと子どもをつなぐ、知と教師と子どもをつなぐ。そして、教師の教え甲斐を子どもにつなぎ、教師と子どもを社会につなぐ。更には、歴史という時間性や経済・政治という社会を子どもと教師につないで行くのである。
▲ 社会科として固有の教科領域が持つ「学力」を育てる視点を示し、対話と問いかけを通して「学習の成立」と「教育の理念」に迫る。著者の魂(ポリシー)と、授業構築における具体のノウハウを手に入れることができる。偉大な教育者パウロ・フレイレが主張した「教師と学習者が共に、真に、学ぶものであること」を、授業レベルで実現の射程に入れる手法を明らかにしたのが、本書である。この本を読むことが、読者の中に「内対話」を呼び起こし、読者の指導に新しいエネルギーを配給してくれることは間違いない。そして、指導のバリエーションを豊にしてくれることであろう。 
「学びの型を変える」 

 読者はこの絵がどんな動物に見えるだろうか。ご存じの通り、この絵はだまし絵(多義図形)と呼ばれる絵である。ある者にとってはウサギに見え、別の者にとってはアヒルに見える。この他にも、「貴婦人と老婆」や「ルビンの杯」等、二通りの見え方をする絵は色々とある。この絵を見ていると、昨今の「学力論争」に似ていると感じる。
 
中教審・義務教育特別部会審議経過報告の中に「基礎的な知識・技能の育成(いわゆる習得型の教育)と、自ら学び自ら考える力の育成(いわゆる探究型の教育)とは、対立的あるいは二者択一的にとらえるべきものではなく・・・」という一文がある。習得型とは「教え中心主義」であり、探究型とは学習者の主体性を重視した「子ども中心主義」である。だが、探究型の学習で基礎的学力を育てたり、基礎的学力を育む中で探究能力を育てる学習はできないものなのだろうか。教科と総合が対立的に捉えられてしまうことは、学力の二者択一問題を象徴する議論である。
 
「教えの重視で良いんだ、基礎基本なら詰め込んでも良いんだと聞くと、安心するんです。わかりやすいし、自分自身がそうして勉強して来ましたから」とは、先日伺った小学校の先生から聞いた言葉である。これは、この教師自身の「学び型」が 「習得型」に偏っているからなのではないか。二者択一の学習観から抜け出して行く為には、教師自らが学びのスタイル、バリエーションを増やして行くことが必要だろう。アヒルと見たり、ウサギと見たり、複数の見方ができてこそ「新しい世界」が見えてくるのではないだろうか。(205/9/26)
高学歴低知能を増殖させるマスコミの罠

 「ヨミウリ・ウィークリー」9月25日号に、「学力低下の真犯人」という企画が掲載されている。一体、学力低下の真犯人は誰なのか。興味をそそられて筆者も買ってみたが、論があまりにも低レベルで読むに耐えない内容であった。学力低下の原因は文部科学省と教師にある、という結論に読者を肯首させたい企画意図がミエミエである。

@モダン時代のノスタルジックな学力論を展開。教科書を厚くして、長い時間勉強をさせれば学力が上がると  いう貧弱な学習モデルに基づく構成。

A教える内容がコロコロ変わることが学力低下の原因と言うが、内容はほとんど変わっていない。大臣のマス コミ発言で学習内容が変わったと勘違いしている。(むしろ、百ますブームにより親の影響でコロッと変わった 学校はあります)

B「円周率を3で教えるのはおかしい」「教科を教えれば、OECDの成績も上がる」という、トンチンカンな保護  者の意見で論理武装(円周率を基本的には3で教えていないのは周知のこと。リテラシーと学習到達度には 強い相関関係は無い。それは、フィンランドのPISA好成績とIEAの成績が一致しないことからもわかる)

C挙げ句の果てに、2007年度からの学習到達度調査が「小学校の卒業試験という性格を持つようになる」と いう、公教育の役割を知らない識者氏の登場(国語と算数だけできれば小学校を卒業できるものなんですね ぇ)。

Dこの他にも、挙げればキリがない程低レベルな議論が延々と続く。

 こうした、貧弱な内容が世間からウケるのには理由がある。

@高学歴、詰め込み世代の大人には、読み、書き、算数を長い時間勉強することしか学力 向上策が想像で  きない。 社会は変化をしても、教育は「寺子屋学力」で成り立つとい う時代錯誤。
A高学歴を旧学力で生き抜いて来た大人は、自分の受けた教育こそ良い教育だと思いたい(フェスティンガー  の認知的不協和)。
B自分で自分を責めたくないので、行政や教師を攻める上で「信じられる理由」が欲し  い。
という理由が真実ではないだろうか。
 
 知的に貧弱な編集陣と、私以上に生半可な教育評論家が、古典的で偏りのある硬直した意見を「最新のデータが裏付けた真実」として喧伝していく。イノベーターの仮面を被った、教育進歩への抵抗勢力の発言には引っかからない賢さを持ちたいものだ。「教師をサラリーマン化した」と批判するが、こういう雑誌の編集部こそサラリーマン化に過適応した人種に見える。

@保護者や私学/塾は攻撃できない。なぜなら、購読料と広告料のドル箱だからである。
Aこの企画は、大手学習関係企業と合同で企画されており、「国語と算数だけ」を学力に すれば、ドリルや問 題集が売れる。
つまり、彼らが共に売り上げを伸ばすためには、「国語と算数」の学力危機を煽り、教科だけを学力に仕立てる必要があるのだ。「総合」で育つ力を学力と認めても、経済的に潤う商材は作りにくい。「総合」を止めるべきなのであれば、NIE(新聞を活用した総合的な学習)も批判するべきなのであるが、それはしない。母体がマスコミ企業だから、なのであろう。まさに、社に忠誠を尽くす「サラリーマンの鏡的企画」が今回の編集意図に見える。
  こうした、方々にはハワード・ガードナーの多重知能や、ジルーの批判的教育学、最近の認知科学の進歩や、モダンとポストモダンの動向について少しは学んで欲しい。教育と子どもを取り巻く環境は変化している。いつも同じ部分や領域だけを「学力」にしてしまうことは、そろそろ止めた方が良いのではないか。(2005/9/13)
(業務連絡・静岡の倉澤先生、少しは読みやすくなりましたでしょうか)

「総合的な学習の時間」に予算

いよいよ、研究発表のシーズンが近づいて来た。数年前までは、筆者の元に届く研究発表会の案内は「総合的な学習の時間」に関わるものが多かった。ところが、昨年から今年にかけては「習熟度、基礎基本の徹底、少人数指導」に関わる研究がほとんどである。マスコミによる、根拠なき学力低下の喧伝によって、「総合的な学習の縮小・廃止」が囁かれだしたからであろう。
 日本の教育界の特徴は根拠なき報道に基づいて、風見鶏の様に教育の方向を変えてしまうことだ。成果が挙がる前に、次の流行へと流されていく。授業の本質的な変化があるのかと言えば、そうとは思えない。研究の対象と掲げられた文言が変わるだけで迷走しているだけの様にも見える。
 総合は、画一主義、教えこみ主義、測りやすい知識の至上主義、主流主義、進歩神話に基づく個の発達という、モダニズムの産んだ陰を超克するために生まれてきた。こうした、ポストモダン的学習が、モダニズムの延長で指導され、成果が挙がらないからということで、またモダンに戻ってしまう。苦労をした挙げ句に、時計の針を逆戻ししてしまうことは、あまり賢い選択とは言えないのではないか。
 先月末、文部科学省は来年度予算の概算要求に、「総合の活性化プラン」に充てる約4億2000万円 を計上した。中央教育審議会においても、「総合支援」の意見は多いが、撤廃論は希である。これから撤廃する教育に、国は充実のための予算を要求するであろうか。「総合」は、「教える人間が真の学習者であること」を求める学びである。子どもを学ばせるだけでは、モダン時代の再生に終わってしまう。それでも、モダニズムの教育を推進しようとするならば、子どもは最大の被害者になるであろう。(2005/9/1)

「全国学力テストのネーミング」

2007年度から全国学力テストが始まるという。対象は小学校6年生と、中学校3年生。そして、テストの科目は国語と、算数・数学である。子ども達の学力の実態をつかむ調査を行い、教育の方向を構想していくためには、こうした調査も必要であろう。
 しかし、一方で「学力」を「生きる力」から乖離させ、テストで計測できる部分だけを「学力」と呼ぶ様な学力観を一般化する恐れもある。特に、マスコミはこの測定できる部分だけを「学力」と呼ぶ傾向が強い。「学ぶ意欲」や「自ら考える力」「学習態度」などは学力の構成要素と見なされず、成績としての点数だけに衆目が集まることになる。
 文部科学省は、この調査を「全国学習到達度調査」や「学習理解状況調査」等と命名するであろう。しかし、マスコミはこの調査を「学力テスト」という言葉に置き換えてしまう。このテストだけで学力を評価することは、評価の概念妥当性において相当な問題を含んでいる。「生きる力」としての学力ではなく、知識・理解に止まる部分だけを「学力」と呼んでしまうのはいかがなものであろう。「学力」の調査領域は、知識の量と操作だけでは無いはずだ。テスト結果だけを学力と呼ぶ「マスコミの罠」にはまらないために、読解力リテラシーをもって情報に接したいものだ。(2005/8/30)
少人数指導と子どもの社会化を考える

このところ、少人数指導が非常に注目されている。少人数指導は、個に応じたきめ細かな指導をする上で有効だという。確かに、子どもの個々のつまずきや到達度により、指導の作用点は異なる。従って、個に応じた指導はどうしても必要になるであろう。しかし、@集団では個に応じた指導が不可能なのかA個に応じる指導だけで十分な学力がつくのか、という点は再考してみる価値がある。
 @においては、必ず少人数でなければならないということにはならない気がする。誤答分析や、プリテスト等を使いながら、一斉授業で個に応じる指導も可能であろう。また、マスタリーという選択枝もある。但し、成績処理や教師と子どもの接触の質を考えると、1クラスの人数は30名以下が良いだろう。指導の目的によっては、2クラス合同でのT・Tも考えられる。筆者は、決して少人数指導に反対している訳ではない。しかし、「少人数指導にすることそのもの」を目標にしてしている様な実践もある。あえて少人数にする意義というものを、再考してみる必要があるのではないか。子どもは他者と関わりながら、社会的な存在として生きていく。だが、最初から沢山の人々と深く関わる力を持っている訳ではない。従って、少人数で他者と関わりを深め、考えを交換できる資質・能力を育むことは子どもにとって意味のあることであろう。
 Aについては、教師が個に応じるだけでなく、個が周囲の個に応じる力を育てる必要も考慮すべきである。子どもという個が、教師から応じられる受け身の存在として捉えられ過ぎているのではないか。個が、周囲の個と相互応答関係を通して、課題や思考を交換、比較、アプロプリエーションしていく能力を育てることは公教育の大きな役割では無かろうか。「個が社会に応じられる力」は「生きる力」の基底となる力だと思うのだが、いかがなものか。(2005/8/11)

学問の基礎と学力の基礎
 
 最近の学力論争の中で、気になることがある。それは、「学問の基礎知識」と「学力の基礎基本」を混同したまま、学力論争が行われているのではないかということだ。「国語と算数の基礎基本を身につけさせる」という場合、国語や算数という学問の基礎的内容を指していることがある。しかし、それは身につけさせる学問の内容と程度を示したものであり、学力について語っているものでは無いような気がする。学問の基礎的知識と、学力の基礎基本がどこかですれ違っているのだ。学力の基礎は学ぶ態度や表現力なども含めた資質、能力である筈だ。

 「総合的な学習」の不要論も、「学問としての基礎知識」を学力と取り違えていることに端を発しているのではないか。物事に興味がもてる能力や、生活の中で情報を活用する創造性の基礎は、どこで育まれるのだろうか。学力が、子どもに詰め込む知識の量だけに還元されてしまうことは、非常に危険である。

 実生活の中で課題を見つけたり、関心を持ったり、思考の対象を見つけたりする知性は、子どもにとって一生物の学力であろう。教科の学習は、後からでも学び直せる余地を残している。しかし、物事に興味を持つ能力や、好奇心、自分がおかれている環境から必要な情報を取り出す能力は、後からでは間に合わない。

 国語を増やす、算数を増やす、英語を加えるという議論の前に、「学力の基礎基本とは何か」を問い直してみる必要がありそうだ。(2005/8/5)

「あいさつ」という学力
 「あいさつ」は、規律ある態度(礼儀)や社会性の基本的行為だと言われることが多い。しかし、「あいさつができる」という態度は、学力の一部とも言える気がする。社会の中では、他者という情報源から様々な事を学ぶ。他人との、ファースト・コンタクトはあいさつである。あいさつによって、他人との関係に接点を作り、様々な情報交換ができるようになる。他者から、必要な情報を得たり、自分が発信した情報を他者に使ってもらうことによって、知的世界が広がって行くのである。
 あいさつは、コミュニケーションの入り口であり、相手の心をノックする行為だ。学校や社会において、他者から学べる力の原点として「あいさつ」は重要な意味を持つ。あいさつができる態度は、「社会に潜む知を引き出す学力の出発点」なのであろう。(2005/8/3)
私を育てた四師
 
 成績劣悪は幼少の頃よりである。小中学生の時代、通知表はオール1が多かった。そういう劣等児童にとって、印象に残る四人の教師が居る。

 その一・ 幼稚園の先生。確か、大坂先生という名前だった気がする。幼稚園の頃から、智慧遅れ気味であったが、悪戯だけは他の追随を許さなかった。幼稚園の先生も、私の扱いにはほとほと手を焼いていたらしい。その大坂先生が、私の卒園と同時に関西の方へ転居することになった。私は、それを聞き、ありったけの技術?を駆使して、折り紙の贈り物を作った。もう、春休みに入っていたが、母と電車、バスを乗り継いで夕暮れの幼稚園に向かう。大坂先生を呼んでもらい、僅かばかりの折り紙をお礼にと手渡した。
「一番困った子だったけれど、一番優しい子ね」。そう言って、大坂先生は、私を抱きしめて泣いた。なぜか、私も泣いた。その涙と温もりが、今も私の心の芯に残っている。

 その二・森井一草。正体不明の師である。私塾の経営や、帝京高校の講師をしていた様である。私と出会った時は、小学校の野球チーム監督であった。
「君は成績が悪いそうだな。気にするな、能力は高い。好きなことを勉強せよ」。小学校の先生方が私を馬鹿だ馬鹿だと言っていたこととは違い、私に責任を持たせて仕事や役割を与えてくれた先生である。スポーツ少年団のマネジメントを通して、学問とは異なる知識を学ぶことができた。

 その三・小林弘子先生という。中学校の理科の先生である。「雑学博士よ、何を知ったかよりも、知ったことの意味を考えよ」。班ノートに書いてくれたこの言葉は今も忘れることができない。

 その四・茂木六衛先生。現職の教頭先生であるため、詳細は書かない。しかし、教師とはどんな使命を持つべきか、感じさせてくれた師である。
大人になってからは、藤井均氏、嶋野道弘氏という優れた師に出会うことができた。師とは、子どもの人生の中に一生残り続ける存在なのである。

子どもにとってどんな師であれるのか。これは、教師にとって最大の難問かもしれない。(2005/7/30)
共用知性としての国語と算数

 これから夏過ぎまで、数多くの学校へ研究のお手伝いに伺う。数年前までは「総合的な学習の時間」に関するお手伝いが多かったが、今年はこれまで皆無である。お手伝いの内容は殆どが、少人数指導に関わる内容であり、協働学習がそこに若干混じる感じだ。学力低下と例の「たたき込み発言」を受けて、少人数/習熟度/国語と算数が、学校教育の三種の神器になっているのだろう。
 
世の中一般では、読み、書き、算数を「基礎学力」「中心教科」と捉えている様だ。国語や算数が教育上重要な部分に位置していることは間違いないが、他の教科の位置づけはどの様に感じられているのだろうか。確かに、各教科の学習においても、あるいは学校生活においても言語的能力と数的な概念を操作する能力は重要である。国語を使わずに算数や、社会を教えることは難しいであろうし、算数を使わずに社会や理科を教えることも難しい。

 しかし、これは国語や算数が基礎であると言うよりも、教科学力の共用知識であると表現した方がしっくりと来る気がする。全ての学習の共通知識として、教科の意味内容を満たし、繋げていくのが国語と算数ではないのだろうか。各教科には各教科としての基礎・基本がある。その基礎基本でも共用される知性が国語と算数なのであろう。共用知識としての国語や算数は、他の学習や学校生活という違った分脈で使われることによって、質を高めて行く。学力基盤の質を高めていくことこそ、子どもの学ぶ力を育てていくことに繋がるのであろう。(2005/7/12)
七夕の教訓
 
七夕伝説の主役と言えば牽牛と織姫である。この話は中国から海を越えてきた伝説だ。
漢の時代には既に文献の中にこの話が収められているというから、相当に歴史が古い伝説である。牽牛と織姫は両者とも、大変な働き者であったという。ところが、二人が結ばれて以降全く働かなくなる。

 結局、織女の機織り機は動かなくなり、牽牛の牛も倒れてしまう。かくして、天帝の怒りを買った二人は年に一度しか会えなくなってしまう。これは、一度怠け癖がつくと、そこからなかなか逃れられないということであろう。人間の弱さを悪い意味で象徴した話だ。
 
 さて、夏休みが近くなった。だが、休みの解放感だけに浸っていたのでは、学びの態度は崩れてしまう。夏休みだからこそできる学びや、夏休みでも継続しなければならない学びを子ども達に体験させたいものである。夏休みこそ、学習習慣と学ぶ態度を固める絶好の機会ではなかろうか。(2005/7/7)
算数学習は良いか悪いか??

 「算数の学習は良いか悪いか?」と問われた時にあなたはどう答えるだろうか。「算数の学習が良いか悪いかなんて、変な質問だ」と違和感を感じるであろう。「あの算数の授業は良かった」とか「あの算数の授業はここが上手く行っていなかった」という、算数授業個々の出来不出来なら良く話題になることだ。
 
 さて、問いを変えて「総合的な学習は良いか悪いか」と問われたら、あなたはどう答えるであろうか。この問いに対しては、何の違和感も持たずに「良いか悪いか」を論じて行くのではないか。
 
 かつて、ある先生がこんなことを言っているのを聞いたことがある。「みんな良い先生だよ。いた方が良い先生。いない方が良い先生。いてもいなくても良い先生。みんな良い先生でしょ」。これは、かなり過激なアイロニー(皮肉)を含んだ言葉である。同様のことが、「総合的な学習の授業」にも当てはまるのではないだろうか。
 
 「総合的な学習の時間」も良いか、悪いかということ以前に、良い総合になっているか、意味ある学習活動になっているかを問うべきであろう。そこを飛び越えて、いきなり「総合学習の賛否」を論ずることは、非常にナンセンスである。こういうナンセンスな思考回路しか持てぬまま教育論議を進めていけば、教育論議は一層混迷するであろう。自戒の意味も含めて、自分の思考回路を自己点検できる視点を持ちたいものだ。(2005/6/22)
学びのマインドを育てる

 「学習」と「教育」は混同して語られやすい言葉だ。学力低下に関わる問題も、「教育問題」として議論されることが多い。しかし、詰め込みが良いとか、経験的学習が良いとかいう論議は、教育問題と言うよりも「学習問題」なのではないかという気がする。
 学習問題を考究すると、漢字を覚えさせたり、計算を正確に速くできるようにするといった、足元的学力だけに視野狭窄を起こしてしまう。「今日、何個漢字を覚えさせたか」ということも学習上重要な課題ではある。しかし、そうした足元的学力からだけの視点で教育問題を捉えることは、教育の価値そのものを矮小化してしまう気がしてならない。沢山反復をさせる、長い時間教えるといった浅薄な結論を出してしまのうは、教育ではなく「学習」だけを切り出して考えているのであろう。
 登山家は、頂上という見えない目標を目指し、今、目の前の一歩を進む。教育に置き換えれば、目の前の一歩は、今日の授業であり、今日、身につけた知識だ。そして、目指す頂上にあるべきものは「学びのマインド」なのであろう。
 マインドとはmental activitiであり、動的な意志を伴う心を意味する。単に心の存在を示すだけではなく、動的な意志の作用があってこそマインドと呼べる。学びのマインドとは、学ばずにはいられない知的探求心、向上心だと言えよう。
 何年に何が起きたか、誰がどんな文学作品を書いたか等は、調べようと思えば調べることができる。問題は、そうした知的探求を自らに要求する「学びのマインド」が持てるか否かだ。目先の知を獲得させることも大切だが、手持ちの知を使いながら、物事を探求していく資質を育てることも教育の重要な視点である。「既知の知の活用」「未知の知の探求」「新知の創造」という教育の視点がなければ、学びのマインドを育てることはできない。(2005/6/17)

コンタクトとコミュニケーション


 コンタクトという言葉がある。一般に、コンタクトという言葉は「連絡を取る」という意味として使われている。「担当者とコンタクトをとる」と言う様に、日本の日常会話の中でも用いられている。contactと言う言葉はcon「一緒に」とtact「触れる」という二つの意味を持つ部分からなる。最近の教育の中では、コミュニケーション能力の低下がしばしば話題になるが、その根底にはコンタクト意欲の低下、欠如があるのではないか。
 
 コミュニケーション能力と言うと、語彙の豊富さや、相手に応じた説明ができる、適切な言葉が選択できるなど、言語を操作できるスキルに還元されやすい。しかし、相手に意図を伝える接点を作る能力や、他者へ働きかけることができる態度こそ、コミュニケーションを可能にする資質なのではないか。

 コミュニケーション能力の育成は、コンタクト意欲と密接に結びついてる。語彙が乏しいから話しかけられないというのは、大人の立場に立った考え方である。語彙力が乏しくとも、他者に対する積極性を持つ子ども、積極的な態度を育てる教育が必要なのではないか。(2005/6/12)

生徒の力を見据えた指導


 高等学校は義務教育と異なり、学校間の学力差は当然のこととして存在する。一流大学の進学を目指す高校の生徒と、就職を目指す高校の生徒では、自ずと学力の差が生じる。義務教育では指導要領を「基準」として捉えるが、高校では「標準」として捉える。それは、高校間においての学力差を考慮してのことであろう。先週は、高校数学研究会に招かれて、話をする機会を得た。この会で、いわゆる底辺校での先生方の苦労話を色々と教えて頂いた。苦労話というよりも、「工夫話」とした方が適当かもしれない。以下は、ある先生の話である。

 「私は数学の教師なので、どんなことがあっても数学力を生徒に育てる責任がある。そのためにには、生徒の意欲を高める必要がある。まず、生徒の学力をつかみ、教える内容を決める。教えた内容の8割は教えた知識で答えることができる問題を作る。つまり、平均点が80点になるテスト問題を作る。残りの2割のうち半分は応用力が必要な問題、最後の1問は教えた知識だけでは答えられない問題を盛り込む。

 中学生の頃、10点や20点しかとれなかった子どもが、60点〜80点をとる。始めての経験に多くの生徒が、諦めずに授業に付いて行こうとする。しかも、100点をとった生徒には、教えた内容を超えて、自分の力で問題を解いたということを伝える。大学進学など考えもしなかった生徒が大学を目指して勉強をする様になることもある」という。

 しかも、自分の作った問題が悪題ではないかどうか、同僚の教師にも意見を乞うのだそうだ。更に、「100点をとって自信をつけ、理数系の大学を目指す!」と主張する生徒にも、安易に大学行きを勧めたりはしない。理数系で受験競争を勝ち抜いて来た他校の生徒と、同じ大学に行って互角の勝負をすることが難しいからである。
「錯覚から目を覚まし、それでも理数系の大学へ行きたいという生徒には、生徒の希望と実力を見据えた指導をしていく」という。

 生徒の実力を知り、生徒の実力を伸ばし、生徒の相談に乗りながら進路を決めていく。数学教師として、数学の力を付けさせ、しかも進路の選択にも深く関わっていく。「生徒のことを考えていたら自分の時間などない」という。
学校間格差の中で、生徒の力と人生を見据えた指導をする先生方の姿勢に対し、感動をさせられた会であった。
(2005/5/31)

コミュニケーション教育の「三あい」

 前回、コミュニケーション能力の低下について評価から考えてみた。その後、「国語教育とコミュニケーション力の指導は重複する面があるのではないか」という指摘を、読者から頂いた。確かに、コミュニケーションは言語を主に使うため、国語の学習と関わる部分もあるだろう。しかし、これまでの国語教育がコミュニケーション力低下に歯止めをかけられないのだとすれば、新しいコミュニケーション指導の視点が必要になるのではないか。
 
 筆者は、コミュニケーションにおける、教育上重要な視点を「三あい」と読んでいる。「かかわりあい(意欲)」、「わかりあい(知識)」、「みがきあい(成長)」が三つのあいだ。「かかわりあい」は言語を始め身体でも関われる意欲と活力を示す。「わかりあい」は、学習面において知を創り合うこと、他者と考えを理解しあうことを示す。「みがきあい」は、「かかわりあい」と「みがきあい」を通して、価値の創造と人間的成長を目指すことを意味する。「かかわりあい」を忌避することは、社会からの逃避である。自我の中に止まり他者との接触を避け続ければ、社会から孤立した存在になってしまう。「わかりあい」ができなければ、他者の知を活用することができず、情緒的な他者との繋がりを持つことも難しくなる。「みがきあい」は、他者との相互応答関係を通じて、互いを高め合うことである。集団的同調力を持っていても、価値の創造に向かわなければ、単なる烏合の衆になってしまう。
 
 「生きる力」を育てる教育が推進されているが、個に閉じた「生きる力」は存在するのだろうか。他者と「かかわりあい」「わかりあい」「みがきあう」、そうして「共に生きられる力」が今後の教育では大切な気がする。(2004/5/2)
コミュニケーションと学習評価

 「コミュニケーション能力が落ちている」「大人に対しては関われるが、同年代の子ども同士で接するのは苦手」「他者と上手く関係が作れない子どもが増えている」。これらの声は、現職の先生が「子どもを見ていて感じる問題」として挙げたものである。学校において、子どものコミュニケーション能力低下は深刻な状況にある様だ。コミュニケーション能力低下の原因については、色々なメディアが取り上げている。敢えてここで列挙することもないだろう。

 原因はともかくとして、学校において、子ども達のコミュニケーション力を育てる指導が必要な時期に来ているのではないだろうか。 コミュニケーション能力低下の原因が分かったところで、それを取り除くことは不可能に近い。町中からオートマティックな機器を撤去することもできなければ、情報機器の販売を規制することもできない。親子に対話の時間を持てと言っても、実際の効果は上がりにくい。そろそろ学校が積極的にコミュニケーション力の育成に力を入れなければならない時期にきているのではないか。子どもの対人関係能力の低下に対して、現場の先生方は少なからぬ焦燥感を感じている様である。

 こういう事を主張すると、「また、新しいことを学校に持ち込むのか」と思われるかもしれない。しかし、毎日同年代の子ども達が集まる学校こそ、コミュニケーション力育成に最も適した機関なのではないか。更には、教科やその他の学習の中でも、コミュニケーション力の育成を視野に入れた指導が可能であろう。かつて、国語が得意な不登校児童と話をした折りに「国語は得意だよ。文章も書けるし読むこともできる。でも、話しかけるのは別のことなんだ」と言われて、 なるほどと思ったことがある。読み書きの能力を持っていても、それを使うことができなければ意味が無い。

 算数であれ、国語であれ、体育であれ、コミュニケーション力の育成を意識した授業は可能であろう。だが、現状ではコミュニケーション力が評価の対象になりにくい。四観点だけでなく、社会性に関わる観点が有ってもバチは当たるまい。評価と指導の一体化というが、評価の対象に無い部分を評価することはできない。評価の方法や規準については触れないが、「必要な情報を他者から聞き出そうとする」「他者が必要としている情報を伝えることができる」等といった項目は、教科の学習にとっても望ましいものであろう。
 ただし、そうした授業を可能にする為には、教師自身が対話力を持ち、子どもの対話を紡ぎ出していく能力が必要になる。コミュニケーション力を育てるためには、評価対象化と教師の対話力が必要ではないだろうか。(2004/4/18)
学社協学 学家協学

 生涯学習時代が到来すると言われて久しい。社会に在る人々があまねく学び続ける社会の実現を目指す。そうした社会の学びを活かして、子ども達の学ぶ環境を創造して行くことはできないだろうか。 
 
 現在の教育問題に対処していくためには、学社連携や家庭との連携が必要だという。確かに、子どもを取り巻く環境は子どもに多大な影響を及ぼすだろう。しかし、“連携する” という言葉が指し示す具体的な活動がなければ、意味ある連携は生み出せない。学校が家庭に情報を提供したり、情報交換をしたり、あるいは問題を共有することも必要には違いない。だが、更に積極的な形で、子どもを取り巻く環境を変えていくことはできないものだろうか。大人の学ぶ姿が見えない生涯学習社会ではなく、その学ぶ姿勢が子どもに感じられる生涯学習時代にしたいものである。 

 家庭と学校や地域社会が、関わり合いながら学ぶ。共に学ぶことから、「学び合う協学の社会」を目指していくことが、子どもの学ぶ力をインスパイアすることに繋がる。子どもの学び離れを憂うことに止まらず、大人が学び合う空気、熱気を子ども達に伝えて行きたいものだ。学び合いのテーマは教育のみでなく、環境問題や郷土の文化など、なんでも良い。大人が変わらずに、子どもだけを変えることはできない。
学び取る 学び合う 学び抜く

 先日、管理職者を中心とした勉強会に参加した。集まったメンバーは、校長、教頭、指導主事、教務主任などである。学期末、年度末で多忙な時期に、集まり、知を交換し、新たな教育活動を生み出そうとする。これは、相当な「学ぶエネルギー」を持っていなければできないことだ。

 主知主義的学力と共に、「学ぶ態度」や「学ぶ意欲」が大切だというが、先生方の学ぶ態度は流石だと感じた。会に集まった先生方を見ているうちに、「学ぶ態度」を支える要素に気がついた。それは「学び取る」「学び合う」「学び抜く」という三つの要素である。
 
 「学び取る」とは、学びに対する意欲を示す。今、目の前に居る人や、目の前で起きている事柄から、何かを学び取ろうとする。「学び合う」とは、朋友と知を与え合い、引き出し合いながら学ぶことを示す。「学び抜く」とは、独りでも粘り強く学び続ける姿を示す。この会に集まった先生方の職場に伺った時に、それぞれの先生が、行政や学校で仕事に向かう姿が想起された。

 「学び取る」「学び合う」「学び抜く」という、学ぶ態度を支える三つの要素は、子ども達にも育てたい力だ。それは、知と人を繋ぎ、人と人を知で繋ぎ、知と知を人が繋いで行く力でもある。知を求め続ける姿勢は、子どもの生涯において大きな財産となるであろう。(2005/3/25)
 マスコミ学力の問題点

 ここのところ、共同通信の情報や、朝日新聞等に「ゆとり教育見直し賛成○○%」という世論調査が掲載されている。いずれも電話調査によるものだが、ここでも「ゆとり教育=総合的な学習」という構図が示され、「総合的な学習の時間の削減に賛成○○%」等という記事が続く。マスコミは学力低下(特にPISA調査のランキング下落)の責任をどうしても「総合」の責任にしてしまいたいらしい。
 
 2003年のPISA調査は、2003年時の15歳児を対象にしている。一方、「総合」の導入は2002年からである。一部、前倒しで研究は行われていたが、2003年の15歳児が、小学校から質の高い総合を経験して来たとは考えられない。総合を経験していない児童の調査において、学力低下の原因は「総合」だという主張には根拠が無い。そういう主張を展開する人の学力が疑われる。マスコミ人の学力とはその程度のものであり、数値化できるものにしか目が向かないのだろう。現実には学力が落ちていない子どももいれば、確かに低下している子どももいる。
 
 学力が低い子どもの背景にある問題を無視したまま、学力低下は子ども全体に普遍化されているという考え方もいかがなものか。「子ども達の学力は低下している」→「だから勉強の時間と学習内容を増やせ」という主張は非常に幼稚で分かりやすい。しかし、沢山教えて沢山学ぶ学習が成功するのであれば、 昭和44年度に行われた「教育の現代化」=学習指導要領の内容強化は大成功を収めた筈である。だが、アメリカでも日本でも「指導内容の高度化」は失敗に終わっている。それでも、「強要の学び」によって学歴社会を生き抜いてきたマスコミ人にとっては、学習内容の高度化しか「学ぶ力の向上」の処方箋が見いだせないのであろう。

 「学歴は高いし、覚えも早い。しかし、考え出す力が無い社員がほとんどだ」とは、先日ある経営者から聞いた愚痴だ。学んだことを思い出せる力も大切だが、考えを創り出す力も大切である。思考力とは「思い出す」と「考え出す」という二つの側面から成る。反復で学び、学んだことを「思い出せる力」も学力ではあろう。「総合」では「思い出すこと」に加え、「自ら考え出す力」に重点が置かれる。「総合学習反対」と声高に叫ぶ大人達は、ノスタルジックに自分の学ぶ姿を思い出しているだけなのかもしれない。しかし、「教科」と「総合」を二律背反でしか捉えられない「貧しい学力観」を超えていくことが大切ではないか。(2005/3/15)

『読まずに語るな「生活・総合」』
(北海道生活科・総合的な学習教育連盟)を読んで


 この本のタイトルは、読者にとって逆説的だ。「生活科や総合的な学習を論ずる前に、この本を読め」というのが、編者の意図であろう。しかし、この本を読んだ後には、「読まずに語るな学力・教育」というタイトルがふさわしい様に思えて来る。生活や総合の重要性だけを論じているのではなく、「学ぶ」ということが持つ意味が見えてくる内容だ。学ぶ者にとっての学びと、教える者にとっての学び。本書を読むと、立場によって異なって見えた学びの温度差が、一気に縮んでいく。「生活・総合」と知の結び付きが明確に見えて来れば、「生活・総合」と学力・教育の結びつきも明確に見えて来る。

 「生活・総合」は教科に比べてねらいや目標が見えにくいという。効果が無い、成果が薄いという批判の声もマスコミに相当取り上げられている。だが、効果や成果は、教科や総合、特活等といった、学習それぞれが持つねらいの個性によって異なるものだ。生活・総合を導入したから、学力が低下したという論は、学力をテストで測れる学力に一元化した考え方である。自分で見、聞き、触れながらその体験の考察を通して学ぶことと、算数のドリルを反復する学習ではねらいそのものの性質が異なる。この本に収録されている嶋野道弘氏や角屋重樹氏の論を読むと、生活・総合で育む学力の性質や子どもにとっての重要性を無視することができなくなる。
 
 日本の教育は、今、重要な岐路に立たされている。見えやすい数値的学力に収斂して行くのか、それとも子ども達にとって必要な力から捉えた教育を実践して行くのか。中央教育審議会の議論の結果を待つだけでなく、教師自身が「確かな教育観」を持ち、実践で具体化して行かねばならない。
 
 『読まずに語るな「生活・総合」』は生活・総合を通して、「学ぶ」ということの意味と価値を問い直す好著だ。生活・総合の研究と指導を通して、多くの事を学び得た喜びと充実を実感した教師達から“知のお裾分け”が頂ける本である。(2005/3/7)
ゆとり=総合学習の不可解

 「ゆとり教育」がマスコミや世論からヤリ玉に挙げられている。「ゆとり教育」=「総合的な学習の導入」=「学力低下」という、ステレオタイプ(紋切り型)の認識が普及し、「総合」を削って教科に戻せば学力が上がるという論調が、あちらこちらで展開されている。しかし、「ゆとり教育」を推進するために、「総合的な学習」が創設されたのだろうか。
 「総合的な学習」導入の理由が、ゆとり教育を推進するためだという話はあまり聞いたことがない。むしろ、教科横断的な学習や体験的学習、学習者の興味や関心に基づく学習、学校の個性を生かした教育課程の編成といった面に、「総合」の存在意義があったのではないか。これまで多くの学校で「総合的な学習」の研究が行われてきたが、「ゆとり教育を推進するために研究をした」という学校は聞いたことがない。

 平成14年度から実施されている指導要領が「ゆとりの中で・・・生きる力をはぐくむ」ということを標榜したために、マスコミから「ゆとり」という言葉だけが切り取られ、イメージ化されているのではないか。そもそも、ゆとりは手段であり、目的は「生きる力」をはぐくむことであるはずだ。沢山の内容を覚え、試験が終わったら剥がれ落ちてしまうような学習ではなく、子どもの中で駆動し続ける「実りある教育」の実践を目指す。それが、指導要領のねらいではなかったか。
 
 今後は、いわゆる主要教科重視の教育に向かっていくのであろう。だが、机上の学習内容を増やし、主知主義的な部分に偏重した学習だけでは行き詰まることが目に見えている。公教育とは何か、ということが今、議論されるべきであり、そこから公教育における教育の在り方を見つめ直す。それをせずに、主要教科の学習時間増加=学力向上だ、という前提で議論が進むことはおかしなものだ。議論を不毛に終わらせないためには、マスコミの報道を超えて、自分の頭で考えることが大切である。(2005/2/18)

《学力低下の真相と背景》
OECD教育局指標分析課長
  2005/1/26・講演の概要と考察
         〜OECDの見解は新聞報道と温度差〜



1.OECDの見解に高い関心
 平成17年1月26日、OECD教育局指標分析課長アンドレア・シュライヒャー氏の講演(文部科学省主催)が行われた。昨年末2003年のPISA調査結果が発表されて以来、日本の子どもの学力低下傾向が一層高まったとの新聞報道が世論に大きな影響を与えている。今回のシュライヒャー氏の講演においても、会場は満席となり学力問題に関する社会の関心の高さを示していた。主な参加者は文部科学省の関係者、公私立の教師、教育学者等である。

2.日本の子ども達の学力状況に対する見解
(a)数学的リテラシーについて
 日本の数学的リテラシー(2003年調査)については、日本の子ども達の学力は全体として成績が良いと言える。成績優秀者の生徒の割合が高く、ベルギーに次いで世界第2位である。前回の2000年に行われた結果と比較しても「空間と形」「変化と関係」について、日本の子どもの学力は変わっていない。世界に誇って良い結果である
 ただし、2003年調査では「量」「不確実性」という新しい調査領域が設けられた。この分野においては、「空間と形」「変化と関係」より成績がやや劣っていた。学力が低下しているというよりも、新しい分野の問題に対応できていないのではないか。また、2回の調査だけでは、学力の傾向について正しい結論を得ることができない。

(b)科学的リテラシーについて
 日本の成績は全体として極めて高い。前回調査と比較しても変化していない。しかし、生徒間の学力較差は広がる傾向にある。

(c)読解力について
 2000年と比較して大幅に成績が低下している。その原因は、成績上位層の成績が下がったためではなく、成績下位層の生徒が増加したことによるものである。 熟考を要する問題には強いが、基本的能力が低下しており、「読み」を重視していない影響ではないかと推測される。

《考察》: 以上がシュライヒャー氏の分析である。数学の力が大幅に後退したというマスコミ報道があったが、実態は異なっている様である。低下という視点で見れば、国語の基本的能力の低下が問題視されている。また、公教育の立場から見れば、科学的リテラシーにおける学力較差をどの様に縮めて行くかが課題であろう。

3.日本と世界各国の教育の現状について
国レベルでも教育の較差は広がりつつある。これは成績上位の国が一層学力を伸ばしたことによる。全体的に成績が向上した国はポーランド、成績上位者が更に増えた国はフィンランドである。日本の学校の特徴は@公立学校の生徒の学力が私立と比較して高いA学校間の格差が大きいB学力の男女差も大きい。カナダ、デンマーク、フィンランド、スウェーデンでは学校間の較差が少ない。日本における数学リテラシーの成績の生徒間格差は、学校間の格差による所が大きい。
4.成績上位国の特徴
 生徒一人あたりの教育費用と学力の間には相関がある。しかし、教育費の高さが好成績を保障するものでは無い。多額の出資をしながら成績を上げていない国もある。
 成績上位国の教師の特徴は「教師の志気が高い」「教えることを楽しんでいる」ということである。
 フィンランドでは教師の給与が安いが、人気の高い職種であり、学校や教師の結果に対する責任が明確化されている。単純な成績だけでなく、学習態度や学習意欲についても説明責任が課されている。多様な生徒に対応して成績を上げ、一人一人の関心や個性に応じた指導が行われている。 教え方を標準化しても成績を上げることはできない。
 韓国とフィンランドは共に極めて高い成績を上げている。しかし、韓国が長時間の学習を強いていることに対し、フィンランドの学習時間は平均的なものである。従って、勉強時間と学力には相関が低いということが言える。フィンランドは「動機付け」を重視した学習を行っていることが特徴である。

5.成績上位国の指導
 能力の異なる生徒に対して、教師が明確な戦略を持っている。また、生徒には多様な課外学習の機会が設けられている。教育コースの分化は比較的後の段階に用意されており、早期から進路の選択を行う傾向は少ない。また、教師や学校は、自分たちの強みや弱みを分析的に把握している。

6.日本の子ども達の学習課題とこれからの学力
 日本の子ども達の算数に対する学習意欲は、成績の高さと裏腹にOECD各国の中で最も低い。 また、算数に対する不安感が非常に高い。「授業について行けなくなるのではないか」「算数の問題をやっているといらいらする」という割合が高い。学力としては、「お互いから学び会う力」「教師から離れても学習戦略を立てられる力」 も重要である。
 今後は「良い人間関係を築く力」「協力する能力(チームワークで知的活動ができる力)」「他者との対立を解決、管理する能力=交渉を行い合意を築く力」が重要になる。今後はこの分野についても調査対象に加えていく。知識が実効的であるためには、他者との関わりで知を使う能力が重要だからである。また、学習評価については「測りやすい部分」に捉われることは危険である。そのタイプの能力は、社会が変化すると使われなく恐れがある。更に、客観的な学習評価だけではなく、学習者のモチベーションを高める評価が必要である。

《考察》: 成績上位国では「教師の指導責任の明確化」「教師が目標の実現に向けて高い意欲と技能を有していること」など、教える側に対する要求が高い。また、学ぶ態度や、学ぶ意欲の向上も教育の目標とされている。日本の算数嫌い傾向の異様な強さを考慮すると、学ぶ態度の育成は重要な意味を持つであろう。更に、学習を社会的な活動として捉え直し、「人間関係の中で実際に知を使える能力」を学力として捉えて行く必要もある。
 マスコミ報道では、わかりやすい部分だけが紹介されたり、低下データの背後にある原因の分析がなされない傾向が強い。学力問題を考えるには、データと教育双方の本質に迫って行く必要があるだろう。また、OECDの調査結果を絶対的なものとすることも危険であり、目の前にいる子ども達が最大のデータ源であることも忘れてはならないと感じた。

ゆとり教育の凋落と反省

PISAやIEAの学力調査の結果を受け、日本の学力低下が一斉に報じられている。いよいよ、内容重視、時間重視、勉強量重視の教育に変わっていくのだろうか。どうやらこの流れは止まりそうにない。指導要領改訂の目玉であった「総合」が削減され、よみ、かき、かずの学習に傾斜していくことは目に見えている。古典的な学習と学力を信仰する人達(政治家・特定教科の指導者)は、ゆとり教育に学力低下の汚名を着せて葬り去ってしまいたいのだろう。

マスコミも沢山練習をさせ、沢山教えれば学力が上がるという、わかりやすく危険な意見だけを集中的にたれ流していく。今後は、ゆとりから内容重視の学習へ変化をしていくであろうが、その先もなんとなく読める気がする。子どもの学力較差が広がり、点数も思った様に伸びない。そうなると、内容は良いのだが教え方が悪いのだということになる。次にヤリ玉に上がるのは、教員の指導力である。更に、この指導力もわかりやすく危険な方法で評価される恐れがあるだろう。こうして、目先の問題だけに追われて教育界はいつも悪者扱いをされ続けることになる。

 しかし、ゆとり教育で本当にゆとりが生まれたのか、経験カリキュラムには有効性が無く害が大きいのか、学力低下は学校で教える量が減ったことを原因としているのか、といった問題にはほとんど触れられていない。どうも日本の教育は失敗を吟味することなく、その時の世論や風潮で動いていく気がしてならない。せっかく取り組んだことに対し、反証もせず、簡単にわかりやすい方向に進んでいくことは、これまでの教師の努力や成果を無視するものであろう。
 子どもの学力低下は確かに問題であろう。しかし、本当の問題はあらゆる部分における意欲の低下ではないだろうか。これは勉強だけの話ではない。教師の意欲はどうか、保護者の意欲はどうなっているのか。満たされ過ぎた生活で欲も低下し、意欲=意図ある欲求も低下しているのではないか。ニート(就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人)の増加もそうだ。マスコミではゆとり教育や「総合」導入の結果ニートが増えたという論を訴えている評論家がいた。この脳天気ぶりの方がよほど恐ろしい。
 
日本の教育界がゆとり教育の凋落から学んだことは何だったのか。そこに教育問題の根っこが潜んでいる気がする。(2004/12/15)
 
知識が先か興味が先か

「教育では、何よりも知識を教えることが重要だ。興味や関心などと言うが、まず先に何かの知識があるから、興味や疑問を持てるのだ。何も知識がなければ、考えることも、判断することもできない。関心や興味は、これまで持っていた知識と比較をすることで、初めて“おや!?”という知的気づきが生まれる。言葉と数(量)を思考する材料として、読み、書き、そろばんが重要なのはここに理由がある。ドリルも教え込みもせず、興味・関心を持てる資質など育たない」
これは、先日筆者宛に頂いた手紙の概要である。非常に論旨が明確でわかりやすい論である。だが、これは真実であろうか。

@知識重視VS興味・関心かという単純な対立構造で論じている
A知識が無ければ、興味も湧かず、判断もできないというのは本当なのか
B教え込めばわかるはずだという、全面的な子ども受動型学習しか学習と考えていない

という三つの点から考えると、上記の理論はいささか偏狭な見方に基づく論だと言えるだろう。
まず、興味か知識かという問題だが、教育においてはどちらも意味があり、どちらか一方に価値があるという議論は時代遅れである。興味があるから取り組むという場合もあれば、学ぶうちに興味が湧くということもある。だが、興味を喚起できない教え込みでは学習効果を上げることは難しい。どちらか、ではなく、興味を高めながら教えることが教師の役割であろう。この問題は、鶏が先か卵が先かという議論に似ている。この二元論では永久に教育の課題は解決しない。
 二つ目に、「知識が無ければ興味も湧かない」というのは間違いである。小さな幼児が、モノを指さして「あっ! あっ!」と声を出す。あるいは、水たまりに映った自分の顔を見て、立ち尽くすという光景を見ることがある。これは、興味や関心とは言わないのだろうか。こういう行動は、知識が先行したからこそ興味が湧いたとは考えにくい。そういう関心は学習と関係ないという論もある。しかし、実社会や身の回りの現実から物事を考察する知的感性は子どもの頃から育てておく必要があるだろう。
 また、知識量が多ければ多いほど関心を持つ能力も高いと言えるのだろうか。「あれも知っている、これも知っている」と言いながら、あまり学ぼうとしない人は身近にいないだろうか。知識の量と関心・意欲は必ずしも相関しないのが現実である。
 また、ここ数年認知心理学の進歩によって(馴化不馴化テストなど新しい手法の開発)、生後数ヶ月の赤ちゃんが量の増減、数の加減を認識、判断できることもわかってきた。どうやら、人間は知識を教わる前から、微少ながら自分で考える力をもって生まれてきているらしい。教え込まれた知識が無ければ興味・関心を持てないという主張は非常に偏った思想だと言えよう。
 三つ目の、「教え込めばわかる」という教えの復権については、論外である。そこにしか学習が存在しないのならば、教える人がいなければ人間は学習できないということになる。この主張もかなり偏りのある主張と言えるだろう。
教育を論ずることは大切だが、バランスを欠いた“学力ファシズム”は教育の進歩にとって足枷となるに違いない。(2004/11/25)

「総合」の外注に思う

 杉並区で小中一貫校開設に向け、「総合的な学習の時間」の学習プログラムを企業に『外注』したことが話題になっている。「総合的な学習」については、導入当初から「これで学力が育つのか疑問だ」「面倒くさくて成果が無い」など、内部から批判的な声が出ていた。

 今回の“事件”も、この声の延長にある様な気がしてならない。現在の学校教育では、教師に創意工夫が求められているが、創意工夫の結果が「外注」という結論を導いたのであれば、情ないことだと言わざるを得ない。 読売新聞の報道によれば「コミュニケーション能力を向上させるジェスチャー・ゲームなどを行ったりする。体験型が中心だった総合的学習の様々な場面で、必要となる「技術」を高めるのが目的」と言うが、総合がスキルトレーニングを目的とした学習になってしまうのは、総合の主旨を換骨奪胎してしまうことになる。

 かつて、地域の川の汚染を「総合」で追究した子どもが、「臭い川にはコンクリートで蓋をしてしまう方がよい」という結論を出したという話を聞いたことがある。なぜ、川の環境を守るのではなく、蓋をしてしまうという結論を出したのか。それは、子どもが美しい川で遊んだり、学んだりした体験が少なかったからであろう。川の本来的な姿を知らぬ子どもにとって、臭い、汚い川は不要なのだ。
 
 今回の、「総合丸投げ」も、似た様な問題構造を持っているのではないか。教師(教育委員会?)が「総合」や「学ぶということの意味」を浅薄に考えてしまったことが、「総合丸投げ」に繋がったのであろう。総合が教育活動として持っている「教師が工夫する価値」を放棄してしまった様に見える。「汚い川には蓋をする」=「企業に丸投げをした方が良い総合ができる」。こういう短絡的発想は教育に禁物だ。(04/11/18)

知を更新する“学力”

 パソコンのOS(Windows)には、Update(アップ・デート)という機能がある。これは、ウィルスの増加や他のソフトの進化に併せて、パソコンを守るために、新しい情報を書き込む(受信する)システムだ。情報社会は進化と変化が激しいと言われている。この進化と変化を象徴する仕組みがアップ・デートだと言えよう。

 子どもが学校で学んだ知識も、同じことが言える。最近知ったことが、もう、今日は古くなっているということもある。ビルマはミャンマーに変り、エベレストの高さは8848mから、8850mへ変更された。科学や社会の情勢は、筆者が学生時代に学んだ情報を過去のものにしてしまった。かつての「確かな学力」が現在では「不確かな学力」になってしまった。

 知の進化、変化はこれから先も進んでいくであろう。しかも、ITを始めとして生活に関わる必要な知識の幅も増えている。社会に出るまでの準備段階が、学校での学習だと言われるが、知の量を準備するだけでは対応が難しくなっている。学び続ける態度=知をアップ・デートできる資質・能力を子どもの頃から培っておかねば、大人になってから急に「知的好奇心や追究力」を持てと言われても、難しいのではないか。
 
 学力低下も問題であろうが、子ども達の「学ぶ態度」はどう考えられているのだろうか。学ぶ態度=知をアップ・デートする資質・能力の育成が今こそ必要ではないか。「確かな学力」も必要には違いない。しかし、「確かな学習力=学び続ける態度」の育成も重要では無いだろうか。(2004/11/8)

学習評価を可能にするシステム

ノルム準拠評価(集団準拠評価)から、スタンダード準拠評価への移行はどんな意味を持っているのだろうか。一つは、集団にとらわれず、学習者の純粋な学習到達度をつかみ、指導に生かすこと。二つには、評価する側にある者が、評価規準(基準)を最適化するシステムを運用し続けることではないだろうか。だが、学習者の純粋な学習到達度とは本当に掴むことができる性質のものなのだろうか。
 
テスト時点での、ペーパー上の点数を「到達度」と呼ぶのであれば、それは可能であるといえよう。しかし、実際はペーパーテストを行う前と行った後では、学力が変化しているという説もある。純粋に“到達点で静止した学力”があるか否かは疑問だ。また、意欲や関心の様に到達度で表しにくい「資質・能力」を到達度で評価するということも、実際には難しいことである。では、「資質・能力・情緒面」が評価しにくいから、行わないとするとどんな弊害が出るのだろうか。全人教育とはかけ離れた、頭でっかち度だけを競う様な貧しい教育を生み出してしまうことになろう。
 
教育評価には、客観性が検証しにくい部分を客観的に評価するといった、矛盾する命題を正当化するジレンマがつきまとう。それは、船に乗って波の高さを測ろうとする行為に似ている。学習者の能力は多様な場面で多様に変化し、測定者の感性や感情の起伏によっても学習者の能力は異なって見える。評価につきまとうこうした矛盾を軽減する方法はあるだろうか。この場合、「客観とは何か」という根本的な問題から考えてみるとヒントを得られる。但し、人間の能力は物の高さや、水の温度、の様に固定的・物理的客観性を持ったものではない。
 
例えば、絵や小説といった「質」を伴う文化的創作物の客観的評価を考えてみよう。ある人はAという作品を「素晴らしい」と評価し、また別の人は「普通である」と評価をする。こうした、評価の温度差を縮めるには、評価者同士の情報交換が不可欠である。「この作品のどこを評価したのか」という情報交換を進めていけば、評価の温度差は縮まって行くであろう。更に、二人より四人、四人より六人というように、評価をする人数を増やしていっても、客観的な方向が出る。百人に評価をしてもらい、そのうち九十人が「この作品は優れている」と評価すれば、「優れている」という評価の客観度は増すことになる。

学習評価においても、教師個々の温度差を縮めていくには、見方の異なる複数の教師で評価事例を検証し、情報交換を進めて行く必要があるだろう。 評価規準やルーブリックを創ることも大切だが、それらを客観化し、見取りの温度差を縮めながら規準の見直しも図っていく。そういう、協同システムを機能させることをせずに、評価の客観化を目指すことは困難であろう。(04/10/16)
「確かな学力」は怖い言葉である。この夏もいくつかの学校で研修に招かれたが、「確かな学力の育成を目指して、読み・書き・そろばんといった基礎基本を徹底して教えている」という学校がいくつかあった。指導計画を見せて頂くと、指導内容は殆ど知識・理解に関わる内容ばかりが示されている。そこで、下の様な「確かな学力の三角形」という説明資料を作ってみた。(コピー/複写厳禁)
最初は「生きる力の知の側面」だけを製作してみたが、文部科学省国立教育政策研究所の池田信明先生から「生きる力は知・豊かな心・健康/体力の三面から成っている。三角錐で考えるべきである」との指導を頂き、池田先生の案を図案化したのが下図である。(コピー/複写厳禁)
どうも基礎基本というと、読み書きそろばんだけに目がとらわれやすい。何のための四観点なのか。知識・技能に加えた他の資質・能力も基礎的側面があり、指導の対象とならなければ指導要領の示す教育観とは異なる指導になってしまう。一般的な学力観は下図の様なものが多い。
この図の学力観を「単線型」と池田先生は評する。いつまでたっても新しい学力観が根付かないのは、こういった安易な解釈が変わって行かないからである。
知識・技能(理解)に止まり、反復と少人数で「生きる力」に繋がる「確かな学力」が育てられるのだろうか。
最近広まってきたルーブリックを作成してみると、指導の偏りも見えて来やすくなるだろう。
評価と指導の一体化を主張する事は簡単だ。だが、教育観/指導観/学力観を問い直すことから始めなければ、教育の質は変化して行かないのではないか。
 1.荒れる子どもと「協働的学び」
文部科学省から「生徒指導上の諸問題について(概要)」が発表された。結果はご存知のとおり、「暴力行為」「いじめ」共に微増傾向を示している。この数値が子ども達の実態そのものとは言えないかもしれないが、毎日子どもと接している教育者は直感的に危機感を感じているのではないだろうか。

 こうした“荒れる子ども達”を生む原因については、専門家が様々な意見をメディアで述べている。「暴力的な内容を持つファミコン・ゲームが原因だ」「詰め込みによるストレスが原因である」「子どもの逸脱に対して寛容になり過ぎた結果だ」等の意見が多いようだ。“子どもが荒れる原因”は、それらの原因が多様に絡み合って生じて来るには違いない。筆者は「食文化の変化=栄養面/家族のコミュニケーション希薄化の問題」、「親の子どもへの無関心化=親の自己中心化」「協働体験の希薄化による子どもの過敏自己評価の増長」等が、荒れる子どもを生む環境にその原因を提供している様に思えてならない。

 家庭における食生活の変化は、栄養の偏りや不足と、家族間コミュニケーションの希薄化を助長している。栄養の偏りと不足が子どもの情緒や脳に悪影響を与えていることは、多くの研究機関が関連性を指摘している。これと同時に、子どもが食事を作る親の姿を見ない、食事作りに参加しない、家族そろっての食事の場が生むコミュニケーションの機会が少ないということも、子どもの情緒発達に影を落としている気がしてならない。子どもへの無関心化は、親の自己生活・趣味の重視傾向が強くなっていることに起因しているのではないか。離婚率の増加も親の自己生活重視傾向と関連があるだろう。今や「子は鎹(かすがい)」とはならない時代になった。一方で、極度の過干渉/過保護に走る親もおり、子どもに対する親の姿勢が二極化しているという教師の声も聞く。親から大切にされなかった子どもは、正常な自己愛も育ちにくく、当然他者への思いやりも育ちにくくなる。過保護の子どもは、小さな問題でも自分の力で乗り越えることができなくなり、挫折の不満を他者にぶつける様になる。子どもへの無関心、過干渉はいずれも“荒れる子ども”の増加に繋がって行く。これらの原因は、家庭の責任が問われるべきものであり、学校の責任とは言いにくい面がある。では、学校でできる対応策とは何か。

 「暴力行為」も「いじめ」も、一人だけの環境では起き様が無い。暴力もいじめも人が集まる所でのみ起きる現象だ。家庭や社会の影響が、子どもの心の中に“荒れる心”の温床を形成し、学校という他者と関わる場面が引き金となって問題行動が起きる。都市化した社会では兄弟の数が少なくなり、親との感情的/身体的接触も減少してしまう。子どもにとって他者と関わる場所は、学校しかなくなっていると言っても過言ではないだろう。その学校でも、個別学習/少人数指導が増え、行事の精選等で協同的な学習は減少する一方だ。
 
 では、「協同の欠如」がなぜ、子どもの心の荒れを生むのだろうか。それは、情緒的にも感情的にも、または思考力の面でも、他者との協同的相互応答体験が他者の心を感じる心を育てるからである。他者の心を感じることができなければ、自然と“自分の心が感じていること”を重点的に感じ、考える様になる。「なぜ、自分だけがこんなに面倒くさいことをしなくてはいけないのか」「自分はもっと認められてもいいはずだ」「なぜ、自分だけが何をやっても上手くいかないのか」。この様な、「自分だけが・・・」という狭窄した世界観は、ストレスの自己生産に繋がる。自己の感情を過大評価して、自分の苦しみにしか目が行かなくなる。こうしてダムのように蓄積された不満は、人が集まる場所で他人へと出口を探し出して行くのではないか。 
 
 もっとも、子どもの頭の中でこれほど論理的な思考が働いている訳ではない。感じ方として漠然とした不満が鬱積して行くのだろう。また、こうした同じ様な感情傾向を持った子ども達は本能的に同類の友を見つけ、加害者集団を形成していく。こういう状況は、単純な児童理解や懲罰、規制の適用だけでは解決していかないだろう。学びの場、遊びの場を通し他者との相互応答関係によって、「自分だけ」という心の独房から抜け出す足場を作って行くべきであろう。過激な内容のファミコンも、実体験として協働の価値を感じていれば、危険性は低くなるだろう。また、少人数/習熟度学習でも、協同的体験による協働的風土が根付いていれば、差別感も低減するに違いない。協同による学びは、人間として他者と共に生きることができる資質の育成上不可欠だ。他者との協同体験を通して、自己理解/形成や他者理解を可能とする資質が育つ。協同を大切にしない学びの場が増えれば、子どもの問題傾向は一層強くなるであろう。知識を獲得することは大切だが、そこに止まると恐ろしい結果を招く気がしてならない。(04/8/30)
2.夜長でなくとも読書はしたい

 子どもの読書量が減っているという。では、教師や大人の読書量はどうなっているのであろうか。読書は量だけでなく質も問われる所だが、1ヶ月に2〜3冊というのも寂しい気がする。時代の変化が早くなって、かつてより早く情報が劣化する様になった。旧知の真実は今日の嘘となっている可能性もある。教育に関わる者は知に敏感でありたいと思う。

 しかし、知識が古くなるとか、変化に対応をするために活字を読むというのは、読書の非常に狭い部分を捉えた考え方ではないだろうか。読書は思考の材料や刺激となる情報を数多く与えてくれる。その知的刺激自体が面白いのであり、次の情報を探す意欲を生み出している。忙しくて本が読めないという声も聞くが、これは詭弁である。私の身の回りには、学校や研究団体の仕事を引き受けながら、月に相当数の本を読む先生方がいる。また、企業に勤め、家庭を持つ女性でも仕事関係の専門誌や文学作品を相当量読んでいる方がいる。なんの為にそれほど本を読むのかと尋ねると、「読まずにはいられないから」という答えが返ってくる。どうやら、「読まずにはいられない」という“読欲”が高いか、低いかが人間の読書量を決めているらしい。余暇の多寡で読書量が決まる訳ではない。

 人間の欲望は脳で作られるが、脳が快感を感じる神経系には、“満腹になるタイプ”の神経と、“底なしタイプ”の神経がある気がする。食欲や生理的欲求は、満足すればそこで欲求にブレーキがかかる。お腹が空いても、満腹になればそれ以上の食欲は湧いてこない。心理学で言う一次的欲求生得的/生理的欲求だ。ところが、知的快感は“底なし系”の神経と関わっているのではないか。知っても知っても、知るという事への欲求は低下することが無い。むしろ、知れば知るほど一層知りたい意欲が増して行く様だ。これは、二次的欲求/自己成長への欲求と言えよう。読欲は自己創造/拡張の欲求を満たす手頃な手段である。
 
仕事をより良く遂行するために読書が必要なことは当然だが、読まずにはいられない読欲を教師が持ち、それを子どもにも育てて行きたいものである。(04/09/3)
3.大人と子どもの温度差

 「NHKスペシャル/子どもが見えない」が、9月4、5の二日間に亘って放送された。「子どもの幼稚化」「親しい友達の減少」「生命観の希薄化」等、様々な問題が子ども達から突きつけられた番組であった。番組を通して感じたことは、大人の意見と子どもの感じ方のギャップである。子ども達は“大人達の責任だ”と主張し、“大人は子どもが見えなくなっている”と戸惑う。子ども達の主張には「大人の責任である」「大人はもっと自分た達の言うことを聞いてほしい」という内容が多かった。この主張は、子ども達にとって切実な叫びなのであろう。だが、この言葉をあまりにも重要視することには、問題があるのではないか。
 
 多くの子ども達の要求には、次の様な三段論法が潜んでいる。それは、「悪いのは大人が作った社会と環境である」「従って、自分達は大人の力に屈する被害者である」「つまり、我々の要求を飲まなければ、状況は悪化する」というものだ。大人の責任が無いとは絶対に言えない。さりとて、子どもにも全く責任が無いと言い切って良いものだろうか。 自分は被害者であり、大人は加害者であるという子どもの発想は、子どもと大人の距離を一層遠いものにする。自分自身の責任は放っておいて、他者の責任を追及し、自分の都合が良い方向に他者が変容することを望む。不快な事や、辛いことは全て他者の責任と信じ込み、自分を被害者だと信じ込む。そして、問題行動やインターネットによる発言など、あらゆる手段を使って自らを被害者にしていくのである。自分を被害者にしてしまった子どもは、加害者である大人(友達)から一層離れて行くことになる。やがて、子どもは心を閉ざし、大人の視界から消えて行く。また、屈折した被害者意識が蓄積していけば、ストレスの自己生産を起こし、感情的な破綻=キレるという現象を生むことにもなる。子どもと大人の距離を縮めるためには、どちらか一方だけが努力をしても意味がない。大人に言いたいことが言えないことや、大人に理解してもらえない理由を子ども自身が考えることも必要ではないか。子どもの言うことに耳を傾ける必要はあるだろうが、要求に応えることが良いことだとは言えない。感じさせたり、考えさせたりすることを通して、自分の人生に責任を持つ心を育てることが重要ではないか。
 
 一方で、大人の責任も相当に重いことは間違いが無い。特に、大人が子どもと接する時の心の姿勢は、子どもとの心的距離関係に決定的な力を及ぼす。子どもは大人の言葉を聞いている訳ではない、心の姿勢を聞いているのである。どんなに笑顔で、「何でも話してみなさい」と子どもに語りかけてみても、「どうせ大人は都合がいいようにしか聞かないんだ」と子どもが感じていれば、子どもは心を開くことが無い。子どもは大人の言葉を聞いているのではなく、日頃の行動を見ているのである。最近の心理学の研究では、非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の影響力が注目を集めている。人間のコミュニケーションのうち65%は、非言語的コミュニケーションが占めているという研究結果も出ている。言葉で、「怒らないから言ってみなさい」と子どもに諭しても、「この大人は結局私を問いつめることが目的なのだ」というように、大人の日常の動作から子どもは言葉を判断する。子どもは大人の日常を非常に良く見ている。後ろ姿を見せる教育というより、いつ見られても良い後ろ姿を持つことが、大人に要求されているのではないか。子どもとの距離を詰め、子どもを理解して行くためには、子どもから信頼されるスタンスを持つことが必要であろう。
 
 子どもの側にも大人の側にも、様々な問題やそれを生む背景があるであろう。しかし、「子ども自身に自分の人生の責任を考えさせること」と「大人が子どもの信頼に耐える姿勢を持つこと」が、問題解決の要になるとは言えないだろうか。(04/09/06)
利他行動と繁栄の資質
 
 自然界は本能的競争が支配する世界だ。動物は自己の生存を賭けて、自己の利益と優位性を獲得する行動を取る。ところが、動物には“利他行動”という他者の役に立つ行動がしばしば見られる。他者の繁殖の手助けをする「ヘルパー」という行動を動物がすることは古くから知られていた。なぜ、動物が自分以外の個体にとって利益になる行動をするのか。単なる競争原理や、自己保存の法則では説明をすることができない。また、遺伝子レベルで考えてみても、他者の遺伝子を残す手助けをすることは考えにくい。
 
 ところが、視点を変えてみると、利他行動が割と簡単に説明できる。遺伝子が自己のみの保存ではなく、種の保存によって同種の遺伝子を残して行く戦略をとったとしたらどうなるだろうか。自分より良い遺伝子を残すために、同種の他者に奉仕することが考えられるだろう。利他行動は、自己と他者を含む同種族の生存・繁栄戦略だったのである。 このことは、自分だけが強くても種として生き残って行くことが難しいことを示している。利己的行動だけでは、種を維持することができないのである。

 人間社会では“自己中心的行動”が広がっていると言われる。他者を意識せず、自分の損得、快不快で身の振り方を決めていく。勉強でも、仕事でも自分の都合と立場だけにとらわれ、利己主義を当然とする風潮も目立つ。「生きる力」の育成は大切だが、他者を想定しない「独りだけの生きる力」というものは存在するのだろうか。 人間の文化や技術も、他者、他社、他国の人間との情報交換、相関によって進歩を遂げる。互いに役立ち合うことが、文化のあらゆる側面を発展させ、自己にも他者にも繁栄と進化をもたらすのではないか。

 向相関的能力=互いに関わり合いながら与え合い、引き出し合う能力は、これからの教育でも一層重要になるべきであろう。利己に走り関わりを拒否する人間が増えれば、個も社会も同時に衰退していくことになるだろう。(04/09/08)
参考文献/R・アクセルロッド{協同の進化}リチャード・ドーキンス{利己的な遺伝子}
理想を創る

 知・徳・体は日本教育界の伝統的な三要素である。“三育小学校”と言う校名は全国で散見できるが、これも知・徳・体の三つを子どもに育てたいという願いに由来しているのであろう。知・徳・体は和製の思想と思いきや、イギリスの教育学者スペンサーが著書「教育論」の中で、教育を三つの分野に分けたことに端を発する考え方である。勿論「かしこく やさしく たくましく」と言う様な学校教育目標も、これを縁起とするものであろう。

 先日、他の企業から依頼された仕事で中国へ行く機会に恵まれた。早速市内の小学校を探し校庭に入ると、校舎には巨大な金看板が貼り付けてあった。その看板は「有理想 有道徳 有文化 有規律」という文字から成っていた。有道徳=心の教育・倫理の教育、有文化=知識・理解・技能を中心とする教育、有規律=社会規範を守れる人間の育成ということであろうか。興味深いのは「有理想」という言葉である。
 
 理想を育てる教育とは一体どの様な教育のことを示しているのであろうか。「有理想」を日本に言い換えれば「夢を持つ」「志を持つ」という言葉になるのかもしれない。しかし、「理想を持つ」という言葉もなかなか魅力的な言葉ではないか。
 
 知識は確かに力である。それは、技術となり、あるいは言葉となって、コトやモノを創りだしていく。だが、大切なことは何に向かってその力を使っていくかという、目的の内容であろう。刃物にはモノを切る力がある。その力を使って、人を傷つけるのか、芸術作品を創るのか、それとも、料理を作るのか。知の力を使う方向を決めていくには、理想という目標を必要とするであろう。知・徳・体を育てる教育も大切であろうが、「理想を持てる力」は子どもにも教師にも必要な力ではないだろうか。
理想はインセンティブ(意欲を刺激する力)として働き、人間に進歩と充実をもたらす筈である。

「有理想 有道徳 有文化 有規律」の文字が校舎に

新鮮味を失わない生活科を
 
 生活科は常に新鮮な驚きとロマンに満ちた学びの時である。それは、子ども達にとっても教師にとっても知的感動をもたらすものであろう。子どもは自然や社会、あるいは自分の中に新たな発見をし、その発見を見つけた教師の心にも感動をもたらす。私は生活科の多くの授業の中で、その様な“感動のお裾分け”を頂いてきた。

 「学校にある木を調べていたら、えんぴつも木でできているとわかった。お菓子入れも、トイレのドアも木でした。家にこんなに木があるなんて知りませんでした」。この子どもの発言を聞いた先生は「家のなかにもそんなに沢山の木があるんだね。先生も木でできているものが身の回りに沢山あると知っていたけど、気が付いたことはなかったよ。こうして、教室の中を見てみても、木でできた物が沢山ありそうだね」と、子ども達に語りかける。「知っていたけど、気が付いたことはなかった」という言葉は、子どもの気づきに感動し、子どもの発見から先生自身も気づかされたことを意味する言葉であった。生活科には学習としてのねらいがあり、学びの理念がある。

 しかし、教師自身が新鮮な驚きとロマンを持って取り組まない限り、生活科の学びの場を充実させることは難しいのではないか。生活科導入から10年あまりが経った。生活科は新鮮味がなくなったという声も聞くことがある。それは、生活科に新鮮味がなくなったのではなく、それを行う者が新鮮味に気づけなくなったからではないのだろうか。理念と感動の両輪が生活科を支え、新たな実践と学びの場を形作って行くのであろう。

プロ野球問題と情報戦略


 連日、プロ野球の再編問題がマスコミをにぎわしている。ライブドアの堀江社長と楽天の三木谷社長との対決は、特に注目を集めている。プロ野球業界の保守的/同族主義的な運営も問題だが、堀江、三木谷両氏の対決も茶番に見えてならない。
 
 双方とも、同じ地域での球団設立を目ざし、選手の選抜方法も同じ、そして、監督も同じ人物を指名している
なぜ、ここまで相手と同じ条件をぶつけあっているのだろうか。条件に差が少なければ少ないほど、優劣がつかず、事態の決着は先延ばしになっていく。もしかすると、先延ばしにすること自体が、両者のねらいなのではないか。先延ばしになれば、マスコミに出る回数も期間も増える。自ら取材の依頼をしなくとも、マスコミ側が進んで取材に足を運ぶ。テレビ、ラジオ、新聞などの広告費用として考えれば、ノーコストで大宣伝をした結果となる。

 「(解決の)アイディアはありません」(堀江氏)。ネット戦略でしのぎを削り、業界屈指のアイディアマンが揃って、同じ条件を提示すること自体が、彼らの「アイディア」なのではないか。彼らは情報戦略の達人なのだ。マスコミの情報に乗ることも大切だが、マスコミの情報を自分の思考で判断する資質・能力も大切であろう。(04・09・27)