書評:小島宏の気になる1冊その552
梶浦真著「小中学校編Ⅰ アクティブ・ラーニングの時代の「振り返り指導」入門―「主体的な深い学び」を実現する指導戦略―」(教育報道出版社 本体:815円)
主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)に関心が高まっている割には,具体的にどうすればいいのか,肝心の子供のところに近づかない議論に終始している感が否めない。
著者は,「主体的」で,「対話的」で,「深い学び」で,重要なことは,子供の「深い学び」を実現するために,授業の終末段階における「自らの学習活動を振り返って次につなげる,主体的な学びの過程が実現できているかどうか」が,一層重視されているかどうかすなわち「振り返り学習」が重要だと看破している。
一般的に行われている「学習のまとめ」と「学習を振り返っての感想」を大きく超えて,子供たちが「学習して理解し,身に付けた知識・技能,これらを活用して新たな課題発見・解決につなげ,新たなことを学び取っていける」ようにしていくことが求められている。著者の「振り返り学習」の価値づけ,具体的方法などに学び,目の前の子ども達を「アクティブ・ラーナー」にしていきたいものである。
研修サークル,校内研修などのテキストとして活用し,アクティブ・ラーニングの中核をなす「深い学び」を実現することについて,学び取っていただきたい。
内容は,「1.高まりを見せる振り返り学習への注目」,「3.アクティブ・ラーニングの視点が導入され,変化する振り返り学習のねらい」,「8,目指す資質・能力としての振り返り能力」,「16.振り返り学習の深さと階層」,「20.主体的・協働的な振り返り学習」,「30.振り返り学習をデザインする」,「36.学力の個人差を縮め・生かす振り返り学習」などで構成されており,役立つ情報が「図表で見える化」されていて,「読んで納得」でき,授業づくりの「ヒント」満載の一冊である。個人的には,「8.振り返り学習の持つ意味と価値―浅い振り返りと深い振り返りをつなぐ―」で,レベル1<知識陳述・伝達・再生>,レベル2<知識構築・再構成>,レベル3<知識創造>が,新鮮かつ強烈で,「目から鱗」の心境を久しぶりに味わった。
|
★書評 堀 裕嗣 著 スクール・カーストの正体
「ゼロ権力の場」は公平安全な理想郷だという幻想がある。他者に脅かされる恐れが無い社会は一見望ましい世界に見える。だが、「ゼロ権力の場」はリアリティーを欠いたユートピアに過ぎないのではないか。人が集う所には必ず権力の争奪―が生まれる。そもそもヒトの脳は<群れの力学を利用する方向>で機能を進化させてきたのだ。
それ故、どの様な社会的規模の集団であっても、権力の争奪構造―文化は必ず立ち上がってくる。家族であれ、学級であれ、職員室であれ、である。もはや理想的な<ゼロ権力の場>への根拠なき憧憬を捨てて、目の前の現実的な人間関係を見つめるべき時に来ているのではないか。そうでなければ、新しいタイプのいじめ対応は、絵空事の理想論に閉じるか、無力感に陥るか、いすれかになってしまう。
「スクール・カーストの正体-キレイゴト抜きのいじめ対応- 堀 裕嗣 著 小学館新書」は、子どもと子どもの関係や個性のタイプ論や、情報化が生む新たな思考産出文化や社会の変容まで関係づける視座から、いじめ対応の今日的アプローチを提案している。本書の読後には、自分の学級がこれまでと違うものに見える様になるだろう。よりリアルに子どもの個性や関係が見えてくると、自分と子どもの関係までが違って見えてくる。あるいは、自分を含む職員室や教師個々の授業スタイルまでが、異様な納得感を伴って見えて来るに違いない。<いじめ>にはこの現象を生み出す有機的なシステムが背後で動いている。故に挙げられた様々な具体事例は、教師がこれまで体験してきた事例から、納得的反芻の世界に誘うであろう。そして、そのカーストは職員室や大人の世界にも存在しているのだ。
スクール・カーストは実在しないというスクール・ゴースト(おばけ)ではない。子ども達自らが創り出す社会の中で、カーストというお化けが既に実在化している。その検証ができるか否か、本書を読んで確かめて欲しい。
|
256.小学校 中学校でのアクティブ・ラーニング -その誤解と課題-
・実社会に見る多様な学び方 新幹線に乗っていると、実に多様な学習者に出会う。新幹線に乗るたびに、他人の学習法を観察することが私の悪い趣味だ。公序良俗に反しないとは思うが、学び方のカンニングだと言われればそれまでだ。とは言え、試験官に退場を命じられることはあるまい。ここは新幹線の中であり、試験会場ではない。
注意して観察して行くと、いくつかの勉強方法にパターン分けできる様だ。
①黙読型 ②ひたすら暗記型 ③要約型 ④読解意味づけ型 ⑤課題創造型 ⑥想定問答型 ⑦相互学習(レシプロカル・ラーニング)型の七つがそれだ。
①②は解説の必要はあるまい。読んでごとしの一夜漬け型に近い学習法である。③は学習で身に付けたい情報を自分の言葉でキーワード化する方法だ。④は単純な要約ではなく、自分がどう考えたかを書き込むタイプ。場合によっては、資料の中の図や数値を変えて考えてみることもある様だ⑤学習資料を読んで、自分なりの問題を発見するタイプ。 ⑥は相手からの質問を想定して、その答えを記述するタイプである。⑦は学者同志、ビジネスマン同士が対話的に課題探究をしていくタイプである。これは一人ではできない学習だ。互いを互いの学習資源にして生かし合う学び方である。
・学びの本質と能動性
さて、この①~⑦の中で、もっとも頭脳を能動的(アクティブ)に働かせている学習はどの学習だろうか。いずれも、大人の学習であり、子どもの「させられる学習」とは性質が異なるかもしれない。マルカム・ノールズは大人の学習には次の様な特徴があると指摘している。
P:Learners are
Practical (大人の学習者は実利的である)
M:Learner
needs Motivation (大人の学習者は動機を必要とする)
A:Learners are
Autonomous (大人の学習者は自律的である)
R:Learner needs
Relevancy (大人の学習者は関連性を必要とする)
G:Learner are
Goal-Oriented (大人の学習者は目的志向性が高い)
E:Learner has life
Experience (大人の学習者には豊富な人生経験がある)《子どもには豊かな想像力がある...》
これらの学習のもっとも根源的な要素は、『自発的である』ということであろう。自発的な能動性=アクティブ度が高いということが、新幹線内の学習における共通点である。隣に学びを強要したり、叱咤激励したりする教師がいる訳ではない。自分を学びに向かわせているのは、自分自身なのだ。
・子どもの発達特性を踏まえたALを ところで、最近アクティブ・ラーニングという言葉が非常に流行している。日本では大学の授業改革の一環として導入された考え方だ。このALが今、中教審を経て小中学校に降ろされ様としている。 しかし、である。大学型のALの手法をそのまま小中学校に降ろしても大丈夫なのだろうか。発達段階と学習内容、活動の関係を相当意識して考えて行く必要があるだろう。さもなくば、ALという方法に子どもが飲まれたり、形式だけで子どもを素通りして行く恐れもある。大学教育とて、ALが完成の域に達しているとは言い難い。挑戦は始まったばかりなのだ。
また、系統的な教科の知識の基礎を学ばせるのか、活用能力の基礎を育てるのか、その双方を「身に着けさせること」をねらうのかによっても、とるべき学習の形は変わる。汎用的能力を育てると言うが、汎用的能力の基礎育成は知識を教えてから後では、能力発達の臨界に間に合わない場合もある。それでも、汎用的な能力育成は、知識を叩き込んでから後だという古典的学習観も根強い。これは能力の形成よりも、知識の構造を重視した教育観から生まれる固い考え方である。
・小中学校発のALをつくる 特に感じることは、「表現や対話や協働など、身体活動面・機能面」や「IT機器やクリッカーの活用等」に偏って捉えられる恐れがあることだ。例えば、低学年の子どもには単純な内容でも楽しんで知識を覚えたがる時期がある。この時期の受動的な学習は、一見受動的に見えても「自発的に楽しんで学ぶ」という能動性を持つ場合がある。 筆者は、自達的学習(自ら達成する実感を得る学習)と呼んでいるが、こうした受動学習は能動的ではないのだろうか。ALの考え方には学ぶ部分もある。が、しかし、最も大事な点は「目に見えない自達的思考欲」なのだ。体の動きよりも、頭の働きに注目したい。そして、義務教育段階でのALは、その段階の子どもの行動特性を熟知した小中学校主体で開発して行きたい。そうでなければ、子どもの能力を生かしたALは構想できないであろう。
|
255.現実的な授業マニュアルの創造(その4)
能力育成面だけではリアル授業は成り立たない
次期指導要領では「コンテンツ・ベース」から「コンピテンシー・ベース」の方向に指導要領の内容構造が変化すると予測されている。「内容重視から能力育成の重視に向かって指導要領が変化をする」という表現も多く聞くようになった。しかし、本当に今の指導要領が内容だけに縛られているのかというと、実際はそうとも言えない。現行指導要領の<内容の扱い>などでは、能力の育成にかかわる記述も多い。
例えば、「分数についての計算の仕方を、言葉、数、式、数直線を用いて考え、説明する活動」(第6学年)」とうい記述は、内容だけでなく「プレゼンテーション能力」や「コミュニケーション能力」に関わっている。言語活動が重視されて、こうした「能力面」を視野に入れた記述が増えている。 但し、これまでは「内容の修得―教科のねらいを達成するための手段であって目標ではない」と捉えられる傾向が強かったのだ。従って、今後「他者と協働して課題を解決する能力」や「コミュニケーション能力」という「能力面」を重視した授業づくりが始まるとしても、革新的に目新しい考え方だと捉える必要はないだろう。
・学力と能力を視野に入れた授業設計
だが、こうした「能力面の育成」をこれまで以上に意識した授業づくりを行うには、どういう指導案やカリキュラムを組めばいいのだろうか。 ・教えるべき内容を系統的・段階的に組み立てるだけでは能力育成は困難=内容を系統的に教えれば能力も系統的に育つという訳ではない。 ・学習形態を絞り込む(ペアや4人組など)と、子どもや教科の特徴と折り合わない場合がある=決まりきった形態では、実践の流動性に耐えられない。 ・課題や発問の工夫だけで、能力を育むことは難しい=発問を受け止める理解度や温度差に対応する、別角度の工夫が必要。 ・教師のわかりやすい説明講義だけでは、能力を育てることは容易ではない=聞く、写すだけでなく、考えたことを話す・書く、話し合うという行動化も必要。 という現実的な問題にどう対応すればよいのだろうか。
原里中学校では「学力育成・向上とコミュニケーション能力」を関連づけるため、自主的に「授業づくりの5つの視点」を各教科ごとに構想・設定した。これを、全ての授業を構想する上での「授業設計のキーコンセプト」
としたのである。「教科学習を生み出すコミュニケーション」を合言葉に、教科的な学力とコミュニケーション能力の双方を位置づけたのである。
授業を通して「どの様な行動ができる子どもに育てるのか」という、標的行動と授業づくりの要素を組み合わせているのだ。
1 ●●科が目指すコミュニケーション能力(目指す能力観)
2 コミュニケーション活動を通してつけたい力
3 生徒の問いを生むための発問や学習課題の工夫<押さえる>
4 生徒がもった問い(学習問題)について,解決するために適した学習
形態 (授業 デザイン)の工夫<仕掛ける>
5 生徒自身による振り返りの場面の工夫<確かめる>
という五つの視点がそれだ。私の解説だけではわかりにくいので、いくつかの例を紹介する。
あえて、個性・特色の異なる「社会」「保健体育」「英語」を掲載紹介してみた
・キーコンセプト設定の効果
この様に全教科で「5つの視点」で授業づくりを行う視点とスタンスを決めた。このことにより、「教科間で目指す授業像を相互に把握することができた」「小学校や行政に自校の授業づくりに関する姿勢を伝える情報ができた」「授業検討をする場合に、協議がしやすくなる」「若手とベテランの授業像をつなぐ材料となったり、話題やねらいの共通性を高める効果がある」など、多様な成果を得ることができた。
尚、こうした「授業設計のキー・コンセプト」は一度作ってしまえばそれで完成というわけではない。子どもの実態や指導要領の変化に伴って、ブラッシュアップしていく必要がある。しかし、「能力面」という柔軟で形成的な力であり、かつ多様な要素を持つ部分を育てて行こうとすると、「キー・コンセプト」の様な汎用性ある授業デザインの視点が求められることになるだろう。厳密で緻密なデザインにするほど、デザインに手間がかかり、実践の流動性に耐える応用力に欠け、実践性に乏しい「紙キュラム」になる恐れがある。
・校長のリーダーシップが人事異動後もいい形で継承される ・多忙や人事異動、生徒指導など、様々な困難を教師の協働で乗り切る ・研究主任、主幹、教頭が授業実践について高い関心と実践力を持つ ・若手の教師に挑戦的な態度がある ・ベテランが若手の授業づくりに支援的な姿勢と関心を持つ ・行政/指導主事の支援的スタンス
こうした要素も、いい時―悪い時という教育活動の波を乗り切って行く上で大きな力となったと感じる。
・実践家には実践家の強みがある―姑息学習を超えてー
「能力育成」を目指した授業づくりは、手ごわい面もあるが、実践家の工夫で乗り切って行ける見通しがあるという証でもある。いや、むしろ実践家だからこそ可能にできる授業づくりがあると言えるだろう。
ちなみに同校の名誉に為に書いておくが、「コミュニケーションや協働を重視した結果、学力(全国学力調査)が落ちた」などということはなかった。調査結果も全国平均を上回ったり、話し合いに対する態度面などでも伸びが見られたりした。テスト対策的な予備練習(姑息学習)に労力をつぎ込むだけでなく、学校全体が「学習する組織」になって行く時に、子どもと教師の能力が共に伸びて行くのであろう。学力向上はテスト内容・形式の類題を解かせる直接的指導でなくても伸ばすことが可能だ。これこそ、テスト学力を超える学力ー能力育ての王道だと言えるのではないか。 (完) ※研修主任が発行する研修だより
|
254.学力向上とコミュニケーション<能力>の育成 その3
捉えにくい能力と授業の関係を整理する
・次期指導要領を見据えた研修
最近、≪次期指導要領の改訂を視野に入れた校内研修を開始したい≫という声を聞く。これは、2016年に全面改定される見通しの、次期指導要領に対応した授業づくりの在り方を模索する動きだ。
これまでも、指導要領の改訂ごとに、改訂の目玉が話題になってきた。2002年改訂の時には「総合的な学習の時間」が改訂の目玉となった。全国各地で総合的な学習の研究・研修が行われることになったのである。では、今回の改定の目玉はなんであろうか。道徳の特別な教科化や小学校英語の前倒し、国語の重視などであろうか。そこにも意味はある。しかし、もっとも大きな変更の目玉は「資質・能力の育成をベースに据え、かつ大目標に置く授業の創造」ということであろう。
・内容ベース(教科的内容知)から、能力ベースへの転換
これまでは、教科の知識内容を獲得させることが事実上の目標になっていた。教科の知識を分解して系統的に振り分けた知識・技能を身に付けることが教科学習のねらいになりがちであった。いわゆる、コンテンツ・ベースの指導要領に基づいて学力が形成されるという教育観が根強かったのだ。特に、教科の専門性が高くなる上位の学校に行くほど、高度な内容知を中心にした指導になりがちである。これが、「コンピテンシー・ベース」と言われる、能力ベースの指導要領に変わって行く。ここで詳しく解説をすると紙面を食いすぎるため、関心がある方は文部科学省サイトhttp://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/07/22/1346335_02.pdf をご覧いただきたい。
・なぜ能力育成が必要になるのか
簡単に言えば、コンテンツ・ベースならば知識を獲得して、テストで正解を出せればそれでよいということになる。しかし、コンピテンシー・ベースでは、「知っている知識を使って他人と議論ができるか」「知っていることを、よりよく相手に知らせることができるか」「自分の知らないことを、批判的に賢く聞き分けることができるか」という能力が求められることになる。そうした能力の育成を目指して教育課程、単元設計、授業づくりを考えて行く必要が出て来るのだ。
国語のテストでは高い点数がとれる、しかし、対話能力や文書による説得力や、新たな考えを作り合う能力に欠けるというのでは、新指導要領への対応は難しい。実践力の希薄な学力から、実践力を伴う学力の実現が求められる様になる。そもそも「能力」とは、能動的な活動の中で個が環境に応じて発揮(あるいは制御)できる力なのだ。 「後進国だった頃には、先進国に追いつけ追い越すという、追いつくための学力育成でも済んだ。しかし、先進国の仲間入りをした現在は、追いつけ追い越せの学力育てでは間に合わない。先進国と同様の教育―学力育てが必要になる。」と安彦忠彦氏は指摘している(コンピテンシー・ベースを超える授業づくり)。先進国にふさわしい、知識基盤社会に対応できる学力の実体が「能力」なのである。
・能力育成型授業実践の難点
だが、この能力主義の教育には、厄介な側面もある。それは、能力育成重視の授業をしようとすると、予想以上に多様な要素が授業づくりに必要となる点だ。内容ベースで授業を行う場合には「理解しやすく」「理解を促し」「理解を完了させる」という知識完結型授業でもさほど問題はなかった。豊富な知識、説明能力を持つ教師が、教科的な知識を教え易い様に組み立てて、子どもに理解しやすい情報構造に仕立て直して受け渡す。そうした内容の難易度、系統性ベースの指導計画でも形式上は問題がなかった。目指す目標―内容―指導法の整合性がとれていれば、ひとまずは授業設計ができたのだ。
・次期指導要領の力点は協働思考、創造思考、思考意欲の育成
ところが、今後の指導要領では『自立した人間として多様な他者と協働しながら創造的に生きて行くために必要となる資質・能力』『リーダーシップやチームワーク、コミュニケーションの能力』を踏まえて「何を学ぶか」「どのように学ぶか」を決めて行くことになる(参考*出典:初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について)。
これは、教科の知識内容を基盤に据えた指導要領から、能力ベースに向かって目標構造の変化が起きるということを意味している。当然、授業づくりも変化しなければならない側面が出て来る。競技のルールが変われば、作戦も変わるのだ。特に、経験の浅い教師にとっては、工夫の目の付けどころをどうするか、焦点が絞りにくくなる恐れもある。
・能力育成を意識した授業設計の具体策 では、仮に「コミュニケーション能力」や「協働的な課題解決能力」の様な能力面を意識した授業づくりへの対応はどうすればよいのだろうか。例えば、コミュニケーション能力の評価基準やルーブリックを作成して、学習活動と評価をセットにして考えて行くこともできるだろう。しかし、構想ができるということと、実践が可能だということは別のことだ。むしろ、実践に耐える授業設計でなくては、授業として継続して具体化する指導は難しいであろう。いくら緻密で精緻な評価基準を作成しても、実践で使える、使いやすいということにはつながらないことと同じである。
内容の系統的な構造化だけでは能力の育成に繋がりにくく、育てる能力を構成要素に分解して指導内容に位置づけることも容易ではない。もう少し汎用性があって、実践の篩にかけても形骸化しない、緩やかで柔軟な授業マニュアルはできないものだろうか。そんな現実的な願いから生まれてきた授業構想の目安が、授業設計のキー・コンセプトだったのである。では、その具体はどの様なものなのだろうか。(つづく)
|
|
|
|
253.学力向上とコミュニケーション<能力>の育成 その2
捉えにくい能力と授業の関係を整理する
原里中学校でも、研修を始めた頃は「各教科におけるコミュニケーション能力の育成を学力向上につなげる工夫」を研究することにした。つまり、教科的な学力向上の方法を改善する指導的手立てとして、コミュニケーションや協働を捉えていたのである。
だが、対話や協働の充実によって、教科の学力を充実させるためには「目標的な役割」を持つ目安や規準を設定する必要が出てきた。例えば「伝え合う」と言っても、どの程度のレベルの情報をどれだけ伝え合えば指導の目標を達成したと言えるのかが決まらなければ、指導の構想ができないだろう。
そこで、研究開始の頃に構想したものが、
『ゴールの姿』(コミュニケーション活動を通じ、教科において特につけたい力)』である。更に「レベル1・伝え合う
」「レベル2・認め合う」「レベル3・高めあう」という三層の「育てたい力」の構造表を作成した。この構想は、対話や伝え合いという表現では、子どもに育てる力として幅が広すぎて具体的なイメージを持ちにくいということから、各教科の教師が自主的に設定したものである。
--------------------------------------------------------
=各科共通の「ゴールの姿」と目指す対話のレベル=
ゴールの姿『コミュニケーション活動を通じ、教科において特につけたい力)―全教科共通』自分の意見を持ち、その意見を他人に伝えたり、他の考えを知ったりする活動を繰り返すことや、自分の考えが他に認められたり、自分の考えが変容することを実感したりすることにより、集団での自己存在感を高め、次の学びの意欲を高めていく。
「レベル1/伝え合う」課題に対しての自分の意見や考えを持ち、文章にしたり言葉にしたりして表現し、他人に伝えることができる。
「レベル2/認め合う」友だちの意見や考えを聞き、自分の考えとの共通点や相違点を見出す。また、友だちの考えの良い点を認めることができる。
「レベル3/高めあう」友だちの意見を聞いたり、話し合ったりする中で、新たな考えを構築しあうことができる。
------------------------------------------------------------
更に各教科ごとにも同じ項目で、その教科で目指す「ゴールの姿」を設定することにした。 例えば国語科と社会科では以下の様に構想した。 国語=学級などの大きな集団の中で、筋道を立て、理論的に、分かりやすく、自分の考えを他者に伝えることができる。また、他者の意見を自分のものと比較し、大きな集団の中でも、建設的に意見交換をすることができる。
「伝え合い」=小集団の学びあいにおいて、相手の考えを正しく聞き取り、自分の考えを筋道を立て話すことができる。
「認め合い」=自分の考えと照らし合わせながら、聞き取った他者の考えを自分なりの言葉でまとめる。
「高め合い」=他者の考えを正しく聞き取り、自分なりの言葉でまとめ、それを参考にして自分の考えを再構築することができる。
社会=資料を活用しながら社会的事象に対する関心を高め、社会的事象を多面的・多角的に考察し公正に判断するとともに適切に表現する能力や態度を育てる。
「伝え合い」=資料を多面的に活用しながら、自分の考えを構築することができる。
「認め合い」=仲間との交流の中で、新たな考えや意見を知ることで自分の考えを深め、さらには仲間の良さを認め合うことができる。
「高め合い」=互いの意見を表現し合うことで、多角的・多面的な意見や考えを知り、互いの考えを高め合うことができる。
という様に、各教科で教科の特性や教師の授業観を生かした「授業づくりの基準」を設定した。しかも、一覧表にすることが、意外な研修効果をもたらすことになった。
------------------------------------------------------------
・目指す生徒像と能力の構造化
それは、「他の教科では対話やコミュニケーションをどう捉えているかが把握できた」「公開授業や研究授業を行う時に、目指す授業像を意識しやすくなる」「研修の事後研修会の時に、目指す姿が子どもから現れていたかどうかが話題になる」などである。 隣の教科は何する人ぞ、という教科間の授業づくりに関する壁を乗り越えた話し合いができる様になったのである。子どものコミュニケーション能力を育てようとした結果、教師間のコミュニケーションが充実する傾向が見えて来たのだ。
この「目指すゴールの一覧表」は忙しい中で、先生方が自主的に作成したものだ。「コミュニケーション能力や考え合う能力」など、能力面の育成を図ろうとすると、構造的な知識目標だけではカバーできなくなる。そこを補うために「授業の中の子どもの行動目標を構造化した」ものがこの一覧表である。「資質や能力を育てるためには、授業づくりの土台になる構想概念が必要だ」という先生方の必要感は、新しい授業づくりの指針を求めていたということである。
これが、その後「授業づくりのグランド・デザイン」「授業設計のキー・コンセプト」と呼ばれる、授業づくりの大まかなマニュアルを作成する原点になって行ったのである。(つづく)
|
252.学力向上とコミュニケーション<能力>の育成 その1
授業づくりのキーコンセプトを創る
昨年秋に、御殿場市立原里中学校(静岡県)で学力向上の研究発表会が開かれた。この学校の研修にお世話になって7年が経つ。その間、研究内容の柱は「対話、コミュニケーション、協働」による学力向上と授業改善であった。言語活動が本格的に導入される以前は「協働やコミュニケーションなどで学力が上がるのか」という批判の声も存在した。これは、一般的に考えれば、当然の指摘であり、以前から他の地域でも指摘されていたことである。
・対話を通した授業の難点
「話し合っただけで点数が上がるのか」「話す子は話せて、そうしない子はやらないので学力差が広がる」「口の達者な子はいるが、そういう子どもの学力が高いとは言えない」。こうした意見は以前から聞くことが多かった。なぜ、こういう声が多いのか。 その理由は二つある。一つは、記述式の筆記型テストの点数を上げるには、説明と練習問題による「テスト問題の形式に近い学習」がベストだと信じられていることによる。国がいかに学力を定義しようが、点数や数値=学力というイメージは根深く定着しているのだ。 もう一つの理由は、対話や協働を用いて授業をしようとすると、授業の流れが安定せず、教師がねらった様な授業にならないということだ。ここでいう<ねらった>とは、予定通りのという意味である。子どもの自発的・能動的・行動的な思考―表現―判断に任せようとすると、授業が上手くコントロールできない可能性があるということだ。
・授業の足を引っ張る要素 子どもの突発的かつ予測不能な発言は、余剰情報と呼ばれる。余剰情報は時に授業を混乱させる要因になる。ねらいへの流れを断ち切る発言や、突拍子もない発言がこれにあたる。 また、予定情報が生徒の側から出ないという場合もある。予定情報は教師の想定範囲内の情報である。こうした生徒の発言が得られなくなると、授業を組み立てる情報の不足に陥ることもある。これも、授業の流れをスポイルする要因になる。従って、限られた時間内に、目的の知識を教えようとすると多々不都合な状況が起きる可能性があるのだ。そうなると、話し合いや考え合いという子ども側の活動に重きを置いた学習は、効率の悪い指導法に見えてしまうことになる。
・指導のメソッドと生徒のメリット 現在の日本におけるカリキュラムは内容過密である。内容の多さの割には授業時数が少ないのだ。短時間で多くの内容を教えるためには、教師の効率よい計画通りの説明と練習問題に頼りがちになる。その方が安定した授業を安心してできるからだ。しかし、能率が良い授業と、結果の質が高い授業は同じだろうか。
・先生の説明が上手で、生徒がほとんど聞く側にまわる「知識吸収型」授業 ・生徒の話し合いが多く、生徒間の知識のやり取りが多い「相互活動・活用型」 授業 このうち、どちらが高い成果をあげられるのであろうか。
私の考えは「どちらも」である。だが、どちらか一方だけでは、偏った「能力・学力」を育ててしまうことになる。教師の説明に頼る授業では(説明が上手い先生であることを前提とする)、聞いて理解する能力は育つだろう。 その半面で、自分から説明や質問をして、他者とやり取りをする能力は「相互活動型」の方が育てやすいのではないか。「相互活動」の中で生徒がやりとりする情報の質も大事である。ここがおろそかになると、対話はあるが内容が希薄な授業になる。
・基礎知識の習得と表現能力 この様な発言をすると、「知らないことは話せないのだから、まずは知識を教えることが大事だ」という意見が必ず出てくる。このブログでも、著書の中でもこうした「知識先行学習」の問題点は指摘しているので、もう詳しくは書かない。が、想像してみていただきたい。 小中学校時代に説明と指導による「教わる学び」で知識を得た子どもは、高校に進んだら突然知っている知識でバンバン討論ができる様になるのだろうか。対話実践の基礎、応用の基礎は低学年から育てる必要がある。知識あって対話なしの学びは、実践力を書いた能力を育てがちなのではないか。
私自身が、子どもの頃にほとんど発言した経験がなかった。そのため、人前で言葉を出せる様になるまでの間、実に辛い思いをした。話せなかった自分を最も切実に知っているのは自分なのだ。そして、こうした暗い影は一生自分の内面について回る。対話に対する意欲、姿勢、技能の原点は、子どもの次期の対話経験の充実にある。
個人的な思いはともかくとして、現在は、教育の世界的な流れが「行動主体としての子どもの活動―思考―表現」に向かっている。なぜならば、「対話のできる能力」が子どもの未来にとって必要だからである。社会とはあなたとわたしの価値が相互にかみ合い、相違点と同意点を相互に認め合う場なのである。相手の意見を能動的に聞き、自分の考えを相手に分かるように話す。
「話にならない相手」では社会で生きにくいのだ。では、どんな授業でその様な「対話的学力」を育てることができるのだろうか。(つづく) |
251.理想的なマニュアルという幻想
近年、義務教育段階で、教師の世代交代が進んでいる。私が研修に伺っている学校でも、5年前には40歳以下の先生がいなかった学校がある。現在はその学校の4割が若手の先生で占められている。来年度も二人の新卒者が入ってくる予定だそうだ。短期間でこれほど組織の構成年齢が変化する機関も珍しいのではないだろうか。
新採用の教師が増えた学校では、ミドルリーダー層がいない、具体的な指導まで手が回らない、最近の若者は色々な意味で感覚や感性や常識が変化していて育て方に困るという声も聞く。あるいは、過酷ともいえる密度と速度で仕事の見通しもつかないまま、一日一日を乗り切るだけで精一杯という若手もいる。若手も大変な日々を送っているのだ。
そんな厳しい状況の中で、欲しくなるものがある。授業展開や発問やグループ学習、学級づくりなどのマニュアルがそれだ。実際に「こういう手順で行えば上手く行くというグループ学習の方法はないか」「こうすれば子どもが見とれるという方法はないか」という質問を受けることがある。こうした個別の課題に対する「方法」は無数に存在する。
例えば、協働的な学習でも、ペア、グループ、一斉、ジグソー、課題解決型、課題生成型、振り返り活動型、などなど、数多くの方法がある。では、どの型の学習がベストなのであろうか。
どの方法がベストなのかは、具体的な条件によって異なる。どの様な子どもたちなのか(能力や、学力差や、集団性)、どの様な指導技能を持った教師なのか(教え込み型か問いかけ型かベテランかビギナーか)、教えようとしている内容は系統性の高い知識寄り(公式や定理や年号や法則)なのか、実践的な能力寄り(思考力や判断力)なのか、単元の冒頭なのか終末なのか。こうした違いによって、適した方法は異なる。同じであってはおかしいのではないだろうか。
そもそもマニュアルは①問題の起きた状態によって②問題の原因によって③使う側の力量等、によって使い方が異なる。しかも、教育の様に子どもが対象となる場合は、子どもの年齢や発達の状況によっても、適したマニュアルは異なる。同じマニュアルで、すべての学齢の子どもに対応することは不可能だ。教科の特性によっても状況は変化するはずである。
マニュアルに頼ろうとすると、無数の状況×課題(ねらい)×子ども×教師のキャリアや力量に対応できる、無数のマニュアルが必要になってしまう。例えば、≪中堅教師向けの、国語の、物語文の、学力差が大きいクラスでの、グループ活動での、発問づくりマニュアル≫という様に、状況別のマニュアルが必要となってしまう。 manual(マニュアル)とは、手に持った本という意味を持つ語だが、無数の本を片手に授業をすることはできないだろう。教科書と資料、赤本程度が限界である。
世の中には、様々なマニュアルやメソッドがある。それらの存在を否定はしない。だが、マニュアルや法則に教師が使われる様では本末転倒であろう。知っていて、目標や子どもの状況によって使い分けることが大事なのではないか。状況に応じて方法を使い分ける能力が指導力の実体なのであろう。
マニュアルは、解決の手だてが明確化でき、構造化できる問題では効果的な場合もある。しかし、「いい授業はあらかじめ指導案の中には書かれていない。その場その場の子どもとの偶然性に富むやり取りからいい実践は生まれる Lee shulman」のである。
≪理想的なマニュアルという幻想≫を追うよりも、授業実践を反省的に捉え、記録し、分析していく方がよほど、リアル授業力が上がるのではないか。マニュアルを導入して、授業改善が進んだという事例を聞かないのは、それなりの理由があるのであろう。
|
アクティブラーニングの教科書的な定義は
「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。 学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」
≪新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて-生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ-(答申)≫中央教育審議会「用語集」
だと紹介した。この定義を要素に分解すると次のようになる。
①教師の一方的な講義形式ではない
②学習者が受け身(パッシブ)ではなく、内的動機に基づいて学んでいる
③個々の知識の集積だけでなく、活用的な知能の育成を目指す
④対人的な相互活動の中で、知識を確かめ合ったり、創り合ったり、修正し合ったりする活動を通して学ぶ
という四点である。
更に少々具体化すると、
①は教師の説明量は勿論だが、説明の質が重要になることを意味している。内容や知識の解説だけでなく、学習者が考えたくなる様な情報を明瞭に説明できていることが大事だ。
②は、授業中の子どもの表情を見ればわかる。させられている活動なのか、自分でしていると言う充実感をもって学習しているのかということだ。
③知識の積み重ねも大事だが、提案する、評価する、質問する、新しい考えを出す、より大きな疑問や本質的な問を出す、という様な活動があるか。
④課題や資料の中や社会の中にある知識を、自分と相手の間で交換-比較-創造的に用いるということ。私が知っていること考えていることを他者と交流する場があり、思考・表現・判断・創造の場があること。
こうした学習状況の充実に向かっていれば、それは形式がどうであれ「アクティブ・ラーニング」に向かっていると考えていいだろう。大事な点は4人グループかディベートかという様な活動の社会的形態ではない。学修者の脳が自発的な活動状態になっているかどうかということである。
学習の活動と自律性の関係には、上記の様な相関がある。たとえ、教師の説明による学習であっても「聞きたい、考えたい」という知的欲求に基づいて聞いている場合は、能動的な聞きだ。それは、活動としては静的に見えるが、脳の前向きな思考スイッチはONになっていると言える。
アクティブ・ラーニングは欠くことができない今後の学習要素である。しかし、対話や協働という形式だけに着目したのでは、活動あって学び無しと言われることになる。
また、インプットの学習が悪いのではなく、アウトプットを意識したインプットを充実させることが、全ての授業改善で必要になる。テストの上でアウトプットさせることだけでなく、学習の中や生活の中でアウトプットさせる場を経験する。そのアウトプット体験の積み重ねによって、能動的な知性が伸びる。まずインプットありきではなく、今持っている子どもの知をアウトプットさせる学習から構想することが大事であろう。
子どもは知識を受け取り貯め込む行き止まりの知識袋ではなない。子どもの中にある知識袋の出口を緩め、出し合った知識を使いあって課題に取り組む過程を通して、リアルで実践力ある汎用的能力が育つのだ。
|
下村文科相が指導要領の全面改定に向けて「アクティブ・ラーニング」の導入ついて、中教審に諮問するという(NHKニュース)。これまでの指導要領が教える知識中心に構成されていた。だが、今後はどの様に学ぶと=どの様な能力が育つのか、という能力ベースの指導要領全面改定されることになるだろう。
これはこれまでの「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」や国研の報告書「教育課程の編成に関する基礎的研究」の内容から十分に予測できたことだ。
世界の教育が、知識中心から能力やより汎用性ある文化的実践力の育成に向かう中で、いつまでも知識の基礎基本の習得だけにしがみついている訳にはいかないということだ。知識を子どもにインストールするという近視眼的な視野ではなく、使える形で身に付けさせる授業づくりが求められる様になる。このことは、筆者も12年以上前から指摘していた(協働学力などで)ことである。
ところで、「アクティブ・ラーニング」とはどんな学習・授業を示す言葉なのだろか。中央の定義によれば、
「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。 学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」≪新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて-生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ-(答申)≫中央教育 審議会「用語集」
ということになる。
・教え方と育つ学力は連動している
ごく簡単に言えば、教え方を変えることで、学びの成果を変えようとすることだと考えてよい。一方的な講義形式で身に付く学力と、グループ学習で身に付く学力は異なるということだ。英語の単語や文法を丸暗記すれば、筆記テストにはある程度答えられる様になるかもしれない。しかし、実践的な対話の中で英語の対話ができる能力を育てる為には、対話の実技を通して学ぶ必要がある。学習の目標には「実技的要素」と「思弁的要素」がある。自動車の教習所でいえば、実技と学科がこの関係にあたる。
●子ども達の活動(話す、聞く、協働する)が重視される
●子どもと子どもを関わらせる、社会的・間接的指導力が必要になる
●上に関連して、授業中の子ども洞察力、観察力、分析力が一層必要になる
●学習内容だけでなく、活動する子どもの個性や、育てる能力に対する知見が必要になる
●教師自身が、アクティブ・ラーニングを実践・体験する必要がある
●評価に関しては、測れる部分に縛られず、学ぶ力の質的向上を視野に入れる必要がある
●ジグソー、小集団、ディベート、協働学習などのデザインや計画ができる必要がある
●集団をマネジメントする組織構成・調整能力が必要になる
●より質の高いコミュニケーション能力(短時間で学修者を理解や納得に導く)が必要になる
●複数の人数や解決に一定の時間が必要となる様な、課題解決学習の課題・教材の構想力が必要になる
という様なことがアクティブ・ラーニングの実践課題となるであろう。
学ばせ方が変われば、教師に求めれる指導技能も変化をする。先ほどの、教習所に置き換えて考えてみよう。学科の学習では、教師が一方的に学習情報を講義し、模擬テストでチェックするだけでもある程度授業が成り立つ。免許更新の時の安全講習も同じだ。生徒は受け身(パッシブ)であり、点数さえ取れれば寝ていてもさほど問題はない。
一方、実技の方はそうはいかない。教師も学習者も学習対象とアクティブに関わり、状況や課題に対応して行かねばならない。教師の方は対人的実践力、社会的指導性、その場に応じた柔軟な指導が求められることになる。教師の一方的説明や解説だけでは、学習者の実技的能力に働きかけることが難しい。学習者の能力に働きかけるからこそ、学び手がアクティブになるのだ。
また、個々の学習者に関わる働きかけ能力だけでなく、子どもと子どもが働きかけ合うことを促す≪協導型指導技能≫(協力に導く)も必須になるだろう。 (つづく)
|
248.能力の落差を使った学びと指導
人間には、能力に二つの側面がある。一つは受動的な能力である。そして、もう一つは能動的な能力である。受動的な能力は外部の情報を受け取って理解や評価をする能力だ。受動的な能力とは、漢字を読む、歌を聴いて良し悪しを聞き分ける、話を聞いてその良し悪しを判断するという様な能力だ。一方の能動的な能力はこの反対の場面を想像するとわかりやすい。漢字を書く、上手く歌を歌う、人のアタマに残るよい話をするなどが、能動的な能力である。
この二つの能力の高さは異なると言われている。下の図を見てもらうとわかるのだが、右側の能力(受動)の方が左側(能動)より高い人が多い筈である。この能力の落差を使うことによって、学習の成果の質を上げることができるのではないか。
(見えない場合はクリックで表示)
例えば、筆者は授業を拝見した一日後までに、必ず授業分析の原稿を書く。これを、授業者や研修主任に送ることに決めている。授業を見てから、分析を書くまでの間は特に新しい本は読まない。もっとも、数時間~間半日程度で書くのであるから、新たな知識を仕入れている時間は無い。授業を観たという受動的体験を想起しつつ、考察を加えて効果的だった指導の要素や課題を見つけ出し、意味づけて記述を行う。
こうして、受動的見学→思考→能動的記述というステップを踏むことで、見学した時点では気づかなかった様々な要素に気が付いていくことになる。受動的情報=Aが表現に向けて能動的に書き出すことでA´へと情報の次元が上がっていくのである。授業を見てから原稿を書くまでの間に新しい知識は学んでいないが、能動的に考えることで受動的な授業情報のメタ化を図っているのであろう。その結果、最初に受動した情報よりも質の高い情報を創造することができるのである。
これは、子どもの学習にも応用できる。いや、すでに応用されている。授業後半の振り返りも、読書感想文も、課題を中心にした話し合いも、受動を能動に結びける過程で生まれる「落差効果」を利用しているのである。言語活動や話し合いを多く取り入れている学校では、学力調査のデータがよいという。だが、闇雲に言語活動を取り入れても、成果は見えてこない。肝心な点は、能動的学習の結果、子どもの知識の質が上がっているかどうかを見極めることである。
ちなみに、次期指導要領で重視される見込みの「実践力」は能動的能力の側面が強いと言える。
2014/10/15
|
247.教養力崩壊の危険―読欲低下社会の拡大―
文化庁から「平成25年度・国語に対する世論調査」http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h25/pdf/h25_chosa_kekka.pdfの結果が発表された。これは、言葉遣いに関する関心の高さや、コミュニケーションに向かう態度、読書に関する意識などを調査したものである(対象は16歳~70歳超)。
この調査を見ると「言葉遣いに関する意識が希薄化しつつあり」「初対面の人とは関わり合いたくなく」「読書が面倒で、しかも、今後も本を読まなくてもいい」というのが、日本人全体の傾向だということがわかる。
言葉遣いに関心がないということは、ある意味で他人に関心がないということだ。相手に対してどんな言葉を使おうが、そこには神経を使わない(使えない?)。つまり、対人意識が希薄なのである。更に、旧知の狭い仲間だけで固まり、新しい人々と対話をしていく意欲も低下している。互いに不快にならない程度のゆるい付き合いの中で、自分の都合を優先させたいとうことである。そして、本の無読化と、読書忌避の傾向が強くなっている。
この様な調査結果から、何を感じるであろうか。私は「勝手主義の蔓延と、文化的基盤の瓦解」という言葉が浮かんできた。個人主義というと聞こえはいいが、自分勝手が一番という勝手主義は人と人のつながりを希薄にする。関心の対象は自分の心地良さに傾き、自己満足を優先する傾向を強める。
読書嫌いというのは、自分の認知環境をメタ認知的に評価できていないということを意味する。本を読まなくても情報に困らない、別の方法で手に入る、継続的で能動的に本の内容に働きかけて理解をしていく根気、能力、必要性を感じていないということだろう。アマゾンのほしい本リストに大量の本を登録し、図書館と組み合わせながら予算オーバーをしない様に我慢しながら本を選んでいる自分にとっては考えられないことだ。
この「勝手主義、読書忌避化」に対して、家庭や学校はこのままでよいのだろうか。21世紀型の学力や生きる力の育成、協働的共生的な社会や知識基盤社会への対応などという理想とは全く反対の方向に進んでしまっているのではないか。明日の授業、明日の家庭で何を変えていくのか、何を意識して取り組んでいくのか。その答えを求めようとする姿勢がなければ、生きる力を持つ子どもを育てて行くことは不可能だ。
|
246.個人的な探求と相互探究
「探究」という言葉を聞いてどの様な活動を想起するだろうか。私などは、野口英世やキュリー夫人の実験シーンやフッサールやフロイトが哲学的思索を深めて行く様子をイメージしてしまう。どうも、子どもの頃に読んだ書籍に登場した人物の研究シーンと「探求」が私の中で結びついてしまったらしい。
これらの「探求」のイメージは、何れも個人的な探求の姿である。もしかすると、その周囲にはアシスタントがいたのかもしれない。しかし、そうした周囲の人物はすっかりと抜け落ちて、探求する「個」だけに視野が焦点化する様である。同様に、学習における習得も活用も探究も個人的な活動―行為なのであろうか。実際に教室で授業中の子どもを観察してみると、どうもそうではないらしい。
先生や仲間と相互に刺激を受けながら、習得的活動をしたり、活用的思考をしたり、探究的思索をしている場合が多い。なぜならば、教室という空間では、外部の情報をシャットアウトして、個に閉じた学習が可能な時間は限られている。また、仲間と先生とのやり取りや仲間の考えを参考に入手できなければ、習得も活用も効率が悪くなる。加えて、自分の置かれた環境から必要な情報を掴み取る能力を育てる必要もある。
人はそもそもが認知的な倹約家だと言われている。なるべく簡単に、わかりやすい道筋で、自分がわかる様にわかりたいのだ。最短距離で納得に至りたいという本質的な欲求を持っている。だから、低学年の子どもなどは表面的にわかりやすい考えになびいたり、自分も同じ考えだと思ってしまったりすることも多い。ところが、教師の問いや仲間との意見の違いを比較吟味していく過程の中で、表面的な知識の不都合に気づき、自分の考えを修正していかざるを得なくなる。こうして、表面的な理解から探究的思考による理解に向かって、理解の次元を上げていくのだ。これが、「学びの深まり」を生む。また、例え正解であっても表面的な理解を追う学びが主眼となったのでは、学びの深まりは得られないであろう。
こうしてみると、授業中の子どもたちは多くが「相互探求」を実行していることがわかる。そして、教師の側は問題解決への「足がかり」「手がかり」仲間と問の「気がかり」をマネジメントして、「相互探究」の中で個々の学びを充実させようとしていくのである。個の探求は相互探究を経てこそ、実践的な学ぶ力の育成につながるのだ。 2014/9/10
|
245.社会的活動過程が学びを力に換える
学力到達度とは、どの様な性質を持つ指標なのだろうか。到達度は個人の知的到達点だとイメージされやすい。独力でできる限界―臨界がその人の、数学なり国語なりの到達度を示すと考える人も多い。到達レベル、到達ラインという表現は、到達のレベルを固定的に捉えた表現なのではないだろうか。
だが、人の到達度は線引き的、個人内的な要素だけで完結するのであろうか。この疑問に答える一つの考え方が、ZPD(最近接発達領域)という発達観である。1930年代にヴィゴツキーが「思考と言語」で提唱した理論だが、90年代に入って世界的に再認識された考え方だ。
これまでの発達観や学力観は、学力は個人的な力であり、線引き的―到達点的概念を持っていた。しかし、最近接発達領域(ZPD)という考え方によると、発達や到達は教える者との間に広がる領域(Zone)だと捉える。独力でしかできないことが、誰かの手助けによってできる様になり、やがて独力でもできる様になる。そして、独力でできる領域が広がることによって、次に他者から学ぶ可能領域も広がるという考え方だ。個人→他者との協働→個人→他者から学ぶ可能性の増大という、個と社会を連環する発達観である。
教え方が上手い教師はこのZPDを活性化させる力量が高い。「あの先生となら一緒にできる」と子どもに感じさせる指導力は、子どもの発達を刺激する力だと言えよう。また、教師や仲間の考えを生かして学ぶ能力が高い子どもは、真の意味での学び上手だと言えるだろう。個人内学力だけでなはく、他者や外部社会を生かす個人間学力も重要な学力なおである。
先日もプールでの水泳指導でZPDを感じる場に出会った。水が怖くて、水を顔につけての伏し浮きができない子どもが一生けん命水に慣れようとしているが、なかなかうまく行かない様子だ。体が沈み始めると、あわてて手足をばたつかせるために却って沈んでしまう。先生が手を持って、そっと手を放しても怖がってすぐばたついてしまう。やがて、近くにいた仲間が下からお腹を支える救いの手をさしのべ始めた。何回かの挑戦の後、先生が手を放し、次に仲間がそっと手を放すと、3~4秒程度浮くことに成功した。この瞬間こそ、ZPDが発達に向かって最大限に機能した場なのであろう。
発達や成長は独力での努力も大事だ。だが、他者との活動からも学べる力を持つことで、学びの射程に入る領域を広げることができるのである。これは大人も同様だ。普段の生活の中で他者から学んだ実感が希薄になっているということは、自分のZPDがやせ細ってしまっているということなのかもしれない。2014/8/7
|
234.意欲を高める「つかみ」「つなぎ」「つめ」
子どもの考える意欲は方向とレベルから成り立つ。方向と意欲の向かう対象。レベルは対象に向かう強さである。子どもは元々が意欲的で自発的な特徴を持つ。しかし、いつでも教科のねらいに迫るような思考の意欲を発揮できるかどうかは疑問である。意欲の可能態である子どもを、学びの世界に招いていく指導によって、子どもは学校的に学ぶ方向に導いていく。この導きが上手く進めば、子どもの自発性が学びに向かって発揮されていくことになる。
授業の導入では地図に関心が向いていなくても、伊能図と現代の地図の相違点に気が付いていく。例えば、トレーシング・ペーパーで写し取った現代地図と、伊能図を重ねてみるとその正確さに感動をする。そこから、当時活躍した別の学者はいるのか、どんな人がいて、どんなことをしたのか関心を拡げていく。数学でも国語でも、英語でも学ぶ可能態を、学ぶ意欲態に変えて行くのが授業の業だ。ウラッド・コースキーは「学習の動機づけは、授業の始めにあり、中盤にあり、終盤にもある」と指摘したが、その通りであると授業を見るたびに感じる。
子どもを学ぶ意欲態に促していくためには「つかみ」「つなぎ」「つめ」という三要素が必要になる。
「つかみ」は子どもの意識レベルをつかみ、子どもが学習の主題をつかめる情報を提供するということを意味する。授業冒頭から「話がつかめない」と、子どもは思考欲を発揮しにくい。
「つなぎ」は教科の知識と「客観的-相関的-具体的」に子どもの意識がつながるということを示す。客観性は教科的な知識、相関的は子どもの既知とこれから学ぶ知や仲間の考えとの関わり、具体的はその授業内での発言の事実や理由を示す。
「つめ」は考えの吟味である。どの考えが正しいのかという結果だけに留まらず、考えがまとまる過程や、意味ある間違いを考え合って自分の中に落とし込んでいく。場合によっては、更に大きな問いが発生する場合もある。
「つかみ」が甘いと、冗漫で居心地の悪い授業なり、「つなぎ」が薄いと記憶主義の受け身授業になり、「つめ」が甘いと気が抜けたぬるいビールの様な授業になる。子ども自身が自分の力で「つかみ」「つなぎ」「つめ」のある学びを展開できる様になれば、それこそが子ども主体の授業となる。
2014/6/16
|
「FRA論語五十選」発行によせて
郷(ふるさと)という言葉の響には、温もりと優しさを感じる。「郷」という漢字は、ご馳走を真ん中に挟んで二人が向き合う姿を象形した文字だ。ふるさとへの郷愁は山川草木という自然環境に加えて、家族や親しい友との交流とも結びついている。都市で育とうが、そうでなかろうが「人」という環境は子どもにとって永遠の思い出となるのである。
人と人が接するということは、その間に倫理的な共通性や共感性が必要となるということだ。礼儀や規律、思いやりや信頼、より価値ある文化創造に向かう姿勢など、人が生きて行く上で共有できる価値があってこそ、豊かな人間関係が生まれるのである。「みんな違ってみんないい」ということもあるだろうが、“みんな同じだから安心できる”ということもある。違いは共通点があってこそ、違いとしての価値を持てるのだ。では、他者と共通の価値を知る場が生活のどこにあるのだろうか。
FRA論語五十選(小久保錦一 監修 子ども論語素読教本嵐山町FRAの会編/ 教育報道出版社)は、埼玉県嵐山町で活動している、子ども向け論語素読会の教本として発行された。子どもの豊かな心を育てるために、論語から厳選した五十編を収録している。この本がユニークな点は、素読用の本文があり、隣に通釈があり、加えてその言葉が示す具体的な解説が示されていることだ。筆者の体験なども交え、子どもに語りかける様な解説文になっている。論語の素読教本としては勿論、学校便りや学級通信のネタにも使うことができる。論語を素材にして、子どもの豊かな心を育むことを目指している。
近年、価値観の多様化と個人主義が人々の心の中で肥大化したと言われる。無数に枝分かれした個は、一人一人が孤立した“孤人”になりつつある。そうした中で、論語の示す価値を共有し、しかも口伝によって伝えて行こうとする試みは社会の瓦解に対する挑戦でもある。この本を媒介にして、大人と子ども、子どもと地域、子どもと徳という価値を結びつけていく。“特別”な教科道徳も結構だが、“日常”生活の道徳も大切にしたいものだ。どの地域でもこの本を活用した素読会を持てば、子どもの心の中に本当のふるさとが育つのではなかろうか。育った場がふるさとになるならば、その場は子どもの心にとって豊かな方がよいはずだ。
梶浦 真
※お問い合わせは弊社まで
|
232.教師の学習意欲と知的好奇心
「意欲」や「知的好奇心」は、学ぶ力の原動力だ。『最も優れた教師とは、わかりやすい授業をする教師ではなく、子どもをやる気にさせる教師である』とは、昔から言われてきたことである。自分の周囲を見回すと、現役時代は勿論のこと、退職後もサークルを作って教育や学習について学び続けている教師がいる。中には、齢80歳を過ぎて尚、子どもと学習の研究会を定期的に行っている元教師達もいる。最近も久しぶりに、某市町村の教育長(元中学校英語教諭)と会う機会があり、往年の名教師たちが今でも集まって勉強会を開いているという話を聞いた。
かつて、荒井修二氏(元埼玉県教育長 全国市町村教育委員会連合会会長)の奥様が、「主人はこの歳になって夜中の二時まで本を読んだり、原稿を書いたりしている。全く、いつまで勉強すれば気が済むのでしょう」とあきれ顔で笑われていたことを思い出す。このGWも首都圏の大規模書店で、某県で20年ほど前に指導課長をされていた先生とばったり出くわした。この先生曰く、考えたいことが尽きないので、書店通いは辞められないという。考えたいことが尽きないということは、知的好奇心が衰えず、学習意欲が生涯継続する思考の資産であることを示すものであろう。
先日伺った小学校では、若手の先生(四年次)の先生が小型のデジタル・レーコダーをポケットに入れていた。デジタル・レコーダーで録音した子どもの声は、3倍速程度で再生できるのだそうだ。「授業の中で自分が理解しきれなかった子どもの意見や、意味が掴めなかった発言に関心があって記録している。子どもの考え方に興味があり、記録して聞き返すことで次の授業づくりのヒントを得るのだ」という。子どもに気づかれず、自然な声が拾えることもメリットだという。
子どもの知的好奇心を引き出す教師は、子どもに知的好奇心を持つ姿勢が高いと感じる。子どもの意見を知的に面白がって、興味深く聞く姿は、子どもの発言欲や思考欲も刺激するのである。医者は患者から診立てを学ぶというが、教師にも似たような面があるのであろう。知的好奇心を持ち続けた教師の姿が、齢80を超えて学び合う元教師の中にも生き続けているのである。
|
231.授業づくりにおける「手続きの標準化」と「臨機応変性」の間
近年、地域によっては急激に新採用の教師が増えた地域がある。こうした地域の若手は、授業が上手くなりたいという強い願望を持っている。では、どの様な方法で授業を進めれば、いい授業になるのであろうか。若手教師が目指す授業実践技能の熟達には、概ね二つの隠れた方向性を見出すことができる。その一つが「手続きの標準化」であり、もう一つは「臨機応変性」である。手続きの標準化とは、どの先生が使っても効果的だと考えられるワーク・シートの使用や、特定の指導過程を計画通りに順序立てて指導すれば成果が期待できる様な授業づくりのことを示す。
一方の「臨機応変性」は、不測の事態に応じて速やかに応じていくリアル授業力を示す。手続きの標準化は、一見手軽で手堅い授業を可能にするかの様に見える。だが、子ども全員が教材に対して常に同じ反応をする保証はない、身に付けさせる能力が系統的構造性を持っていない場合は、手続き化が困難であるという弱点も持つ。特に、言語活動などで考え合いや、表現し合う学びでは、若手教師の予測を超えた子どもの意見が出る場合もある。予定通りの手順や内容から生の授業がはみ出していく時、教師に臨機応変性が求められることになる。授業における当意即妙性と言ってもよい。
当意即妙とは仏教用語で、当位即妙と書く。そもそもは、無意識で自然と出た素早い行動や知恵が、仏の真理から自然と出ているために迷いや間違いがないという意味である。指導力の高い教師が子どもと変変幻自在の問答を仕掛け合いながら、見事に授業の充実を導いていく場面を見ることがある。これは、教師の中に自分が理想とする授業像があり、その授業像に迫って行くために目の前の子どもの考えに耳を傾け、対応していくということである。この、理想とする授業像が「授業観」である。
当意即妙の授業は、無手勝流で何ものにも頼らないという授業ではない。仏の真理ではないが、授業の真理=授業観を持つからこそ、そこから当意即妙性が出るとも考えられる。授業観があるからこそ、教師は正しく迷い、正しく判断していくことができるのである。教師が授業中に応じる対象は知識や内容だけではない。最も根源的な対応対象は「子ども」である。故に、子どもを洞察評価して応じる力が、指導技能の中心的能力だと言えるだろう。
|
230.授業づくりの<コペルニクス的転回>が日常授業を変える
『「味噌知・ご飯」授業』と言っても、家庭科授業の話ではない。味噌汁・ご飯と言えば、日本人の食事の基本であり、要である。食事に主食がある様に、授業にも中心となる核がある。その授業づくりの要を、再度要としてとらえ直す試みがまとめられている本が「味噌汁・ご飯授業―国語編/野中信行 小島康親 編<明治図書>」である。その第一弾となる本書は、国語という教科を窓にして、授業づくりの核を示す内容だ。世界一過酷な勤務状況にあると言われる日本の教師が、授業を通して子どもと共に生き抜いていくための実践戦略が提案されている。
本書は単なる国語の授業づくりの本ではない。日本の小中学校で行われている、日常授業を改善する視点が実践レベルで提案されている。実践レベルとは、即ち、明日の授業から使える考え方が示されているということだ。
発問づくりが大事というが、どの様な視点を持って国語の発問づくりをするのであろうか。発問、指示、説明を学習過程・課題に応じてどの様に使い分けるのか。その使い分けの根拠をどこに置くのか。日常授業を成立させる上で、なんとなく流してきてしまった部分を意識的に見直すことによって、子どもの頭に<おいしく知の主食を食べさせる方略>が示されている。
最近、国語の単元が時間不足で中途半端になってしまうという声を聴く。子どもの読解力や対話力の伸び悩みや、指導内容の増加、一単元に含まれるねらいの配分など、授業構成が多要素にわたり、煮え切らない授業になってしまうのだ。授業の組み立てを簡素化し、言葉がけを厳選して、子どもの頭が最もよく働く活動を与え、評価によってフォローしていく授業運びによって、まとまりある授業を日常化することを本書では目指す。更に、単純に指導過程の構成や指示の出し方を押さえるだけでなく、子どものノート指導の具体事例や、教師自身の日常の研修方法まで詳説している。執筆陣がすべて実践家やOBであることから、現実的で実現の可能性が信じられる内容になっている。つまり、授業のイメージと希望が見えてくる内容なのだ。
本書は、研究授業と日常授業のコペルニクス的転回を主張している。特殊な機会としての研究授業ではなく、毎日の日常授業を改善することで、子どもの学力と教師の授業実践技能を共に伸ばそうとしている。考えてみれば、日々の日常授業こそが、教師にとって最も身近で生かしやすい実践的研究―試行錯誤の場なのである。
5年次までの教師は勿論のこと、国語の授業づくりが行き詰ったり、マンネリ化したりしていると感じている教師にも実践インパクトを与える一冊だ。
|
229.能力は“体験を通して”出る
平成に入った頃から、体験を通した学びの必要性が問われている。机上の学び、活字だけの学びではなく、体験的な学びを通して豊かな知的基盤を育てることが求められている。だが、その一方で「体験だけで学びになるのか。やはりテストできちっと点数が取れる様な確かな教育が必要だ」という声も根強い。
人間の活動には「抽象的具体性」と「具体的具体性」という二つの行動様式がある。ペーパーテストは抽象的具体性が高い行動を要求される。一方で、今度地域の○○を調べるために××にインタビューをする手だてや計画や質問事項を創ろうという学びは、具体的具体性が高い行動を要求される。机上の勉強は「抽象的な知識の使い方を具体的に学ぶ」側面が強く、総合的な学習などでは「具体的な社会的課題と具体的にかかわる活動を通して学ぶ」側面が強い。どちらの学び体験も大事だが、抽象的具体性(いわゆるテスト勉強的お勉強)が優先される傾向が強い様である。
体験を通して学ぶということは、自分の内側に問題を取り込んで学ぶことでもある。従って、机上の勉強であっても「私は○○を明かにしたい」と言う内的動機があれば、それは具体的具体性を帯びることになるのではないだろうか。かつて、ある中学校で「サッカーボールがなぜ、五角形と六角形を使った32面体になるのか」という疑問を持った生徒がいた。数学の先生に尋ねたら、それは勉強と関係ないから総合的な学習で、個人の課題として取り組むことを勧められたという。やがて、その子は総合の発表の折に、数学の発表の様なプレゼンをして教師や周囲を驚かせることになった。
体験を通して学ぶことには大事な意味がある。しかし、これはやや一方通行の考え方なのではないかと思うことがある。子どもの学ぶ姿を見ていると、能力は体験を通して発揮され、その発揮の過程で思考力や情報吸収力や表現力が高まっていくと感じることがある。体験はインプットの手段だけでなく、子どもにとってアウトプットの場なのである。授業において、子どものアウトプットの質を高めるという視点が学びの質を上げるのではないか。授業づくり上手は、インプット上手であると同時にアウトプット上手なのである。
4/9
|
228.★実践(指導)エキスパートとの対話・後編
野中信行先生から<味噌汁・ご飯の授業>というお話を伺ったのは、五年ほど前のこと。所は品川の居酒屋であった。今回は<味噌汁・ご飯>に、加えて<指導言・活動・評価>というシンプルな視点で授業を組み立てる必要性を伺うことができた。野中先生の主張の魅力は実践の本質を突いている点にある。論の為の論に閉じず、実践として可能であることを第一に目指している。現実的な有効性から、授業論・指導論が主張されており、実践家の納得できる主張が多い。以下は雑駁な感想である(野中先生、誤解・曲解があったらすみません)。
【野中信行氏の授業実践理論―その実践原理―】
1・過激な繁忙を極める教職の現実
近年、ブラック企業という言葉を聞く様になった。利潤追求を徹底し、働き手の時間や金を搾取する企業。これが、ブラック企業の持つイメージであろうか。ところが最近、「公立学校こそ最大のブラック企業である」という声も聴く。その声を挙げているのは、教育実習で教師体験をした大学生だ。忙しすぎて、体力的に続かないのではないかという、不安の声も聴く。
筆者が尋ねた中学校でも、職場体験で二日間小学校の教師見習いをした中学生が、「先生は朝からずっと忙しい。授業時間のほかにこんなに沢山のことをしているなんて、先生はすごい仕事だ」という感想を述べていた。こうした目まぐるしい環境の中でも、より一層質の高い学力育てが学校に求められる様になっている。社会のハイパー・メリトクラシー化が進み、人間力、問題解決力、協調的課題解決能力、総合的な思考力など、より高次で広範な学力を育む役割が学校に求められる様になっている。更には、目標準拠という(本来はどんな目標なのかが肝心なのだが)方向で、指導内容と成果を客観化、可視化、定量化しようとする社会的圧力も高まっている。
加えて、地域のコミュニテイや家族風土の変化などの変化から、学校に持ち込まれる課題の量も質も膨らみつつある。外部から見ていていも、“いつか学校や教師はパンクするのではないか”と切実に感じることがある。この様な、超多忙化の中で「着実に子どもの力を伸ばせる授業」を組み立てる術と工夫が必要だと、野中氏は主張する。
ある中学校で「君が倒れたら、校長である私が困る。私は直接君のクラスを指導できない。もっと困るのは生徒だ。生徒が困ると、私も困る。だから、君が倒れないように仕事のしすぎに注意してくれ。生徒のために、先生が無理をしすぎないように(連日連夜の仕事を)諦めてください」という校長の言葉を聞いたことがある。生徒指導の困難校で、夜中まで生徒に付き合い、土日がないという環境下で、“授業の質を維持する”ということは極めて現実的な課題だと言えるだろう。急性的な繁忙が慢性化する現象は、どの公立学校でも広がっている。
2.授業構造の簡潔化と学級づくりによる子どもの社会化
繁忙な環境の中で授業を成立させるためには
①学級の社会的構造化②授業のねらいのシンプル化③授業設計の要点化、という三つの視点が大事だという。
①の視点は「社会構成的に学べる組織秩序を学級に創る」ということを意味する。ここには二つの教育的意義があると言える。一つは、「構造性を持った社会集団の中でこそ、学習に関わる情報、情意を共有した学びの場を構成できる」ということ。もう一つは「子どもが自分の個性を社会の中で生かす素地を培うために、自分という個の中に社会性のエンジンを創っていく」という意義である。
社会構造の安定した集団ほど、学力が伸びやすいという事実は誰もが疑いを持たぬであろう。学級崩壊を起こした学級でぐんぐん学力が伸びたという話は聞いたことがない。そもそも、学級における個の認知過程は、集団の認知過程が内化していくことで形成されていく。個別指導の局面は、子ども個々にとってわずかな時間であり、教師と子どもの信頼関係や情緒的つながりと、学力形成は密接に関連している。教師に対する信頼と仲間への安心感は、子どもの挑戦を容易にする効果も持っている。また、近年記憶と脳の働きの関連が明らかになり、情緒的な安定が海馬における記憶処理効果を高めることもわかってきた。従って、学級経営は学習において、これまで以上に重い意味と価値を持つようになっていると言えるだろう。
また、従来の縦横社会から、社会のグローバル化に伴って組織の活動形態が変化すると言われる様になった。「自律分散型」という、目的によって自由に関係を変えることができる、縦横の束縛が少ないフリーな組織がこれからの社会形態になるというのだ。本当であろうか。 これは、大きな幻想(妄想)である。第一に、縦横の構造性がない社会は、社会とは言えない。現実の生活の中で、職場であれ、家庭であれ縦関係のない社会はあり得るだろうか。あるとすれば匿名性が高く、関係性もあやふやなネット社会という特殊な社会である。社会という名をつけること自体が問題であり、<ネット世界>固有の状況は、現実的な生活世界では通用しないことも多い。
大学のサークル募集パンフでも「お互いに束縛しません」「上下関係いっさいなし」「自由な雰囲気」「何回生かは公開不要」「気軽に、楽しく」という言葉を目にするが、社会構造が曖昧な環境で育った若者の価値観が表れていると考えられる。人間が万物の霊長となれたのは、社会性を発達させることで他の動物よりも強い競争力を持てたからだ。社会性の発達によって、言葉や文化の共用を促し、知的社会を形成することに成功したのである。知識と組織の関連を、これまで以上に意識して教育を行うべきであろう。子どもが巣立っていく社会は間違いなく、構造的組織を持っている。縦横関係がある社会だからこそ、参加の方法や手だてをつかむことができるのである。その、つかむ力は、集団に参加する活動を通して身につくのだ。
②の視点は“日々の授業の平均的な質を上げることが子どもの学力を伸ばす”ということを意味する。研究授業も大事だが、すべてをきめ細かく準備して、あれもこれも盛り込むという“ごちそう授業”ではなく、ねらいの芯を明確に絞った<味噌汁・ご飯>の授業が大事だという。学習指導とは子どもの思考過程を焦点化させるマネジメントである。その焦点が多焦点になってしまったのでは、教師の指導がブレたり、子どもの思考の照準が定まらなかったりする。ねらいのシンプル化は、教師が念頭に置く指導の要を意識することで、子どもの知識をその要に向けて行こうとする指導概念だと言えるであろう。本時の中心を子どもの力量を見据えて設定するのである。教科の目標を、子どもの目標として書き換えると言ってもよいであろう。
③は<指導言><活動><評価>という、三つの要点で授業を構成するという主張である。この三つについては、詳しい話を聞くことができなかったが、ここにも重要な示唆が含まれていると感じる。指導言とは、大西忠治氏(故人)の造語である。「指示―発問―説明」の三種がそれだ。これを、意識して使い分けることが大事だという。筆者も多くの授業で、説明性の乏しい「説明・発問・指示」を聞くことがある。説明、発問、指示が大事というよりも、子どもにわかるように説明性の高い指導言を発することが肝心だということである。更には、自分の発した言葉が子どもにどの程度届いているか、判断をしていくことも必要になる。また、指示が響く教室とは①で述べた「社会構造の安定した学級」とも密接に関連している。 「活動」は子どもにどんな思考・行動をさせるかという視点である。話し合いなのか、書かせるのか、教師の話しを聞く時間なのか。メリハリをつけて、子どもの頭の中に空白の空き時間を作らない工夫が大事という。 「評価」は子どもの発言の価値を捉えて、子ども個々や全体に返していくということである。問いっぱなしではなく、子どもの表れをその場で価値づけていくことで、学びの流れに見出しをつけていく。このことによって、子ども達は自分たちの学びがどの程度進んできているのか把握することができる。
学習は一斉であれ、小集団であれ、個別であれ「個」の中に起きる。一斉指導であっても、子ども一人一人の学びの過程は子ども個々の内に生起する。だからこそ、個が直面する集団環境が個の学びにとって重要なのである。社会に参加し、社会の仕立てに参加しつつ自己実現を図る子どもの地力を育てて行きたいものだ。 3/21
|
227.実践(指導)エキスパート二者との対話
先日、横藤雅人先生と野中信行先生と久しぶりに会うことができ、授業づくりについて、様々な示唆や主張を伺うことができた。両氏の提言はそれぞれが実践的経験に裏付けられており、納得力を持つものであった。その感想を忘備録として記すことにする。以下は両氏と歓談した帰りの電車の中で記した走り書きである。
≪ヒドゥン カリキュラム≫ とは何か ―電車内の夢想―
道元の「正法眼蔵随聞記」の中に、「霧の中を歩めば覚えざるに衣湿る」という言葉がある。弟子、懐奨の言葉である。師匠である道元と共に歩いていると、それだけで感化されるという気付きを示している。更に「よき人に近づけば、覚えざるによき人となる」と続く。≪
霧の中を歩くうち、自然と衣が湿って来る様に、よい人と共にいるだけで自分もよき人に近づいていく≫ということだ。こうした子弟の関 係は、教師と子どもの間にも当てはまりそうである。
私の師匠である藤井均氏(元埼玉県教育委員長)は「子どもにとって、よき霧となっているかどうか。教師は常に自問自答すべきである」と語っていた。不言感化という言葉があるが、これも同様のニュアンスを持つ言葉だ。教師の指導は主に言葉がけを通して行われる。その言語を用いずに子どもを感化するのだ
とすれば、教師は何を以て子どもを導いていくのであろうか。
子どもを育む環境は「人・モノ・コト」の総体から成る。しかし、それらは実践者と子どもの間で多様に相関、干渉し合い、教育的影響を構成されていく。机の並べ方、指名の順序、誤答への対応、教室の掲示物の配置などは、教育環境を出現させる表現として子どもに作用する。ホワイト・ボードを中心にして、顔と顔の距離近づけ話し合いが可能な子どもが、理科室の大きな机によって互いの距離が遠くなると、話し合いができなくなるということがある。いつもより大きめの机は、この子どもたちにとってどんな意味を持つのであろうか。より大きな机が子どもにとって持つ意味、アフォーダンスが子どもの学習行動に影響を与えて行く。人・モノ・コトは多様に絡み合いながら、子どもの思考や価値観や文化的な掟を表出させていくのである。
子どもは学習環境の中で、人・モノ・コトに働きかけることを通して、自らの認知環境(知っているもの、知りうるものの総体)を変化させていく。人は環境の動物である。環境の影響を受けながら、環境の構成に関与していく活動を通して、自らを変化させていくのである。活動も思考も、環境との相互関係で生み出され、その生み出しの過程そのものが学習主体にとって学習を生むのだ。毎時、毎分、毎秒、それはクラスの中で起きている事実である。
学習を構成する環境の中には、「意図的」な要素と「無意識的」な要素がある。これをカリキュラムのレベルで考えると、「顕在カリキュラム」と「ヒドゥン(潜在的) カリキュラム」として対照的に切り出すことができる。しかし、顕在カリキュラムと、ヒドゥン カリキュラムはどの様な関係にあるのであろうか。カリキュラム
(Curriculum)は、競走路(レースのコース)という意味を持つ。スタ ートからゴールまでの過程を示す言葉である。学習の目標と内容が順序性、関係性に構造化されたものと考えてよいだろう(教科カリキュラムの場合)。
カリキュラムという概念が構造性を原理として持つならば、ヒドゥンにおける「構造性」はどの様にとらえるべきなのであろうか。顕在的カリキュラムとは異なる次元、異なる原理から生み出されている教育環境要因が、ヒドゥン カリキュラムだとも考えられる。顕在カリ
キュラムと潜在的カリキュラムの関係は、正―反、可視―不可視、意図的―偶発的、分析的―相互作用的、結果的―過程的、科学的―本質的、論理的―臨床的、という多様両軸的な関係性と連動しながら、学習活動の中で常時再構成されていると考えることもできそうだ。
構成的、産出的、有機的、流動的であるがゆえに、要素として分析してみてもつかみにくい部分をもつ。しかし、そうした有機的構造故に、環境と自らを作り合う人という存在の学びにとって、大きな影響力を発揮すると言えるだろう。横藤雅人氏は「潜在的カリキュラムには、ポジティブな面とネガティブな面がある」と指摘している。この視点は、実践的に教育環境を捉える上で重要な視点だ。
ポジティブな面とは「教育促進的要素」を持つ部分であり、ネガティブな面とは「非(反)教育的要素」を持つ部分を意味するのであろう。教育―学習推進上のプラス(促進)要因とマイナス(抑制)要因と考えることもできる。
論理として「潜在的カリキュラムとは何か」を明らかにするだけでなく、実践者が実践の為の視点として指導の中で「潜在的カリキュラムを視野に入れて行く」ということが大事なのではないか。理屈で分類することだけでなく、実践の中で「ヒドゥン カリキュラム的な要素」が、どう子ども達の学びを構成し影響を与えているのか。これまで無意識だったものを意識化してみる。言葉がけの語調、子どもの
誤答を受けとる時の表情、指名の順序、掲示物の位置、机間指導での歩き方などなど意識を向ける対象はいくらでもある。意識することによって、知識が生まれ、それを指導に生かす。その繰り返しが、指導技能の向上を生む。実践者としての強みを最大に生かした、実践的なヒドゥン カリキュラム観を示すことは、教師達にとって大きな財産となるであろう。
アメリカのカリキュラム学者ラウンズベリーは「カリキュラムは何か」と問われると、「それは、あなた、先生こそが子どもにとって最大のカリキュラムだ」と答えるという(安彦忠彦)。教師の表情振る舞いも子どもにとっては強いカリキュラム性を持つのであろう。
※次回は野中信行先生の「味噌汁・ご飯」の授業づくりについて考えたい。
|
226.道徳授業における「構成的発問」と指導過程
「発問構成をどうするか」「指導過程をどう構想するか」「資料分析を通してねらいを明確化するにはどうするか」「心のノートをどう使うか」。道徳の校内研修に伺うと、必ずこれらの課題が話題になる。これらの課題は互いに相関している。発問構成と指導過程などは、授業過程の中で融合していると言えるであろう。
発問構成は、子どもの思考の方向化を促し、中心的な道徳的価値を考え、自分なりの考えを持つことで道徳的価値への接近を目指すという順序で組まれることが多い。だが、実際の授業では、子どもの思いがけない反応で、授業が大きく揺れるケースが多い。察しの良い子が、主発問を出す前に「これって、○○を考えろということでしょ」と授業の流れを急に進めてしまう場合もある。あるいは、教師が想定していた考えよりも鋭い考えが提出され、その発言を取り上げずに授業を進めてしまう場面にもよく出くわす。
・道徳で教える内容や目標と、伝統教科で教える内容や目標の性質は、同じなのか違うのか。同じだとすればどこに共通点があり、どこが違うのか。
・道徳の学びの目標が持つ性質や特徴を生かす指導法は、あるのかないのか。もしも、伝統教科と異なる特徴が道徳の学びにあるとすれば、それに見合った指導法や発問があるのではないか。
・題材を理解すること以上に、題材の理解を通して道徳的価値への接近が望まれるのであれば、「子どもの発想・視点」から教材を見つめ直す必要があるのではないか。
こうした問題はどう考えて行けば良いのであろうか。ここでは深く追わないが、「客観的・系統的な知識」と「大綱的・主観性を持つ知識」を学ばせる方法は同じではない筈である。
先日、道徳の題材を自分で分析し、「この資料は指導要領のどのねらいを意図した物語なのか」、資料の側からねらいを推測してみた。資料分析から観た、ねらいの逆算である。子ども頭になって、資料の側からねらいを考えてみる試みだ。ところが、これがなかなか難しい。「信頼・友情」なのか、「思いやり・親切」なのか判然としない。また、学級が不安定なクラスと、まとまりある学級力の高いクラスでは、同じ資料であっても、子どもの実体に合せて「ねらい」を変えたり、絞ったりした方がよいということにも気が付いた。赤本のねらいも大事だが、子どもたちがこの題材と出会うことで生まれるであろう、道徳的価値をねらいとすることも考えられる。
発問構成や指導過程も、あくまで「予定」であり、実際の授業の中では、子どもの思考に合わせて仕立て直すことも必要であろう。私はこれを「構成的発問」と呼んでいる。予め練った発問を用意することも大事だ。その構想過程で得られる情報も価値があるだろう。しかし、子どもの思考や表現や意見の多様性を生かし、計画にはないが目の前の子どもたちとの応答関係でその時に有効な発問を構成していくことも大事にしたい。
『各学校においては、特定の指導法を絶対化することなどにより、道徳教育の授業が画一的なものとなったり、教師の一方的な押しつけにつながったりすることがないよう留意しつつ、柔軟でバランスの取れた指導法の開発・実践に努めていただきたい(今後の道徳教育の改善・充実方策にについて 報告書)』
道徳の授業ではその性質上、伝統教科よりもしなやかな授業術が必要になる。取るべきバランスも教科とは異なる側面があるのではないか。“報告書”からはそんなニュアンスも垣間見える。「構成的発問」も、柔軟な授業づくりを構成する視点の一つである。 2/24
|
225.自信を育てる道徳授業
「アメリカで社会的に成功して、自己実現を果たした人の心理的特徴を研究した調査がある。当初は、その成功要因は“自信”に裏付けられていると考えられた。自信を持って、実行した結果、成功できたということである。しかし、よく考えてみると、“自信”だけでは他人は納得しないし、強引な人物だと思われることも多いはずだ。そこで、もう一回、調査のデータを分析しなおしてみると、自信とは異なる要因が浮かび上がってきた。
・自己受容をしている
・自分なりの結果が出せる
・自分以外の誰かの役に立っているという、三つである」
この話は、今から20年ほど前にラジオから聞こえてきた話である。非常に説得力があり今でも記憶している。
自己受容ができているということは、正常な自己愛が育っているということを意味する。自分なりの結果が出せるということは、どのような問題に出会っても自分らしい答えを見つけることができるという自己有用感に結びついている。誰かの役に立つということは、人の本質が社会的に自己の存在理由を反証することで、生き甲斐を感じるということであろう。いずれの項目も「自己、自分」が頭言葉になっている。しかし、この三項を結びつけているものは「他者との関係」と「セルフモニタリング(自己俯瞰力)」なのではないだろうか。養育者からの必要な愛情や、外側(他者)から持ち込まれた課題との対峙や、利他行為に対する感謝などが、自己実現を生み出す資質の伸長に役だっているのではないだろうか。そうした関係から生まれた感情や思考を俯瞰し、自分なりの納得として内面化してゆくことが「生きる力」に繋がっているのであろう。
最近、道徳の授業を拝見する機会が多くなった。その事情は周知のとおりである。問題は「子どもたちに自信が育っていないので、本音が出ない。従って、腹を割った意見が出ないので、授業にならない」という声をよく聞くことである。「疑問だらけの協働学習」にも対人ストレスに強い学力育ての条件を書いた。言語活動の導入に伴って、教科学習でも上記の様な羞恥心や自己防衛による意見表明の困難さが課題になっているためだ。
子どもが本音で語れないということ自体が、子どもの表面的な本音を換喩している。だが、本当は本音で語ることの充実感や認め合いによる満足感をどこかで欲している筈である。相互に認め合うことで、互いの存在理由を深め合いたいということが子どもの本音なのではないだろうか。唯一の正解という狭い的を目指す学びではなく、価値のバランスの中で自己の主観を検算し、その子なりの考えが出しやすい学びが道徳の特徴ではないだろうか。資料の表面を行儀よく素通りして行く道徳授業からの脱皮は、子どもの成長と共にある。
2/13
|
224.学力テスト対策で授業の質は劣化する?
4月の全国学力調査に向けて、予備練習やテスト対策を講じている県があるという。「学力テスト」と呼ばれると、このテストで測った数値が学力そのものを示していると勘違いされることは教育の矮小化につながるだろう。この学力の中身は「国語と算数の教科的な知識のうち、ペーパーテストで測りやすい部分における、問題AB様式で子どもが回答できる能力」とういうことであろう。しかも点数は流動的な性質を持ち、子どもの将来においていかようにも変化する可能性を持つ。低かった子が高くなる場合もあれば、高かった子が低くなることもある。どの様な学びが、学びの成果が係留できるのかということも重要な課題である。
そもそも、テスト対策で伸びた点数や順位を「学力」と呼んでよいのかどうも問題である。教育評価には「キャンベルの法則」と呼ばれる法則がある。それは、テストの点数や順位が競争の指標になると、「予備テストを沢山行う」「外国人など、成績が明らかに低そうな子どもを休ませる」など、姑息な手段によって数値の価値が下がるという法則だ。単純な反復やドリル頼みの授業が横行すれば、当然授業内容は劣化する。これは、粉飾決算による株価操作にも似ている。数値上の株価は上がるが、それが実態を反映しているかどうか。学力テストの点数、順位に異常に拘り、絶対化する者は学力の粉飾決算を推進しているとも考えられる。
テストとは、もともと錬金術師が金属を溶かして金を選別するために用いた「素焼きの壺=エスト」が語源である。元来が、仕分ける壺なのであるから、点数や数値は自然に競争や選別の要求を生み出すとも考えられる。錬金術師が金の合成に成功しなかった様に、テスト対策で学力向上は成しえないのではないかという気もする。錬金術が盛んな頃は、エストを作る壺職人が一番得をしたのではないだろうか。教育においては、子どもの得になる授業づくりを大事にしたいものだ。
1/25 |
1月18日に刊行しました。
223.「疑問だらけの協働学習―300の教室から観えた課題と工夫」-」
秋の研究会シーズンですっかり忙殺されてしまい、発行が遅れていた新刊がようやく発行となる。「疑問だらけの協働学習―300の教室から観えた課題と工夫」がその本だ。「変化する知識観と協働的な学習」「授業実践の工夫と協働的な学び」の二章だてで、全42編を収録する。第一章では今後の授業づくりがどんな方向に進むのか、国の審議(検討会)の動向と世界的な授業づくりの動向を、実際の授業づくりの視点から考える。全体の7割を占める第二章では、「現実の授業の中で、協働的な学びにはどのような問題、課題があるのか」を押さえ、解決への工夫点や方策を考える。
この42編全編がQ&Aのスタイルで構成されている点が特徴でもある。Qを受けて応える形式で全編が通され、間に「ちょっと一息」というコラムで最近の教育動向などを紹介している。ところでタイトルの「疑問だらけ」の疑問とはどういう意味であろうか。これは、実際の校内研修や授業検討会で教師から生まれたリアルな「疑問」をベースにしているという意味である。以下はごく一例であるが、(問)の部分は実際の教室から生まれた先生方の疑問である。
○理想と現実の狭間から実践を見る◆(問)理想と実践の温度差をどう埋める?
○協働学習という理想と教室の現実◆(問)協働学習は実践の場で安定を欠くのでは?確かな学力を育むためには確実性、安定性が
高い授業づくりが一番大事なのではないか。
○協働学習と学力向上の相関関係◆(問)テストで測れない様な学力は、結果的に子どもの為にならないのではないか?
○未来型学力/実践型学力の台頭◆(問)実践性のある学力は大事だろうが、教科のねらいとはあまり関係ないのではないか?
○協働集団の大きさはどう決める?◆(問)グループの大きさに関わらず、発言が苦手な子どもは発言しないのではないか?
○グル―プでの活動時間はどの程度必要か◆(問)考え合いや試行錯誤には時間がかかるのではないか?
○協働の質を高める介入とは?◆(問)対話や協働が停滞した時にはどの様な介入方法があるのか?
○チーム(グループ)毎の考えの差にどう対応するか―◆(問)グループごとの考えや意見に差が大きな場合はどうやってまとめるのか。
全部取り上げるとまとまりがつかなくなるのではないか?
○子どもの意欲の差・学力差を考える◆(問)子どもの学力差、意欲差が大きすぎると、協働そのものが成り立たないのではないか?
○中学では教科を通した学級づくりが肝◆(問)子どもの人間関係と教科の学力の達成は別次元のものではないのか?
○授業の流れを構想する四つの柱◆(問)学習形態を設定しても、話し合いや考え合いが深まらない場合もあるのではないか?
○子どもの意見が子どもにわかりやすい授業◆(問)一斉指導の相互指名などでは、子どもの意見が繋がるだけで深まらないことがある。
子どもの相互指名だけでは授業が上手くいかないのではないか?
従って、大学の研究者が執筆した様な「高度に学術的で洗練された内容」ではないかもしれない。その分、「より具体の授業実践」に近い内容だともいえる。なぜならば、実際の授業実践の中で「効果的だった対応事例や授業づくりの工夫」を、私が解説的に翻訳した内容が多いからである。認知心理学や教育方法学、指導要領の解説書などの書籍の中にも、授業づくりのポイントは示されているだろう。しかし、本書では「実際の授業や研修の中で発見した授業づくりの課題と工夫」を大事にした。ある意味では、優れた授業実践を「記述化して盗作した」ともいえる。それゆえ、上から目線ではなく、中から目線で書かれていることが特徴かもしれない。全100ページで、元旦発行の予定である
|
222.学びの「仕掛け」「仕立て」「仕上げ」が光る授業
よい授業には三つの工夫が潜んでいる。その一つは「仕掛け」である。もうひとつは、「仕立て」である。そして、最後が「仕上げ」だ。
「仕掛け」は子どもの中にある「学ぶ意欲・能動性・自発性」に働きかける作用を持つ。昔から、授業の開始3分間で授業がきまると言われる。それは、冒頭のつかみで子どもの学欲に火を灯すことの大事さを示した経験則なのであろう。見逃がしの初球ストライクは,一球以上の重みがある。
「仕掛け」は指導過程の工夫や発問構成の工夫、子どもと子どもを関わらせることで学びを白熱化する工夫を意味する。安易な方法で正解を出せた子どもを褒めつつ、その方法でよいのか他の子どもや教師自身の考えをぶつけて揺さぶりをかけて行く。「できること」にくわえ、「考えさせること」を大事にした授業者の工夫がそこにある。
「仕上げ」は今日の学びを子どもの頭で振り返り、学びを子どもの既知に係留する働きを持つ。授業が時間切れとなり、「ワーク・シートに振り返りを書いておいて下さい」というのは仕上げではなく、始末である。振り返りの質を大事にした授業でこそ「仕上げ」が効いた授業となる。
「仕掛け」「仕立て」「仕上げ」はこの秋に拝見した質の高い授業の共通点だ。実践者の工夫の中に、授業作りの真の財産が潜んでいるのである。
2013/11/20
|
221.学びの否定や逃避は子どもからのSOS-できない子どもはできたい子ども -
「できない子どもがいるのでできない」「伝えることができない子どもが多いのでできない」「グループ学習で足を引っ張る子どもがいるのでできない」「やる気がない子どもが多いのでできない」。最近伺う多くの学校で、同様の悩みを聞く。やらない、できない、あるいは妨害する子がいるので、伝え合いや協働的な学びができないという訴えである。
教師は誰でも子どもの「できる姿を見ること」を願っている。そして、全ての子どものできる姿を期待している。ところが、多様な個性を持つ子ども全てをできる様にするということには現実的な課題も多いということだろう。
しかし、どの様な子どもであっても、できる様になることを望んでいる筈だ。「できなくてもいい、やりたくない」という子どもの言葉や態度は、出来る様になりたいという習性を持つ子どもが出しているSOSではなかろうか。本当は出来る様になりたいのだが、失敗することでできない自分を再確認したくない。できた方がいいのだが、他人より上手くできないならば、あえて否定的な態度をとる。やりたくないという苦手意識が、体験からの逃避を生み、逃避することで苦手意識を更に強化してしまうことになる。できないままで満足したり、逃避したりすることで自己評価を高める子どもはいない。命というものは、無意味よりも意味を求め、停滞や低下よりも進歩の実感を望む性質を持っている。伸び盛りの子ども達はこの傾向が一層強い筈であろう。
できるということは、教科のねらいに基づく、「できる」だけではない。その子の身の丈で、できなかったことがやっと出来る様になる「できる」もある。今はできないのだけれど、「やってみよう」と思うことができたという「できる」もある。手遊びや私語など、学びからの逸脱行為をしないことができた、という「できる」もある。そして、反社会的行動をとる子どもに対しては、学びと社会の秩序を示し、学校卒業後に「できることの価値」に帰ることができる、育ちへの素直さが持つ価値を伝えておきたい。今の子どもの中で蓋が閉まっている文化性と素直さが、未来に開花することを信じて。「できるようになること」を信じる力こそ、子どもが伸びに向かう明かりであり、教師自身を動かし続けるエネルギー源なのであろう。
2013/10/1
|
220.「疑問だらけの協働学習-
対話・協働的な学習の課題と考共的学力の育成」の執筆
「協働学習にすると本当に学力は伸びるのでしょうか。その証拠はありますか」「あなたは教師ではないし、子どもの成績の責任をとらなくても済む。だから、協働やコミュニケーションなどという無責任なことが言えるのだ」「話し合いは上手く行くこともあるが、そうならないこともある。無駄な時間をかけるよりも安定した指導方法をとった方がいいのではないか」。
夏季にはこれまで伺う機会が無かった地域に行く機会が増える。講話の話題は「対話や協働、伝え合い、考え合う授業づくり」に関する内容が殆どだ。筆者は公権力を背負っている訳でもなく、教育学の権威でもない。従って、質疑応答では上記の様なシビアな質問を受けることも多い。
学習は個人的な営みであり、その成果も子ども個々に帰されなければならない。しかも、全ての子どもに安定した学力の向上を均等にもたらすべきであり、個人差が足枷になるような学習をすべきではない。グループ学習は労多くて益少なしだ。必要なことをしっかり教えて時間が余ったら、グループ活動をすればよい。話し合いは国語科でやれば十分なのではないか、そちらを優先すべき。
そうした意見は多くの場所で聞く。教師であれば誰でも、全ての子どもに安定した学力を育てたいという願いを持っている。ところが、「協働的な学び」はそうした願いを実現する上で、やや信頼感に欠けるのであろう。特に、進路指導や進学を控えた中学校や高校、塾などの補佐的教育機関の少ない地域では、こうした声を聞くことが多い。
・学者や研究者は「協働学習(協調的課題解決学習)」の効果を宣伝しているが、安定性や
実現性は高いのか。
・子どもの発達から考えると、基礎基本の修得を先に充実させるべきではないか
・協働は全ての子どもの実態に合っているとは言えない。対人的能力と学力は同じではな
い
・教科によって向き不向きがある
・一斉指導に個別指導を組み合わせれば、わざわざグループ学習をする必要はない
・協働学習や言語活動は現在の流行に過ぎない。個々の学力をしっかりと保障できる、個
を大事にした伝統的授業に戻した方が、全体として良い結果になることは明らかだ
・協働が効果的だという主張は、たまたま上手く行った事例を紹介しているだけで、一般
化できるものではない
こうした指摘や主張も伺うことがある。
そもそも子どもの発達や学習にとって「協働」はどんな意味があるのか。授業の中で「協働」を意識した実践をする必然性はあるのか。協働学習は本当に効果があるのか。更に、21世紀型学力と協働の関係、教科の学力と協働の関係は今後どうなるのか。実際の授業臨床の場で、協働学習が役立つのか否か。現在、これまで拝見した多くの授業研究から自問自答する形で執筆を始めた。「疑問だらけの協働学習-対話・協働的な学習の課題と考共的学力の育成」(仮題・9月刊行予定)がそれだ。協働学習を推進する側にある人は、確証バイアスがかかってしまい、協働にとって都合の良い情報だけが前面に出るという指摘も聞く。大事なことは協働学習そのものではなく、「子どもに育つ学力を見据えた授業を構想する」ということであろう。協働学習の指導ノウハウの捉え方や、授業の中での子どもの振る舞いや育ちから、協働学習の価値と意義を見つめ直してみたい。子ども達の未来から見て必然性がある、学びとは何か。真の未来志向、人間指向の授業づくりを考えてみたい。
2013/8/7
|
219.授業の腕を上げるコツ(若手の先生方へ)
「とにかく授業が上手くなりたい」。若い先生方と『夜の授業検討会(単なる飲み会です)』をしていると、必ずこの声が出る。教師は専門職者である。専門職に就く者は誰でも技能の上達を願う。医師であれ調理師であれ、職人であれ、「仕事の腕を上げたい」という願いを持っている筈だ。
だが、この願いは簡単には実現しない。腕を上げたいという意欲は大事だが、どうしたら腕が上がるのか。腕を上げる方法を見つけることはそう簡単ではない。前向きな態度、生真面目で一生懸命というだけでは、簡単に腕は上がらない。長く同じ学校の研修会に参加していると、比較的順調に腕を上げる先生もいれば、そうではない先生もいる。なぜ、この様な差が生まれて来るのだろうか。そのヒントが、他の様々な職人やエキスパートの生き方から見えてくる。
下の図は、私が新聞記者時代に、様々な職業分野のエキスパート88人にインタビューをした内容を分析してみたものだ。
①「問題意識を持った試行錯誤を継続する」
②「自分に適した練習の方法や、学び方を編み出す」
③「他者との協働を通して学ぶ」という三つがその共通点だ。
①は、自分の授業や板書を記録し、子ども達の反応から自分の授業を振り返ることから始まる。自分の授業のどこが弱点で、どこが強みで、どんなクセがあるのか改善点を意識化、順序化してみるのである。漠然と授業改善をするのではなく、何から、どこから手を付けたら良いのか課題を焦点化する。試行錯誤でその焦点化した課題と向き合う。Iという先生は自分の授業を録音したり、デジカメで板書を記録して見返したりすることにした。その結果、気が付かなかった子どもの考えとの擦れ違いなどが見えて来たという。更には、子どもら「先生はどうして授業を録音しているのか」と子どもから聞かれ、「授業がもっと上手になりたいからだ」と答えた。その言葉を聞いた子どもは、「先生ががんばっているならボクも頑張って勉強しないといけないね」と述べたという。思わぬ学びの遺伝が起きたということか。
②は勉強法の工夫である。「授業づくりが上達する本」など書籍を読んだだけではそう簡単に腕は上がるまい。Rという先生は本で読んだ内容を、自分の授業に置き換えてイメージするイメージ・シミュレミレーションを続けた。そのシミュレーションの中で気が付いたことをメモし、実際の授業で使ってみたりした。その結果、自分の授業のバリエーションが増え、子どもの意外な発言にも応えられる応答力が伸びたという。
③は言うまでもあるまい。いい教師はいい仲間を持っているということである。情報交換、切磋琢磨、共感などを通して、実技的な専門知は磨かれていく。①②③は教師を含めたプロフェッショナルになって行く過程での、必須事項なのかもしれない。だが、若手の先生方、あの憧れの授業をしているベテラン先生もかつては初任者だったのだ。焦って、憧れ、諦めず、教師道を歩んで貰いたいと願う。
2013/7/5
|
218.「丸呑み型授業と咀嚼型授業」
初めて授業を見始めた頃は、ただやみくもに記録を取っていた。逐語記録に机の配置、子どもがワークに書き込んだ言葉など、五感で感じたことを記録した。授業を見ても何を記録しておけばいいのかわからなったからだ。時々他の先生の参観記録をカンニングして、何を書いているのか知ろうとしたこともある。すぐれた先生の目の付け所を知りたかったのだ。
その後、授業づくりの鬼と言われたY先生に付いて授業を見る機会が増えた。Y先生は「おいしくする授業」という本の著者であり、教員、指導主事、校長、教育長という経歴を通して、一貫して授業づくりを追究した先生だ。「同じソースも続けて使うとまずくなる=効果的な指導法も使いすぎると飽きる」「香辛料は使いすぎない=色チョークは多用すると何が大事か見えなくなる」「コース料理は出す順番が大事=授業設計によって授業の価値は変わる」という様に、料理に喩えて「いい授業」を表現する先生だった。
「野菜を食べる量は一食50グラムでいいんです。多く食べても噛まずに急いで食べたのでは効果はありません。少なくてもゆっくりよく噛んで食べることが大事なんです」。NHKのテレビから、こんな声が聞こえてきた。声の主は、メタボ対策で知られる医師の様だ。「量は少なくても、よく噛むと栄養になる」。これを、学習に置き換えてみるとどうなるか。考えの面白さや価値を確かめながら進む授業は、咀嚼型の授業だと言えよう。一方で、とにかく内容をこなしていく様な授業は、早食い型の授業である。一時的にでも知識量を増やす、答えの出し方を丸呑みさせる様な学習だ。
かつて、91年に世界第一位だった理科(中学二年・IEA)の子どもが、その8年後大人になった時期に「社会人の理科学力の国際調査・PISA」で世界最下位に近い調査結果となったことがある。大人の学力低下は子ども以上に深刻な状況なのかもしれない。学力(知識)の剥落は「早食い型」の学びも原因の一端があるのではないか。一夜漬けをしたことは覚えていても、一夜漬で覚えた内容は覚えていないことが多い。PISAでは再び大人の学力調査を企画している。子どもたちに比べてどんな結果が出るのか。学ぶ力の身になり、学び続ける力の栄養素になる学びが問われている。
2013/6/4
|
217.肝心なことは“間人”で学ぶ
長嶋茂雄氏と松井秀樹氏の国民栄誉賞受賞が話題になっている。これほどの大賞が子弟同時に授与されることは珍しい。師弟同行が生んだ≪師弟同賞≫である。
松井選手は引退記者会見で「野球人生二十年の間で一番印象に残ったこと」を記者に尋ねられ、こう答えている。「やはり長嶋監督と2人で素振りをした時間ですかね。それが僕にとって一番印象に残っているかもしれないですね。」一方、長嶋茂雄氏の方も、松井選手への素振り指導について、セコム株式会社のホームページ上で回顧している。双方にとって、この素振り指導-練習はよほど印象に残る体験だったのであろう。
素振りとは松井選手にとってどんな学びであったのだろうか。そもそも素振りは、個人的な練習方法としての性格が強い。一流バッターは自室に素振り部屋を持つ者も多い。落合などは現役時代に、試合後のロッカールームや遠征先のホテルでも素振りをしていたという。バッティングは個人の技能を伸ばすのだから、個人で行っても当然効果は期待できる。が、しかし、松井氏の様に見守り、見なおし、見抜いてくれる指導者を得ることによって、個人練習としての素振りがより豊かなものになったとは言えまいか。バッティング技術の向上はもちろんだが、プロ打者としての「生きる力」になったのであろう。
知識や技術は個々が身に付けるものだから、個々の学びが何よりも大事だという。だが長嶋氏の指導と松井氏の学びの間に生じた、技能や知識の伝達は相互の関係によってもたらされたものである。知識であれ技能であれ、その習得は個に閉じる行為で万全となる訳ではない。肝心なことは人と人の間、≪間人(カンジン)≫によって学べるという側面もあるのではないか。人と学び合う、考え合う能力も肝心(間人)な学力だと言えよう。
そして、長嶋茂雄氏も松井を指導する中で、バットが空を切る音を聞いただけで、スイングの善し悪しや軌道がつかめるようになったという。これは、教える側も教える行為を通して進化する、成長するということを示している。授業中に「うまくこの内容を説明できないかな」と思考を巡らせているうちに「!」という、自分で自分を褒めたくなるような説明や指導ができたという経験は教師ならば誰でも持っているに違いない。そう、指導は教える側にも進歩をもたらす、学習者との互恵的学びなのである。それは≪師弟同幸≫の道なのだ。
|
216.増やす知恵よりまとめる知恵が賢い
-量的累加に迎合する世論と質的変化に賭ける教師、鵺化するカリキュラム-
かつて「未来を拓く公学力」という本の中で、「累加増加の一途をたどるカリキュラムの危機」という指摘をした。小学校英語、総合的な学習、道徳、コミュニケーション能力、対人的対応スキル、養育力教育、PSHE(Personal,
Social and Health Education:人格的社会的健康教育)などなど、どんどん学校が担う学習が増えるという予測をした。やがて、教師も子どもも肥大化したカリキュラムの重さにつぶされてしまうのではないかと懸念したのだ。
社会の中で、いじめや自殺などの現象が起きるとその現象に対応すべき対策の有無が検討される。検討された結果は、殆どが「必要である」と判定される。例えば、今回の道徳の教科化がそうである。こうして、○○は必要かという議論の後、学校に様々な教育の領域が持ち込まれることになる。私はこれを「カキュラムの鵺化」と呼んでいる。鵺は様々な動物が持つ能力や特徴を足した結果生まれた空想上の動物だ。サルの顔と頭脳を持ちタヌキの柔軟な胴体、トラの強靭な手足を持ち、尾はヘビで鞭のようにしなり、ニワトリの様な鋭い嘴を持つ。あまりに多くの特徴が加えられてしまい、何が特徴なのかすら判別できなくなっているのだ。
教育において原因と結果の因果関係は一対一ではない。原因が複雑であれば結果も複雑であり、単一の対策では効果が限られてしまう。しかし、授業時数を増やす(6日制にする、二学期制にする)=学力が上がる、指導内容を増やす=子どもの知識が増える、道徳を教科にする=いじめが防止できる、教師の研修や評価免許更新を厳しくする=指導技能が上がる、という見かけ上の問題=対策(成果)は一般的にわかりやすい故に危険でもある。教育課題の解決を世に問うと、一般的でわかりやすい考えが正論として認証され、学校に持ち込まれる。授業の実践技能の質や、各校による子どもと教師の関係性など量的に捉えにくい視点は見過ごされやすいのである。世論や伝統的でわかりやすい教育観が教育ヘゲモニーとして作用し、学校のカリキュラムをますます鵺化させていく。日本の学校教育はこの方向で進んで行っても大丈夫なのか不安になる。
現在の学校では限られた時間の中で「あれか これか」を選び、知識や思考力や子どもの自信をまとめて育てる授業ができないかと実践研究をしている先生方が沢山いる。「あれも これも」はある意味では誰にでもできる選択だ。増やすという行為を選択する知恵よりも、まとめる、統合する、融合させるという知恵の方がより高度な知恵である。時間と人手が限られている学校では、この「まとめる知」がより重い意味を持って来るであろう。社会科で登場する田中正造の中にも、国語の「大造じいさん」の中にも、教室の中の具体的な出来事にも道徳性は存在する。まとめる化、つなげる化で、持ち時間を有効に機能させようとしている学校の先生方苦心には頭が下がる。ハイレベルな学識経験者諸賢からも「まとめる知」を具現する方策を指南頂きたいものだ。増やす提言ならば誰にでもできる。
2013/4/18
|
215.長時間の学びと長期間の学び
-新任教師に期待する-
授業時数と学力の高さは一致するとは限らない。PISA調査をはじめ、いくつかの調査で学習時間と学習成果の不一致が指摘されている。授業時数の少ないフィンランドはPISA学力が高い。反対に、授業時数の多いフランスやイタリアのPISA学力は目立った成績を上げてはいない。だが、勉強時間数と学力の高さが直接結びつくものだと考える人は多い。筆者などは授業日数を増やすよりも、授業の質を上げた方が遥かに効果的だと感じているが、これとてすぐに現実化できる訳ではない。授業力を上げるなら“今でしょ”、という行動の積み重ねが必要になる。
時間はコストとしての性質を持つ。時間をかけたならば、それなりの成果を得る必要がある。時間ばかりかかって成果、効果が見えない様では学び手も学欲が持続しにくくなる。まして、ゲームで育ったスコア重視型の価値観を持った子どもであれば尚更である。攻略本を使いなるべく手間をかけずに、期待する効果を得る。手抜きをして合理的に高い成果を得ようという意欲は悪いものではない。そこに自分なりの工夫や創造性が見られれば、≪よりよく問題を解決する資質・能力≫の表れだと見てよいだろう。
だが、学びには「長時間」を必要とする内容がある。覚えて済むような内容だけでなく、覚えた内容を応用して、新しい情報を創っていく学びには時間がかかる。ドリルは数分で終えることができても、総合学習で“地域の特産物を生かして町の活性化を図る方法を考える”という学習を、手短に済ませることはできない。総合学習はコア・カリキュラム的な性質を持つ。コア・カリキュラムでは学習者に「もっと」という欲求が生じる。もっと時間が欲しい、もっと協力者が欲しい、もっと情報が欲しいというモア・カリキュラムでもあるのだ。
更に学びには「長期間」の学びという側面もある。成果が出る時も、出ない時も諦めずに学ぶ姿こそ「長期間」学ぶ学びであり、学力の常態化だともいえる。教師の授業-指導法研究などは、この部分が非常に強く求められる。この春、多くの新任教師が生まれたことであろう。いい授業ができるようになりたいという願望は皆共通だ。その願望を実現するには、教師自らが学びのモチベーション・リーダーであるべきだ。少々の停滞に一喜一憂しても、諦めずに学び続けて欲しい。その姿が、子どもにとって生きて働く指導力となるのだから。
2013/4/8
|
214.埼玉教育界の巨星から学ぶ-岩上進 橋本昭 藤井均-
「埼玉県には社会科四天王がいる」。かつての教科調査官平田嘉三氏(後の広島大学名誉教授)はそう語っていたという。その四人とは「岩上進氏(元全国都市教育長会長)」「藤井均氏(元埼玉県教育委員会教育委員長)」「橋本昭氏(元久喜市教育長)」「小久保忠勝氏(元川本町教育長)」である。私は、新聞社勤務時代に藤井先生、岩上先生、橋本先生と親しく接する機会を持つことができた。この三先生は教育的な知見洞察胆識と人生の師たる人格を兼ね備えておられた。
三先生が他の人々と異なっていた点は、私を一人前に扱ってくれたことだ。社内では学歴の低さゆえに長く認められることがなかった。それは、学業成績が低かった私にとっては慣れた処遇であった。ところがこの三先生はある意味で容赦なく、別の意味では温かく見守ってくれたのだ。子どもの頃より先生から褒められるという経験は持っていなかった。教師という権威への恐怖も強く、先生という存在、役割、立場を恐れる気持ちも強かった。だが、この三人の先生と出会って、私の教師観が変わったのである。
そんなある日、この三先生に同じ質問をしてみた。「仕事で自分の能力を超える様な難題に直面した時にどう対応するか」というのがその問いである。最初に岩上先生に尋ねると「陰の中にのみ陽が生じる」との答え。「先週、教育長会で秋田県に行った。そこで、郷土芸能の竿灯を見せてもらう機会を得た。ところが、その日はあいにくの強風となった。私(岩上先生)が、こんな強風では提灯が立たないでしょうと演者に言うと、この風でちょうどいいと言う答えが返って来た。風が来れば風が来る方向に向けて、若干竿灯を倒すことでバランスが保てる。無風が一番怖いということだった。授業も学校経営も教育員会の運営も同じだと感じた。問題、課題という逆風があるからこそ、戦略を立てることができる。つまり、己からマイナスを求めてプラスに変える気概が大事なのだ」との見解であった。
同じ質問を藤井先生に問うてみた。すると、「得意になるまで取り組むこと。意味を見い出すまで諦めないこと。難題が難題のまま嫌いになってしまうのは、好きになるまで問題を見いだしていないからだ」という。「県庁に居た頃、大きな仕事上のミスを犯した。それも自分の不得意な分野の仕事であった。そのミスを挽回する策を提案するために、必死でその分野の知識、事例、法規を調べた。やがて代案も提案することができ、苦手だった分野が得意になってきた。他人よりもその分野に自信が持てる様になったのだ。校長時代に生徒の命に係わる事故が起きた時も同じ様に、誠意と学びで活路を見いだすことができた。好きになる、得意になるまで取り組むこと。それが難題に対応する策である」との答えであった。
更に、同じ質問を橋本先生に問うてみた。「俺は仙人ではない。だから、岩上先生や藤井先生の様な神様の様な対応はできない。難題に出会った時は、ただ逃げぬこと。退路を断つ決意を持つだけでいい。最初に校長を務めた学校は、荒れの頂点を極めていた。毎日が生徒、保護者、警察、地域との対応に追われた。校長室には父と岳父双方の写真が歴代校長として飾られており、毎日この写真から叱責されている様な思いがした。いたたまれぬ思いから、学校を立て直すまでこの写真はしまっておくことにした。本当はこの難題、困難校から逃げたいという気持ちもあった。しかし、退路を断って、問題に向き合うことで徐々に学校は立ち直った。問題から逃げようとした途端に、問題は悪化する。だから、逃げぬことが大事だ」という答えであった。
この話を当時の埼玉県教育員会義務教育課長の浅見昌之助先生(元秩父市教育長)に話すと「三人の答えは異なる様だが、問題から自分の道をそらさぬと言う点で共通である」と更にご指導を頂くことになった。三月末になって、「○○教育委員会課長を拝命、○○学校校長を拝命」という知らせが多く届くようになった。次の職で難題に出会おうとも、そこを切り抜けることで実りある活動を展開できるよう願うばかりである。
※その後、嶋野道弘先生(元主任視学官)や吉澤泰而先生(元鶴ヶ島市教育長)小川征夫先生(元松山第一小校長)長谷部勝呂先生(元大宮南中校長)本郷安先生(元植竹小校長)などから同じ様に、多くの指導と激励を受けた。感謝感謝である。
|
213.静岡県校長会の挑戦―教育の実践哲学を創造する組織―
自己実現は他者実現と隣合わせている。自分の使命なり夢を達成しようとすれば、他者と共に“結果の形成に参加する活動”が不可欠となる。人間一人が持つ可能性が大きなものであることは認める。その可能性を更に拡張する仕組みが、組織的協働だ。だが、組織の協働性を高める為には、情報と問題の共有が必要である。グループ学習であれ、医療行為であれ、企業活動であっても問題の共有が組織力を発揮させる要であるという点は同じである。
しかし、受け売りの情報や外部から解決を強要された問題は、他人事の課題になってしまう恐れもある。問題を主体化できなければ、解決は具体化しない。問題の主体化とは、問題を自分化するということだ。では、どうすれば問題を自分化できるのだろうか。最も確実な方法は、“自分で問題を創る”という方法である。研究紀要の「今後の課題」を書く行為によって、課題が自分の問題として一層リアルになったという経験を持った方もいるのではないか。血液が体の隅々にまで循環する様に、組織全体で情報や問題を共有する。問題や情報を組織化するには、組織として問題を再構成してみるとよい。
問題とは即ち哲学である。哲学とは、何を対象として捉えているのかという「価値観」だ。教育という複雑な組織活動を束ねて行く為には、原点としての哲学を確認する必要がある。しかし、学校での教育活動は多様であり、そこに関わる人々も多様である。だからこそ、組織的に哲学を構成し、個と組織で共有していく試みが必要なのであろう。哲学の共有こそが実践的現状という今と、より望ましい結果という未来をつないでいくのだ。この“つなぎ”の実態を具現という。その試みの具体事例が「新たな学校教育の創造と具現Ⅳ 静岡県校長会研究構想委員会 編」である。
A4版50ページ弱の冊子だが、その中身は濃い。目指すべき理想的な教育の姿を示すだけでなく、授業実践の事例分析や学校経営の具体的な事例も紹介されている。知識基盤社会とは即ち学習基盤社会である。この学習基盤社会の中で、子どもに何を教え、職員と共に何を追及していくのか。説得力と希望にあふれる筆致でまとめられている。校長会という管理職の組織が、ここまで授業や指導の実践を取り上げた冊子を編むことは珍しい。同じ校長職にある者は勇気を、ミドルリーダーは希望を、教師はこれからの授業の可能性を感じることができる一冊だ。
「学びの遺伝子を覚醒させ、学校を卒業しても“学びを卒業しない学び”を学ばせる学校とは何か」ということを考えさえ、未来を見据えた今を捉える刺激に満ちた冊子だ。 2013/3/2
|
212.学習の総合性を見つめる
“総合的”という言葉は便利な言葉だ。漏れなく包括的、網羅的な印象を与える表現である。総合病院というとどんな病気、患者でも対応してもらえそうな印象を持つ。一方で“総合的”という言葉には曖昧な印象もある。総合的であるが故に、意味-対象を焦点化しにくい。具体性に乏しい印象を受けてしまうのだ。総合的な学習導入の時もそうであった。
教科を総合するのだ、教科横断的に総合的な領域を教えるのだ、総合的な課題を与えるのだ、総合するにはその基盤が必要だから教科学習を先行すべきだ、という様に談論風発を誘因した原因も、“総合”という言葉の曖昧さにあったといえよう。総合的であるが故に、何を教えればいいのか捉えにくいという印象が、総合的な学習導入初期にはあった。いや、今でもあるかもしれない。
しかし、この世の中の事象現象は、そもそも総合的な性質を持って存在している。身の回りの情報や、日常生活での対話には、「国語」「歴史」「物理」などと言うインデックスはついていない。今、こうしてこの文章を読んでいる時は、国語を使っているのか、それとも教育学を使っているのか、あるいは別の知識を使っているのだろうか。教科外の「批判的思考力(クリティカル・シンキング)」という思考力を使っているのかもしれない。
人の知的活動とは、そもそもが総合的な相関性によって成り立っていると言ってよい。理科だから国語を除いて、純粋な理科だけを教えるという訳にはいかない。これは、脳の構造や機能にも似ている。脳は多様な部位が連携することによって、一つの行動なり表現を生み出しているのだ。総合的な機能は総合的な関係の変化によって成り立っている。複雑な世界を思考の対象にすることを可能にしている理由は、脳内の総合的で相互連携的な働きにあるとも言えるだろう。人の学びや思考が総合的な性質を持っているが故に、教科の様な特定の窓口からでも学習が可能になるのだ。脳の総合性によって、教科という便宜上分けられた知識を智識に組み込んでいけるのである。
MITのピーター・センゲはこれからの世の中を生き抜いていくためには「システム思考」が重要だと指摘している。システム思考とは「事象や情報の背後にある構造的相互作用を見つける力」だという。物事の背後には総合的で相関的な要因が潜んでいる。表面的にはそれが見えないだけだ。そして、センゲは「子どもはシステム思考の達人だ」とも指摘している。子どもは物事を関係付けること、関係づくる(関係を見いだしていくこと)ことに長けていると言う。知識の構造に依存するのではなく、考えることによって既習知識の次元を超えた智識を生み出していく。子どもの思わぬ発言に意外な真理を見つける。そんな経験は誰でも持っているのではないか。全てがこの種の学びで完了する訳ではない。だが、学習の総合性、学力の総合性、人の思考の総合性を欠いた学習は、教育であっても学びにはなり得ないだろう。 2/27
|
211.『リアル授業力』を伸ばす研修
例年この時期になると、学校からある種のメールが数多く届く。内容は翌年度の校内研修について相談メールである。今年度までの取り組みの概要がまとめられ、今後の課題が示されている。日頃の忙しさの中で、よくぞここまでと関心させられることもある。
校内研修のテーマは学校によって様々だ。共通している点は、指導方法の工夫改善に関わる研修主題を掲げている学校が多い点だ。近年は、つなげ合う授業、響き合う学び、小集団学習の導入、話し合い考え合いを取り入れた授業など、「相互思考型」の授業づくりに関する研修課題を挙げている学校が増えた。ここ10数年を振り返ると、総合的な学習の時間への対応、個に応じたきめ細かな指導、基礎基本の定着、
伝え合いや学び合いを生かした指導と、人気の研修テーマは変化をしてきた。だが、テーマが変わっても変化しないものがある。それは、研修によって齎される変化の作用点だ。その作用点とは「教師の指導技能」だ。一般的に言う「授業力」である。
この授業力がなかなかの難物だ。捉えどころを定めにくいのだ。その定義も多様である。「教材理解」「現状把握能力」「子ども理解力」「使命感と情熱」など構成要素も多様だ。更に、それらの要素が単独で機能している訳ではない。では、授業力、指導技能の向上を研修の対象にすることは出来ないのだろうか。授業力は捉えにくいが、授業のその場には必ず存在しているはずだ。捉えにくくても存在しているからこそ、「○○先生の授業は」と表現されるのだ。また、研究授業後の検討会も成り立つのである。これは、『技は人に付く』という性質を示している。研修の本質的目的は「指導技能の熟達化」であり、進歩の実感が実践者の研修意欲を高める。そして、子ども達の学ぶ力、生きる力を伸ばす上で重要な資源になって行くのであろう。指導法や教材の開発も大事だが、それを使いこなす「リアル授業力」を伸ばす研修を構想したいものだ。
体験を通して身に付けた力は、実践力として発揮できる力として身に付く傾向がある。だからこそ、リアルな授業を材料にした授業検討を大事にしたい。そして、リアル授業から指導技能の価値を見つけ出し、共有化、共用化を目指して行きたいものである。多様な対象、状況から学べる者こそ、学びのエキスパートなのだ。
2013/2/7
|
210.教育再生は授業(教室)から始まる-教師こそ教育改革の主役-
新政権になり、教育再生実行会議が新設された。新設というよりも、安部、福田政権時代の再生会議、再生懇談会の復活といってよいだろう。教育の進歩を促すというスタンスは評価すべきだ。だが、肝心な点はその中身である。前回の再生会議によって、ゆとり教育からの転換や、PISA調査の結果に基づく学力の向上、教員免許更新制などに教育界が向かうことになった。その結果が良い成果を収めているか否かは、読者の判断に委ねたい。
教育の再生と言うが、どの時点に向かって教育を再生しようとしているのだろうか。まさか、首相自身が育った時代に主流であった行動主義的、量的、機械的教育に向かって再生しようとしている訳ではないと信じたい。レーガン政権時代に行われたアメリカ教育のバック・トゥー・ザ・ベーシック(基礎基本に返れ)運動にも似ている様な気がする。だが、知識の基礎基本は時代と共に変化しにくく、必要な能力や人間に関する科学的知見はどんどん変化する。故に、教育は常に未来志向でなければならない。再生というよりも、脱構築と再構築を巡るサイクルの中で、より確からしい方向性を出していく。そうした、哲学的啓蒙性を提示できる会であってこそ、価値ある会となるのであろう。
だが、教育のベーシックは、知識の基礎基本だけにあるのではない。実際の教室における活動の実態こそ、教育の具体的ベーシックである。どの様な高邁な主張も、教室で実践するという行為を経なければ虚構の知に過ぎない。高度なカリキュラムを作る、一貫性を持たせた教育制度を作る、教える内容・時間・領域を増やす、より高度な内容を教える。だが、それを実行する教師の指導技能(ワザ)が無ければ、F1レースに素人ドライバーを乗せる様なことになる。組織、作戦の内容、設備は万端でも、最後はドライバーの技量で全てが決まってしまう。だからこそ、教師や子どもの学び甲斐、育て甲斐が充実して行く様な本質主義の教育改革を求められるのである。
そして、本質的かつ具体的に教育を改革再構築できる立場にある者は、教師である。明日の授業をどう変えようか、あの子の良さをどう伸ばそうか、どうやって周りに広げようか。この意図性、念頭性、哲学こそが具体的な教育改革を生起させるのだ。実行という最高権限を持つ先生方の力こそが、今日の教室に教育の革命を起こすことができるのだ。
|
209.「学級協話国を創る―学習と成長が出会う文脈―」
◎新語による意味の拡張
今年の「新語・流行語大賞」を受賞した言葉は、「ワイルドだろぉ」であった。お笑い芸人の決め台詞らしい。だが、この言葉だけでは何がワイルドなのかさっぱり見当がつかない。主語抜けの疑問文に応えることは難しいのだ。筆者は、この芸人の話芸を聞いたことはない。おそらく、なにがしかの状況説明の後に、件の流行語が発せられるのであろう。ここ数年の流行語大賞を顧ると「ゲゲゲの」「アラフォー」などいう言葉が見つかる。マンガを知らぬ人や、省略語を知らぬ人にとっては意味を推測することすら難しい新語だ。こうした新語の特徴は「関連性の変化」にあると言えよう。「ゲゲゲの」という言葉が新たなTVドラマの出現によって、これまでとは違う意味を持つ様になる。「ワイルド」という言葉が芸人の新たな使用文脈によって、特殊な意味を帯びてくる。
言葉は文脈性や状況性が変化すると、意味も変化するという特徴を持つ。例えば、「魚が好きか」と問われたとする。食材としての魚を問われているのか、それとも釣りの話題の中で発せられた問いなのかによって、問いの意味は変わる事になるだろう。言葉は辞書的な客観性だけでなく、状況や社会的文脈によって意味が変化したり拡張されたりしていくのである。ここにコミュニケーションの難しさがあり便利さもある。やや曖昧な言い回しでも意味が通じるのは、状況性や関連性、文脈性から受け手が意味を構成していくからであろう。近年注目されている語用論や関係性理論なども、こうした“生きた言葉”を研究しようとしている学問だと言えよう。
◎主観的知識による客観知の再発見が理解の本質
授業の流れの中でも子どもが考えを交流し合う活動によって、その授業世界固有の考えが生まれることがある。例えば、ある子どもが考えついた方法を「●●ちゃん方式」と教師が名付けることがある。固有名詞である子どもの名を冠するということは、学問的客観性からやや外れることを意味する。算数の授業で生まれた「●●ちゃん方式」を数学事典に載せることはできない。だが、教師は子どもの考えと、教科的な知識の接点を掴んで、敢えて「●●ちゃん方式」と言う表現を使うのである。最近誕生した「アベノミクス」なる新語も、いずれは経済用語になるやも知れぬ。
時々、“話し合いで、教科の学力が伸びるか”という疑問を聞く。その声は、教科としての意味的客観知と、子どもの対話で生まれる主観知が結びつかないのではないかという不信感から生まれてくる。だが、主観知や既知に、新しい知識が結びつくことで理解が生まれるのである。「分かった!」という子どもの声は、覚えた!という意味ではない。思考を経て、既知の知識と関係付いたという意味を持つのだ。但し、机上のテストという文脈と、対話で知識を獲得するという文脈には違いがある。対話で学んだことを、机上で確かめるという点に課題がないかどうか考えてみる必要があるだろう。どうしても学びの出口が机上に絞られるのであれば、その点を見据えた指導も必要になる。但し、机上だけが重視されると、文脈抜けした受験的お勉強の要素が強くなるだろう。
また、異質の意見を持つ者と関係を通して学ぶという行為の意味も問われるべきであろう。考えや気が合う他者とだけ付き合って生きていくことはできないからである。協働的な力を対話的実践によって身に付ける。そうした、≪学級協話国≫を創り合う環境の中でこそ、学習と成長が出会うことができるのだろう。
◎授業づくりにおける対話と指導
子ども同士の対話が増えると、予定通りに授業が進まないという話を聞くことがある。「対話を生かすための授業設計」「子どもの対話力の現状を踏まえる」「その授業運びで、育てたい学力、能力を描く」「教科書をどう使うことで、対話と学習の成果を結び付けるのか」「子どもが授業の中でどの様な既知を表現し、そこから子どもたちが何を関係付けて行けそうか」等を念頭に置かねば、対話という流動性の高い授業を動かして行くことは難しいだろう。対話は流動的であり、常に予定調和的に進む訳ではない。故に、学習のパターン化や指導技術のハウツー化だけでは、現実の対話的授業に臨んで刃こぼれしてしまうということが起きる。だが、指導形態や内容の系統性、子どもの対話が持つ特徴などを押さえておかねば、言語活動などは実践が難しいであろう。
極度の形式化を避けつつ、柔軟に対話的授業づくりを進めていく要点を「適度に形式化する」。そこから、授業を応用的に展開していく。この要点をまとめた本が、新年に発行する「コミュニケーション能力を育てる授業づくりの秘訣」-話すこと・聞くことの具体的指導法とアイディア-」村松賢一 編著 である。
何をどの様なねらいに基づいて、どう指導するのか。教科書の使い方、子ども達の学齢ごとの言語力の特徴、指導内容の系統化、具体の授業における指導のポイントを、柔軟性・応用性・実用性を持たせた緩やかな形式化で押さえてある。いわば、指導要領と教科書を対話型授業に具体化する、授業の取り扱い説明書である。『「学習指導要領に準拠しつつも、コミュニケーションの類型論を踏まえ、各学年で重点的に育成すべき対話能力を絞り込みました。」「よい事例から学ぼう」と言われても、実際は教科書教材に頼らざるを得ないのが多くの現場の実情です。そこで、「今使っているこの教科書でコミュニケーション能力をどうつけるか」という観点で1項を立て、留意すべきポイントを具体的にまとめました(筆者)」』
コミュニケーション能力育成型授業の指導者として知られる筆者の経験・見識・ノウハウが実用的観点でまとめられた一冊である。言語活動を活かし、子どもの思考を活かすヒント+実践例を是非参考にしていただきたい
|
208.「発問」という説明、子どもという「教材」
発問は授業のづくりの要であると言われて来た。かつては、一授業内での発問は三回までという、回数制限をした指導者もいたと聞く。なぜ、回数制限をするのか。それは、子どもの思考を焦点化させ、子ども達自身によって考えを創らせようとするからである。
効く発問を行うには、教材研究-解釈の深さが問われることは言うまでもない。先日もある小学校で、「教材解釈が変わると、どのように発問が変わるのか」というテーマでワークショップをして頂いた。その場で、まだ経験の浅い教師がベテラン教師の教材解釈を知り、その奥深さに驚いていた様である。だが、教師にとっての教材は書籍の中にある知識だけではない。子どもの洞察も、教師にとっては発問の教材なのである。どの程度の難易度にするのか、どのような発問構成にするのかという配慮は当然だが、子ども達と教材-内容の力関係によって発問の質は違ってくる筈だ。授業中に発した問いに対して返ってきた子どもの応えによって、次の問いかけも変わってくる。子どもたちの多様な応え、時によっては意外な応えも、発問を学ぶ教材だと言えるだろう。
発問は「発問(教師が投げかけた問い)受問(子どもたちが受け取った問い)創問(子どもたちが自分達の内に構成した問い)」という三つの段階がある。特に大事な点は「受問-創問」を繋ぐ線だ。子どもが問いをうまく受け取れない原因は、集中力の欠如や、問いの難度に起因すると言われる。しかし、教師のコミュニケーション能力や説明力も、発問の効きを大きく左右する。「なぜ、豆太は一人で医者様のところに行ったのか」という問いに対して、「歩いて」と答える。こうした、問い違いは「子どもはもうこのくらいのことはわかっているはず」という、診立て違いから起きることが多い。
中学校などでも集中度の低いクラスや理解度の差がある学級ではこうした状況に出会うことがある。「発問内容の説明力」や「発問に至るまでの授業の文脈を確認できる板書」など、教師の情報説明力が発問の効きを決める。考えてみれば、発問も言語であり、指示命令も言語である。子どもの状態を見極め、子どもに通用する説明力で語りかける。短く簡素で、子どもの思考の射程を外さぬ説明力ある発問を心がけたい。職人が職人のレベルを知ろうとする時、相手の道具の使い方で判断するという。教師の仕事道具が言葉だとすれば、なるほど、である。12/10
|
207.思考力と活用の基礎知識-学習の先攻後攻
様々な文章の中で、「基本を習得させてから、活用、思考に繋げる」という記述を目にする。校内研修でも、基礎基本と思考力の関係について尋ねられる時、この前後関係が話題に上ることも多い。≪学習では、先に知識の基礎を必要とし、その後で応用する。従って、学習の順序としては知識の習得が先であり、活用や探究は後攻の学習となる。≫こうした、基礎基本→応用・活用という、“段階的学力観”はどこに起源を持つのだろうか.。
一つは、何事も基本から応用に進むことが原則であり、建築と同じという構造的学力観だ。土台が盤石に形成されなければ、先へは進めないという考え方だ。もう一つは学習転移モデルという、漸次的学習観である。知識は、まず誰かが発見し、次に知識を伝達された人が別の人に教え、教わった人がその知識を応用するという考え方だ。このモデルは、知識を教える人と、教わって応用する側に分かれている点がミソである。伝える教師から教わる子どもに向かう、学校型の指導形態と非常になじみがよい。
この他、ホリオークらの知識の応用実験や、キャッテル等の「流動性知能」と「結晶性知能」という知能区分によって、基礎と応用の関係が補強されるイメージが広がった。この学習観は「人間の知能には二つの種類がある」という知能観、あるいは「そもそも知識は構造的である」という知識観、もしくは「基礎と応用は別のものであり、基礎を教わってからでなければ応用問題は解けない」という、問題集型の考え方に起因する様である。言語の学習などでも、「知らない言葉は使えない。だから、先ず語彙を教え、習得させてから文章を書いたり、読解したりする学習に進むべきだ」という主張がある。これも、基礎先攻、応用後攻の学習観に立脚する考えだ。
しかし、もしそうだとすると「応用する力の基礎」「探究する力の基礎」はどの発達のタイミングで学ぶのであろうか。低学年が基礎基本で、中学年が応用で、高学年が活用を学ぶのだろうか。例えば、“基礎的・基本的な知識及び技能を習得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力等を育てる”という場合、思考と密接に関係する言語活動は、応用や活用でしか学ばせることができないのであろうか。
本来は、上記の図の様にそれぞれの学年・年齢が「習得-活用-探究」を対流的に学んでいくのであろう。低学年も習得や基礎だけでなく、活用や探究の要素の基本的な能力を内容を通して学ぶ。高学年も活用的な学びの中で基礎の知識に立ち返ったり、基礎的な能力を使ったり、場面によっては更に高度な能力を使って学ぶ場合も出てくる。
・思考力という観点に振り回されず、その重要性を認識しつつ授業に生かす
・発達段階のひな形(そもそもひな形があるのかどうか)ではなく、目の前の子どもの成長-個性-特徴を掴んで指導に生かす
・言語活動を狭い部分に押し込めず、教育活動全体の中での価値を再確認する
・評価がしにくいから、授業構想ができないということではない。実践があって評価がある
・知識・技能と、思考力は、育つ速度や環境状況が違うことを考慮した指導と評価が必要
というのが、思考-言語-基礎-活用の関係なのではないだろうか。
論壇の203でも書いたが、活用できる形で知識を身につけるということが大事なのであろう。活用能力の基礎基本を学ぶ。活用能力の基礎とは、活用できる形で基礎知識を身につけることを意味する。子どもの学ぶ様子を実際に見ていると、問いや探究欲や理解欲に支えられた活動の中で、習得や活用が生起していることがわかる。そろそろ、習得が先攻で、後攻が活用だという知識観・学力観から脱皮してもよいのではないか。先攻後攻が繰り返されて、一つのゲームになる。子どもの状況と学習内容との関係から、習得から探究をつなぐ対流的な学びを構想する。様々な学びのバリエーションの中で言語や考えを使ってこそ、真の「実践的知性」が育つのではないだろうか。2012/11/19 |
206.経験は努力を継続している人にのみ作用する
経験主義という言葉がある。だが、この言葉は『特定の主義とは言えない面』も持つ。経験主義者という自己認識を持たぬ人でも、経験に左右される。それが人間というものではないか。合理主義者も合理主義者になるだけの経験によって、合理主義者になったのかもしれない。
経験主義というと、どこか感覚的で、曖昧な雰囲気を感じる人も多い。主観性が強く、客観性が低い。そうしたあやふやなものに頼って、判断を下していたら危険だという人もいる。経験的という言葉を英語に訳すとempiricalとなる。この言葉の語源はギリシャ語で、「試みること+内側に取り込む(en
+ peira )」だ。試行錯誤を通して、身に付くという意味である。これは、学習の王道を示す言葉とは言えまいか。
昨日、O市の公立校長会で話をする機会を得た。テーマは、「難題化する学校経営の課題と打開」である。もとより、私は学校経営をした経験を持たない。しかし、これまで訪問した二千数百校の校長室で体験した、不測の事態や事件への校長の対応から学ぶことは多かった。突発的に校長室に持ち込まれる事件や事故や報告。その時、校長はどんな決断を下したのか。こうした決断に必要な資質や、共通する視点がいくつかある。危機管理をする場合の定石がそれだ。ここでは、その具体には触れない。しかし、更にその時の校長の姿を想起してみて感じたことがある。それは、「見事な決断は、継続した熱意と努力からしか生まれない」ということである。
過去にどれだけ輝かしい成果を残せたかどうかは関係ない。確かな決断を下した校長に共通する一つの点は、「今学びゆく者である」ということであった様に思う。経験を生かすというが、どんな時に経験が生きるのだろうか。いや、時を選んで経験が生きるのではなく、人を選んで経験は生きるのではなかろうか。件の校長先生方の姿を想起しているうちにこんな言葉がふと沸いてきた。『経験は努力を継続している人にのみ作用する。』過去の経験は大事だが、それを生かせるか否かは、今の私の有り様にかかっているのではないだろうか。今日の学びを見つめ続ける自分であること。先輩方から感じさせられた自戒の言である。 11.1
|
205.教師の実践的専門性を信じる
「私達は、教科的な知識や専門性が高いとは言えない」「もっと高度な専門的知識があれば自信を持って指導できるのですが」、という言葉を研修などで聞くことがある。しかし、教科的な専門知を所有していれば、子どもがわかりたくなる授業やわかりやすい授業は可能になるのであろうか。私は先生方の中に、教師ならでは素晴らしい専門性が潜んでいると考えている。理論という一筋縄だけでは手に余る、リアルな状況をマネジメントする実践的な専門知が教師の中に存在している。
授業で先生方の知識を観察していると、四つの知識領域がある様に感じる。
①実践的実践知
②実践的論理知
③論理的実践知
④論理的理論知
の4領域がそれだ。実践的実践知は授業中の具体的な文脈で発揮される知識である。ショーンの言う省察的実践力もこの種の知識を核とするものだろう。子どもの発言が止まる、集団の考えが空回りする、あるいは子どもが先に答えを言ってしまう。そうしたリアルな場面で実践的に駆動する能力が実践的実践知だ。実践的論理知とは、教師が過去の生活体験から組み上げた指導のノウハウ―ノウザットの総体である。≪こういう躓き方をしたときは、こんなアドバイスが功を奏す
≫という様な、主観的論理に基づく実践知である。論理的実践知とは、基礎学力を高めるには忘れる前にもう一度復習させることが重要だ。なぜならばエビングハウスの忘却曲線を見てわかる様に、忘れる前に再生させることで知識が定着するからだ、と言う様に学術的論理性を伴った指導知だ(ただし、忘却曲線理論が学力の定着について実用できるかどうかは疑問だが)。そして、論理的理論知とは客観化された(様に見える)教育的知識である。言語は知識の源泉であるから、まずは言語的知識・語彙・概念を習得させる必要がある。認知科学では人は他者と協働で学ぶ方が学習効果が高い。これらの論が正しいか否かは別だが、客観的で確からしい教育知が論理的理論知である。
①は教師の主観的知識に主軸を持つ知だ。③④はより客観的な傾向を持つ知である。問題は、①②と③④が実践において調和しない場合があるということだ。繰り返すと覚えるという場合もあれば、繰り返して嫌いになるという場合もある。具体的実践では、教材と子どもとの距離、情緒的な変化という複雑な要素を即時に洞察して指導をして行かねばならない。そうした状況では③④に頼ることができない場合もある。①②は教師の主観的な知識である。だが、この主観的な知識の中に教師の専門性が息づいている。③④は一般化された抽象性に支えられているが、①②は実践的経験の省察に基づいている。専門性として捉えるならば①②は実践的専門性であり、③④は抽象的論理的専門性である。論理theoryは
語源はギリシア語のtheoria(=実践を伴わない静かな思索)が語源だ。授業中の指導知は動的であり、状況に応じた専門知だと言えよう。①②は実践的実践者にとってより使い手がよく、③④論理的理論家にとって使い手がよい知識だともいえる。二つの知は上下関係で位置づいている訳ではない。相互に互いを位置づけ合っているのであろう。動的相互関係にある。互いが互いを構成し合っているのだ。
複数の個性的な小学生に分数を教える状況では、フィールズ賞を獲った様な大数学者よりも教師の指導が勝る可能性が高い。そこに教師固有の専門性と学問的専門化の専門性の質の違いがある。 しかも、実践知は系統的構造性を超えた構成性を持っている。子どもとのやり取りを通したり、他の教師の授業を見たりすることによって、自己構成―拡張していく知が実践知の特徴である。状況を経験する行為を省察することによって、教師自らの指導地知を構成―刷新していく。その不断の刷新力のこそ指導技能の向上に繋がっているのではないだろうか。①②③④は教師の中で関連熟成することで指導技能の高次化が進んでいくのである。秋のシーズンは各校の研究発表が数多く開催される。教師の持つ実践的実践知―理論知を理解共有しつつ、学び合って行きたいものである。
2012/9/13 |
204.「協働学力」の認識と教育の目的
「協働学力」とは筆者の造語である。協働は教科のねらいを達成するための手段だ。あるいは、教育効果の質を高める指導の技法および方法であると言われてきた。しかし、協働は本当に手段に過ぎず目的にはなり得ないのか、という問いから書き下ろした本が「協働学力」であった。かつて(現在でも)、東京都下のある小学校が定着させたい学力として「協働学力」を掲げ、実践的研究に取り組んだhttp://higashimurayama.ed.jp/e06-hagiyama/01koutyou/08kaizen/kaizen.html。
この学校では「協働で知識を運用、獲得、課題解決に用いることができる能力も、実現させるべき学力だ」と捉えたのである。つまり、協働学力の育成を「目的」の位置に置いたということになる。考え合う力、学び合う力も学力の一部であると考えたのだ。客観知と主観的知識を分けて捉えるのではなく、相互主観性によって生じた知識の拡張が客観知と結び付いていくという考え方だ。こうした学び合いの場では、学び合いの結果得られた客観知も、学び合う過程で得られた考え合う能力も実現すべき学力に位置づくのである。
言語活動や協働は教科学力実現の手段であり、目的ではないというがそれはやや偏った見方である。協働的な探究や考え合いは「A教科的な知識」「B他者と協力して考え合う力」というAB双方の学力が同時に駆動することで成り立つ。A学力が目的であり、B学力が手段であるという考え方は、思弁上の区分けに止まる静的な考え方である。「子どもは様々な対象や環境との遭遇によって主体の傾向を呼び起こす。この回路を切断して、対象と主体、目的と手段を分けてしまうと、本質的なことが分からなくなる」とは60年も前のワロン(ピアジェの論敵)の指摘だ。
問題や状況をわかりやすい要素に解体すると、形式上は序列化・構造化できた様に見える。だが、解体されて再構造化された知が正解に近いという保証はない。ワロンは「わかりやすさ自体が持つ危険性と落とし穴」を指摘しているのだ。
先ごろ、中央教育審議会が「教員の資質向上策について」答申案を公表した。この答申案の記述に興味深い点がある。子どもに育てるべき力として「これら(学力や思考力、多様な人間関係を結んでいく力)は、様々な言語活動や協働的な学習活動などを通じて効果的に育まれることに留意する必要がある。」と指摘している。ここでは未だ方法的な次元で言語活動や協働が捉えられている。だが、多様な人間関係を結んでいく力は、座学や説明だけで育つ可能性は低い。協働的な学習活動が重視される理由はここにある。また、教師側にも「同僚と協働して困難な課題を解決していく能力」が必要になると、答申案は指摘している。いずれにせよ、教育における「協働」の価値は一層高まっていると言える。
こう考えてみると「他者と協働して考え合う能力(協働学力)」は、全ての学習(研修)活動を通して伸ばすべき実践型能力だと言えるのではないか。知識の習得や活用ができる能力と他者と協働で考え合う力は連星の様に相互構成される学力なのであろう。前後関係や序列関係を超えて、相互構成的にAとBの学力を捉えたい。ワロンの指摘した認識の落とし穴に落ちぬ様にしたいものだ。
2012/8.29
|
203.子どもの目から見た「習得・活用・探究」
「習得した基礎基本をベースにして活用ができるのだから、思考や判断という活用の学習は基礎基本の習得ができていないと難しい。活用や応用が大事なことは解るが、やはり基礎基本の習得が子どもにとって一番大事なのではないか。」ある中学校の研修会でこんな意見を頂戴した。理屈で考えれば全くの正論である。だが、果たして本当にこの考え方だけで学習は成り立つのであろうか。
この発言の根底にある考え方は「学習転移モデル」である。「①まず誰かが(ニュートンが引力を発見した様に)知識を発見し→②有識者や教師によってその知識が伝達され→③教わった者がその知識を習得し→④得た知識を応用する」という考え方(学習観)だ。この考え方は古くから存在し、現在の指導要領などにも一部受け継がれている。「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させる学習があり、次に「思考力・判断力・表現力等」を身に付けさせる「活用や言語活動」学習活動を行うという考え方だ。基礎と応用の構造が学習の構想と同様になっているためである。
ここで注意したい点は、「基礎基本の知識技能=習得的な学習」「思考力・判断力・表現力=応用・活用的な学習」という、学習活動と育てる能力が段階的かつステレオタイプな形で繋がってしまっている点だ。実際に多くの学校では単元設計にしろ、指導計画にしろ「習得→活用」という順序構造で学習が設計されているケースが多い。無意識無批判のうちに習得から応用を目指す、学習転移モデルを学びの原型にしている恐れがある。「学習転移モデル」は構造的で理論化された知識(基礎から高度な知識に向かって順序だった知識)の獲得には有効な場合がある。しかし、思考力や判断力、実践的な修辞能力、あるいは意欲の様な面は必ずしも系統的で順序だった構成で存在するものではない。こうした能力を育てる場面では、順序良く学ばせたというだけでは不十分な場合が多い。習得を待ってからでは、子どもの発達要求に間に合わないということもある。身に付けてから使うという段階的に整理された形ではなく、使いながら身に付けるという状況実践性が子どもの学ぶ力の本質ではなかろうか
。
先日拝見した授業でも、原子力の利用についての話し合いで、見事に意見を発展させていく子どもたちの姿を見た。「原子力は危険だから使わない方がいい→平和利用ならばもっと研究を進めるべきではないか→完全に安全が保障されるまでは使わない方がいい→これは原子力だけの問題ではない。飛行機も車も、人間が作った便利には危険が伴う。→便利に頼るだけでなく、自然環境などへの影響も考えて行動することが大事だ。」
決して難しい言語の応用をしている訳ではないが、質の高い実践的な対話が展開されていた。実践という状況の中で言葉を使い、考えを創る力の基礎を学んでいるとも言えるだろう。
西林克彦氏(東北福祉大学教授/教育心理学)は、基礎知識と応用力は別に存在するものではないと指摘している。「知っているが、できない」という考え方の背後には、知識を持っていても応用する力が欠けているという、知識観能力観が存在していると指摘している。しかし、基礎基本と応用は別のものではなく、「応用できる形で知識を身に着けていないという、身に着けた知識の在り様の問題である」というのが西林氏の主張だ。私は「知識の基礎基本と、学ぶ力の基礎基本は同じではない」「知識の基礎もあれば、応用力の基礎もある」と主張してきた。実際に子どもの学ぶ様子を見ていると、応用をする活動を通して知識の習得をしている場面に数多く出くわすことが多い。
「学習活動は習得→活用→探の一方通行ではない」「これらの学習活動は相互に関連し合っており、截然と分類されるものではない」という文部科学省の主張も見られる。内容の難易度から基礎基本と応用の関係を捉えるだけでなく、子どもの教材や仲間の意見に対する捉えから授業の構造を見つめなおす。子どもの既知を知らずに、活用の学びを創ることは難しい。何を活用するにしろその能力の分母は子どもの中にあるのだから・・・。2012/8/22
|
202.熟議を支える対話の学び
言語は個人に閉じた思考資源ではない。自己の思考の整理や構築だけでなく、他者に対しての説明や質問あるいは討論などにも用いられる。発表やスピーチという一方向に見える言語行為も、聞く立場が置かれることによって成り立っているのだ。また、言語活動は活動の状況や文脈によって、能力の発揮が左右される性質を持つ。全国学力テストの「スピーチ」「対談や話し合い」の問題が解けた子どもが、発表や討論の実技に優れているとは限らない。あるいは机上の解答が苦手な子どもでも、実際の対話活動が得意だったり好きだったりする場合もある。教える側としては「テスト上の学力」と「言語活動の遂行能力」がダイレクトに結び付く様に見えにくい点が悩ましいところだ。
「言語活動や協働学習で学力が本当に伸びるのか」という疑問が多い理由は、テスト学力と言語活動や対話能力の関係性が直接結びついていないことによる。その結果「話し合う意欲や能力以前に、教科の知識・理解を定着させることが先決だ」という様に、テスト学力と言語力対話力が二分法関係で論じられてしまう。また、「口が上手い」という表現の裏には、実際の能力と言葉の間に実質的な相関が薄いという価値観が潜んでいる。同様に、文章を書く、本を書くという行為は話すという行為よりも高い文化的価値を持つと見做されることが多い。同じ言語―対話活動でも、「読み―書き」と「聞く―話す」は違った重みを持って捉えられている。教育活動が机上効果に焦点化されてきた理由は「テストに正答を書く」ということが重視されてきたからだ。しかし、社会選抜の手段―方法が机上テストである限り、「話す、聞く、話し合う」という学習の価値は上がりにくい。
全国学力テストでも「対話や座談会」などをテーマにした、机上の問いが出題された。ところで、このテストに「テーマを決めた少人数座談会、討論」の実技テストを加えたらどうなるだろうか。対話の能力が学力の重要な一部として捉えられる様になるのではないか。対テスト効果を狙うだけでなく、社会的実践の中で対話―議論ができる「言語活動実践力」を持った子どもを育てたい。テストの点数の方がリアルな問題だという意見もある。しかし、進んだ先の学校や職場で対話をするという行為は一生を通してのリアルな課題である。
文部科学省が施策形成のアイデアを収集する「リアル熟議」という会議を開催支援して二年になる。これに併せて、小学校・中学校での熟議指導資料も公開されている。http://jukugi.mext.go.jp/archive/512.pdf(小)http://jukugi.mext.go.jp/archive/jhs.pdf(中)。特活の指導資料だが、国語や他教科の話し合い活動でも参考になる内容だ。いじめ、領有権問題、新学期に目指すこと、熟議の話題はどこにでもある。後は仲間の存在と場を設定する指導者の意識次第であろう。 2012/8/21
|
201.「言葉の動体視力」を磨く
スペインがEURO2012でサッカー欧州王者の座を獲得した。このスペインの強さは、世界最強と言われるパスサッカーによるところが大きい。よく、個人技に秀でたチームよりも、チームワークの優れたパスサッカーの方が勝負には強い。だから、個人技主体のチームよりもパスを中心としたチーム力中心のチームの方が有利だと言われる。しかし、これは一面で正解だが、一面で間違いでもある。個人技主体そのものが悪いのではない。個人技主体のチームとパスサッカー主体のチームでは、個に求められる能力が異なるということだ。足が速い、ボールさばきが上手い、ドリブルが上手いという技能に加えて、広い視野や優れた判断力、素早い思考、仲間の動きに対する理解という知的能力に優れている。仲間と相手の動きを認知して、状況を見極め、ボールを通す価値があるコースを見極めるという、集団的な認知能力に長けているのだ。
授業も対話を生かそうとすると、パスサッカーの様な能力が必要となる。言葉を知っているだけでなく、どのタイミングでどんな内容を発言すると、充実した話し合いになるのか推測する。話題の中心がどこからどこへ向かって動いているのか、誰の発言が重要な意味を持っているのか、自分はそこにどう関わるかを思考・判断して表現を交換する能力が必要となる。一人で何かをする能力に加え、誰かと何かをするというより次元の高い能力が求められるのだ。
だが、子どもたちは最初からそうした力を十分に持っている訳ではない。協働的な学び合いに参加しながら見につけるのだ。サッカーも同じである。練習で三人対三人、四人対四人という様に徐々に活動の規模を大きくしながら、パスのセンスとコツを身につける。スペインの選手も先天的に高度なパスの技能を持っていた訳ではない。学習でも「この子たちにはできない」という現状固定的に子どもを捉えては、協働を学ぶ機会を奪ってしまう。出来るように促す指導と活動の体験が必要となる。
教室は子どもの多様な考えが響き合う、響室である。響室での教師の役割は一方的に語る者から、子どもの考えを読み説き、柔軟に学びの場を構成して行く色合いが強くなる。学び合いや協働を促す指導技能に長けた教師の特徴は、子どもと子ども話題と課題を結ぶ意見は考えの動きを見取る能力が高いということだと感じる。つまり「言葉の動体視力」が優れているのだ。だが、こうした教師も最初から対話型の授業ができた訳ではない。教師は教えるという役割を通して、授業実践を通して自らの学びに参加して行く。そして、その授業実践の場でこそ、子ども達の複雑な意見の交差を洞察する「言葉の動体視力」が磨かれるのであろう。 |
200.一貫を支える『一環』
小中一貫校を目指す学校が増えている。一貫校を目指す理由や事情は地域によって異なる。だが、質の高い教育実践を生み出し、時代を生き合う力を育てるという目的はすべての学校に共通している。一貫校というと、カリキュラムや指導形態の工夫によって一貫性を打ち出そうとする場合が多い。また、橋下大阪市長の様に、進学に特化した学校を創ろうという素人受けをねらった構想も出てきた。
一方で、小学校と中学校の指導文化の違いが、一貫化によって現れてくるケースもある。学力観や子ども観が違う。発達観や指導観の違いが浮かび上がって来ることもある。一貫校になれば素晴らしい教育成果が上がるという訳ではない。成果が上がる一貫校を創って行く活動の質こそが、一貫校の教育力を保証するのである。縦を繋ぐ一貫も大事だが、横に繋がる「一環」も大事なのではないか。
企業が合弁する場合は、協働解決が必要な課題をあえて設定し、協働的な課題解決活動を通して、二つの組織文化を昇華させていこうとする。その結果、個人の意識がそれぞれに変容し、活動への個の参加意欲が高めようとするのである。また、交代勤務がある病院などの組織でも、患者の状態を共有する活動を見ることができる。企業の場合は課題を中心として、病院などでは患者情報を中心として共有する『一環活動』が、組織に和をもたらしているのであろう。
和とは異質なものだからこそ和するのであり、等質のものが足されて行く訳ではない。小中一貫校も教師の信条や考えの違いを活かす、一環的な組織開発を大事にしたいものである。 その組織開発の過程でこそ、縦の一貫と横の一環が結びついて、新たな教育文化が立ち上がって来るのである。 2012.6.14
※こうした組織の「一環」は組織にも、その周囲にも「安心感と信頼感」を醸し出す。そうした安心できる病院で5月29日、母が帰幽した。
最後の言葉は「明日の学校(講演)の準備は大丈夫かい」であった。
|
199.「『生活科の理論と実践―「生きる力」をはぐくむ教育のあり方―』木村吉彦著 日本文教出版 刊」
「今度の生活科って知的気づきを重視するんだって」「気付きって、社会や理科の基本的な知識に気が付くってことでしょ」「え、生活科の場合はちょっと違うんじゃないの?」
この会話は某県教育センターの喫茶コーナーで耳に入った話だ。この会話の背景には、
①伝統教科還元型の知識構成観がある(客観知一元主義)
②生活科という教科への理解が充分ではない
③〈子どもの成長・発達〉と〈学び観〉の不一致
④生活科における〈知的気付き〉を自分のものにして行きたいという教師の願い
が存在するのではないか。
生活科における実践と理論を読み解き、自分化する過程を経ねば生活科の実践と理論は結びついて行かない。指導要領は実践と理論を結びつける原典である。しかし、そこに示されている言葉を実践の知として受け止めていくためには教師同士の話し合いや、読書、実践分析など多様な取り組みが必要となる。そんな教師の教育的探求をサポートしてくれる強い味方となる書籍が発行された。『生活科の理論と実践―「生きる力」をはぐくむ教育のあり方―木村吉彦著 日本文教出版』がその本だ。
生活科のカリキュラムは伝統教科と比べて、動的で多面的な性格が強い。子どもが様々な対象と出会い、活動の文脈によっては個性的で特殊な学び空間を生み出す。子どもと環境との相互関係によって、実践は多様な顔を持って教師の前に出現するのだ。そうした生活科の実践を構想し、捉え、改善して行く上で本書は心強いガイドとなる。生活科という教科の本質を論と実践、教師の具体的指導事例や子どもの姿から立体的に捉えた内容だ。論と実践はそもそも乖離した存在ではない。実践の中に昇華させていく論を持つことの価値を実感できる一冊だ。
中村雄二郎は≪臨床の知≫の特徴として①コスモロジー(個性的な時空間)②シンボリズム(多様な表現の中に意味を見つける)③パフォーマンス(身体性を持った行為)の三つを挙げている。生活科という実践的具体的活動を大事にした学びだからこそ、子どもの姿と生活科の理念を臨床的に結びつける確かで柔軟な指導知が必要となる。①特殊で具体的な学び空間の中で②学びの意味を見つけ③子どもの活動を受け止め促す。その「臨床的な指導知」に自信を与えてくれるのが本書である。子どもにとっての学びとは何かを捉えなおす上でも参考になる。
(2012.519)
|
198.「言葉受けと対話」
数週間前の病院でのこと。父と私は病室で小さなゲームを楽しんだ。失聴者であり、車椅子での生活となっていた父。そんな父と楽しんだのは、丸めたティッシュのキャッチボールであった。
父に向って投げる時は、正確に安定した場所を目がけて投げなければ、キャッチすることができない。一方で、手の感覚が鈍くなった父の投げる球は、散弾の様に飛ぶ方向が定まらない。しかし、この球を何とか捕らねば、キャッチボールは成立しない。懸命に父の投げた球を捕って、父へ返す。「何十年ぶりの親子のキャッチボールだったなぁ」と最後に父は呟いた。キャッチボールはコミュニケーションに似ている。表現という投げも大事だ。だが、受けてくれる相手が存在するから、表現をしようと考えるのではないか。子どもの言葉を受ける、心を受けるというスタンスと技能が、子どもの対話意欲を底支えするのであろう。
年度末に鈴木功一校長(静岡県掛川市)の「現役最後の授業」を拝見する機会を得た。この先生の授業術の素晴らしさは、子どもの表現を多様に受け止め、臨機応変に子どもに返す点にあった。鈴木校長の返しを分析し、「びっくり返し」「期待返し」「可視化返し」「主権返し」「典型返し」「認め返し」「見立て返し」「見止め返し」という様なネーミングをつけて、分類してみた。ここでは詳しく書かないが、どの様な返しなのか想像してみて頂きたい。対話は、受け側の技能によって質が大きな影響を受けるのであろう。
「汝に依って我を礼し、我に依って汝を礼す」という言葉がある。
あなたによって私が礼となり、私によってあなたが礼になる。対話も同様だ。「汝に依って我は対話し、我に依って汝も対話す。」互いに受けることが深ければ、自ずと表現も豊かになる。
父との最後のキャッチボールは、受けることの大事さを再確認させてくれた。林業関係の公務員であった父は、自分で選んだかの様に「みどりの日」、帰幽した。
(2012.5.5)
|
197.子どもを置き去りにしない「実践考察」
「子どもらしさに学ぶ20(授業改善研究会編)」が今年も手元に届いた。この実践―記録―考察集は、具体性と主体性に満ち溢れている冊子だ。教師と子どものやり取りという具体性と、双方の願いという主体性がこの冊子の二重の核になっている。教育実践(授業-生活指導-学級経営)は教師と子どもの相互関係によってのみ出現する現象である。出現した学びの場は、その教師とこの子どもたちによる個性的な空間だ。「わかりましたか(教師)」「わかりません(子ども)」という単純な対話でさえ、その教師とこの子らだけの特別な意味世界を持っている。
だが、こうした対話を記録し、分析し、次の授業や未来の学びにつなげていく作業は、意外とないがしろにされやすい。わかりたくてわからないのか、わからなくてわからないのか、わかっていてわかりたくない(と言いたい)のか。「普段の授業を大切にする」とは言うが、記録や振り返りをする余裕が持てない場合も多いのではないか。だが、言語活動などを重視しようとすれば、子どもとの対話を分析する意味もより増してくる筈である。
このシンプルかつ価値ある活動を行っている会が、授業改善研究会(静岡県東部地区)だ。普段の授業を大切にするには、不断の実践―記録―考察が不可欠である。収録された19の実践分析(主張)には、教師と子どもが生み出した個性的な学びの物語が含まれている。教師の学びと、子どもの学びという二つの視点が表裏一体になっているのだ。自己の学びから逃避しない教師こそ、学びから逃避しない子どもを育てることができる。子どもと学びに正対している教師の姿が、この冊子-実践を支えているのだ。
子どもらしさ(普遍原理)とこの子らしさ(個性原理)を行き来する考察によって、一般的な子どもの習性と個性的なこの子の考え方が浮かび上がってくる。子どもが見えてくることによって、教師の指導方法も定まってくる。指導技能や授業術は、子どもと切り離された場では存在できない。子どもとの相互的な関わりの中で機能するからこそ、具体の授業で役立つ技能となるのだ。
実践者による実践者のための実践分析の価値を教えてくれる冊子が「こどもらしさに学ぶ」である。子どもを置き去りにした教育論にはない、人の温もりと情熱を感じさせてくれる冊子である。
2012.4.24
|
※古くから交流がある横藤雅人先生の新著を読んで
「5つの学習習慣―驚くほど子どもが勉強しはじめる―」
横藤雅人 著・合同出版 刊
【学習習慣を育てる極意を記した五輪の書】
「子どもを放っておいたら勉強なんかしない。」という意見がある。子どもの学ぶ意欲に対する不信感が、この発言の根底に潜んでいる。だが、もしかすると、放っておいたら学ばない大人が、自分の姿を子どもに投影しているだけなのかもしれない。学ぶ態度や習慣は、大人にとっても子どもにとっても学ぶ力の基盤である。知識は学力そのものではない。知識を使える形で実装することが、真の学力向上につながる。しかし、使える形の知識とは、どの様な機能を持った知識なのだろうか。
一つには「ポータブル」な機能を持った知識だということ。テストの場だけでなく、様々な問題解決の現場に持ち出して知識を使う。二つには、「ブータブル」な機能を持った知識だということ。「ブータブル」とは、自発的な活動の生起を意味する言葉だ。課題や対象を思考の射程に捉え、焦点を合わせていく能力である。三つ目は、「フレキシブル」な機能を持った知識だということ。柔軟な応用力、活用力を持った知識だということ。持ち出し可能で、自発的で、応用が利く知識。常時考え続ける態度と習慣を身につけることが、教育において重い意味と価値を持つのである。
では、こうした「学ぶ態度と習慣」はどの様な方法で育てればよいのであろうか。「学習環境を整える」「基礎的な学習技術を育てる」「子どもの学習につきあう」「学習効果を高める工夫をする」「子どもをその気にさせるひとことをかける」という5つの領域に、学習習慣を育てるポイントがある。そう指南してくれる本が「5つの学習習慣―驚くほど子どもが勉強しはじめる― 横藤雅人 著・合同出版 刊」だ。前述の≪5つのポイント≫は、同書に収録されている5章を流用したものである。宮本武蔵は自らの兵法の極意を「五輪の書」にまとめたが、この本は「学習習慣育ての五輪の書」だと言える。
著者は現職の小学校校長であり、豊かな経験と論理に裏打ちされた教育的臨床知が、この本の内容を確かなものにしている。子どもと共に生活全般を捉え直すことで、学習スキルの習得に加えて「学ぶ態度」を育てる具体策を示している。「学習内容は内容で区切るか?時間で区切るか?」「100円ショップを活用する」という様に、身近な問題や事例から子どもとの適切な関わり方を提案しており、納得しながら読み進むことができる。
同書は保護者が読むだけでなく、若手の教師が保護者の相談に応える場合にも参考となる。巻末の「家庭学習10のべからず(してはいけないこと)」は、教室での指導を見直すポイントにもなることだろう。
|
196.私的学びの覚書④
それでも、文章を書くことは好きであった。生活の中で見たり聞いたりした事象を自分の言葉で言い換える一人遊びが、特に好きであった。高圧線の向こう側に沈む夕日を見ては、「五線譜の様な電線の向こう側に、熟れた柿の様な太陽が沈もうとしていた」などと、独りよがりな言い換えを楽しんでいた。自主的な言葉遊びは得意であったが、テーマを与えられての作文では全く書く気が起きなかった。ところが、自由題で作文を書くということになると、俄然創作意欲が湧きあがって来るのだ。
小学校3年生の時に書いた、「ふしぎなばらばら」という作文は担任の先生から評価され、区か何かの文集に収録するよう推薦されたことがある。普段から国語が苦手な子どもがどうしてこんな作文を書けたのだろうか。担任の先生も疑問に思ったことだろう。その作文の状況が、本当に私の体験に基づく事実かどうか沢山の質問をされた記憶が残っている。いつ起きた話か、ここに出て来る友達は何組の誰なのか、木のぼりをした木はどこにある木か。盗作や空想による創作ではないということを確かめようとする質問だったのだ。
だが、質問が終わった後で「<ふしぎなばらばら>という題名の付け方が素晴らしい」と先生は褒めてくれたことも記憶している。文章を書くと言うことに対して、抵抗感はなかった。悪筆であっても、筆記用具そのものも好きであった。近所の文具店に行っては、よく万年筆を眺めていた。ショーウィンドウ越しに、うっとりとした表情で万年筆を覗きこむ小学生を店員はどう見ていたのであろう。この頃から、何かを書く仕事をしている自分のイメージが心の中に存在していた。現実的には成績が悪く、作家や原稿を書く様な文化的な仕事をする様になるとは予想していなかった。自分の予想や希望、想像を超えて「何かを書いている自分の姿」が心の中に時々浮かんで来た理由は未だに不明だ。この心の中の「書く私像」が、文章を書く仕事に自分を促す潜在的なエネルギーになっているのかもしれない。
〈ふしぎなばらばら〉は長らく忘れていた少年時代の物語である。下記に懐かしく思い出しながらリライトしてみた。ここに登場する「タケル」は実在の友である。残念だが、相当に若くして亡くなってしまった。もう少し優しく彼に接しておけばよかったという後悔が、今も私の心の中に残っている。
「ふしぎなばらばら」
「僕の知っている飛行機はもっと速いんだぜ。100キロの百ばいくらい速いんだ。」
優斗は自慢そうに、タケルと海人に話しかけた。
「そんな、飛行機はないよ。僕の知っているロケットは優斗の知っている飛行機よりずっと速い」とタケルも負けていはいない。「どっちが速くたっていいじゃないか。そんなことで言いあってもしょうがないよ」と海人は落ちついた口調で、二人の話題には関心がなさそうだ。
「いや、重大な問題だ。どっちが速い乗り物を知っているのか、証明して勝負をつけよう。」最初に言い出した優斗は、なんとしてもタケルを納得させたいのだろう。
「それじゃあ、証拠を見せあって決着をつけよう。」
「よし、図鑑に書いてあったから、証拠に持ってきてやる。」「勝負だ。」「絶対負けないぞ。」
優斗とタケルは、互いにそう言いあったものの、二人とも確かな証拠など持ってはいなかった。
「もう、こんな話はやめようよ」と海人は仲直りをすすめたが、「海人は関係ないだろ。そうだ、お前とは絶交だ。」「そうだ、もうみんなとは絶交だ。」優斗とタケルは海人を真ん中に残して、別々の方向へ歩いて行ってしまった。
「困ったなぁ」海人は心の中でつぶやいたが、どうしたらよいかよく分からなかった。
翌日になっても、三人は言葉を交わすことがなかった。本当は話しをしたかったのだが、互いに話しかけることができない。しかし、互いに素直になれない自分を感じていた。 学校の廊下ですれ違っても、三人は見ないふりをして目を合わすこともしなかった。しかし、誰もが心の中で同じことを感じていた。「やっぱり、一人はさみしいな。」しかし、三人は相手に言葉をかけるきっかけをつかむことができなかった。言葉よりも前に、心がすれ違っていたのだ。
三人は共通の遊び場がある。三人はここを「広場」と呼んでいた。広場とは言っても、実際には小さな公園である。今はなくなってしまった団地の隅にある小さな公園が三人の広場だったのだ。毎日この場所に集まっては、古いブランコに乗ったり、木のぼりをしたりした。しかし、絶交をしてから三日が経っても、この公園に三人の姿は現れなかった。
ところが、四日目になって、とぼとぼとこの広場にやってきたのは、優斗だった。
「ああ、なんか一人じゃつまんないな。」優斗はそう呟いて、いつも登っている木の上にするすると登った。目の下に見える誰もいない広場。しかし、よく見ると誰かが、広場に近づいてくる。それは、海人の姿だった。海人は木の上にいる優斗の姿に気がついていない。やがて海人が木の下まで来ると、優斗はぱらぱらと葉っぱをちぎって下に落とした。海人が上を見ると、そこには照れくさそうに笑う優斗の姿があった。海人は木を登って、優斗のところまで上がっていった。
「やあ。」「おう。」二人はそのまま少し黙りこんでいたが、二人ともどこか嬉しそうな顔をしている。その時、海人が広場に向かって歩いてくるタケルの姿を発見した。やがて、タケルも何引き付けられる様に、木の下にやって来た。今度は海人がぱらぱらと葉っぱを下に落とすと、タケルも上をのぞきこんでから、するすると木の上に登って来た。「ごめんね」とタケルが言うと、三人は目を合わせて黙ってうなずきあった。
三人の顔を真っ赤な夕焼けが照らし、とてもとても大事な一日が終わろうとしていた。
三年生の頃の
かじうら まこと 作
|
196.私的学びの覚書③
読書というと、もう一つ印象深い体験が「読書会」における体験である。小学生低学年から高学年までこの活動に参加していた。私以外の子どもは、保護者も高学歴であり子ども自身も相当成績の高い子どもが集まっていた。そうした中にあって、私は極めて異色な存在であった。学校でトップクラスの成績を取る子どもの中に一人だけ、劣悪な成績の私が居た。この会では、毎月テーマになる本を決め、それを読んだ感想を交換する。場所は図書館で行われることが多かった。この図書館の存在も読書経験を積むにあたって大きな役割を果たしたが、その件はまた別の機会に記そうと思う。
読書での意見交換における私の意見は相当個性的な内容であった。「面白い意見だ、不思議な考えだ」という評価を講師や仲間から受けることが多かった。本の著者を招いての読書会では、著者の先生から「おもしろい考えだ」と言われたこともあった。おもしろいとは言うが、相当に異色の意見だったのであろう。特に「僕が著者だったら、もっと違う物語にする」などと言い出すために、著者の先生方には不快な思いをさせたかもしれない。学校での国語の勉強は全くできなかったが、ここで優秀な友人の意見を聞くことは大変よい勉強になった。私の様な創造力や飛躍的な発想ではなく、三角ロジックの様に構造的でスマートな意見を述べる高学力の友人が多かった。また、違った意見であっても公平に扱ってくれる大人が司会をしていたため、自分流に考えることに自身が持つきっかけにもなった。いや、もしかすると、この辺りから学びの道を逸脱し始めたのかもしれない。覚えることよりも、自分で考えることに偏り過ぎた学びをしてしまったのであろうか。
その一方で、当時の学校教育とは異なる「協働の学び」がこの会には存在していた。学校では成績の良い子どもに直接話しかけることが私にはできなかった。だが、この読書会では出来る子と同等に扱われるため、比較的気楽に自説を述べることができた。学校の中では先生と目を合わせず、授業中になるべく指名されない様にすることだけに神経をすり減らしていたが、読書会ではそうした無用であった。
読書は好きであったが、国語は苦手であり、好きではなかった。テストでも、全くお角違いの答えを書くことが多かった。テスト問題で問われている内容は理解できるのだが、ここでも創造力が無駄に発揮されてしまう。答えを書いた後で「多分この答えは間違っていると思うが、AとBのつながりやその後の話の流れから考えると、僕の書いた答えを正解にしてもよいのではないか・・・」という、自分の答えの正当性の根拠をテストの裏に自論を書いてしまう。通知票の所見に「自分の世界を持っており、教師や周囲の意見を受け入れません」と書かれた理由がこうした所にあるのだろう。従って、国語の成績はいつも悪かった。私の読書は教科としての国語の点数には全く反映されなかったのである。
|
195.私的学びの覚書②
私は極めて学力の低い子どもであった。小中学校を通して、数値的な学力はテストの点数であれ、通知票への評定は学年で最下位に近いものであった。学校の学習に関心が持てず、理解もできなかった。但し、小学校に入学して初めてテストを受けた時の異様な感覚は明確に覚えている。誰もが同じ問題に向かって答えを書き込む光景は、極めて異様に感じた。「自分が答えを書かなくても、誰かが正解を出すのだから、この問題を解くのは自分でなくてもいいはずだ」と感じたのである。入学して間もない一年生としては、随分と生意気な考え方だ。テストの問題よりも、テストの問題が背後に持つテストという行為に潜む意思を批判したのであろう。ここが学歴コースから逸脱した人生を歩む分かれ道に入る起点となった。学校の勉強に関心が持てない、解らない、一層関心が無くなるという悪循環に陥ったのであろう。
では、全く文化的な知的活動から離れてしまったのかというと、そうではない。低学年までは虚弱体質であり、学校を休むことが多く、病床で本を読むことが多かったのだ。やがて、読書は自分の遊びの重要な部分を占めることになる。特に印象的だった本が二編ある。一つは、山岳事故で亡くなった伯父が贈ってくれた「なぜだろうなぜかしら」というシリーズ本だ。「なぜ空は青いのか」「なぜ海の水はしょっぱいのか」「なぜ風邪をひくと熱がでるのか」という様な質問に対応して答えが書いてあるという本だ。
この本で面白かったのは、内容よりも自分なりの読み方ができるということだった。Qを読んだ後で、「自分なりの答え」を考えてみる。そして、その後で答えを見て、自分の考えと比較するのだ。こうして、自分なりの考えを創りながら読むと、自分の頭の中に自分の考えを創り、保つということが楽しくなる。覚える読書よりも、考える読書を楽しんだのだと言えるだろう。実は、そんな高尚な動機ではなく、一冊の本に時間をかけて読むには、この読書方が適していたのだ。数冊の本では短い時間で読み終わってしまう。なるべく長い時間をかけて読む方が、楽しみが持続する。長い時間にわたって、読書を楽しむことができるのである。
もう一つ関心を持って読んだ本がある。「子ども百科事典」という全8巻の百科事典だ。あまりに繰り返し読み過ぎて、三年生の頃には全巻の内容と書かれているページ数を暗記してしまったほどだ。家庭訪問で訪ねて来た担任の先生に対して、「この子は百科事典を全部暗記していますよ」と母が話したことがある。担任の先生は「そんなことはある筈がない。学校では全然勉強はできません」と答えた。私は、「3巻の247ページは顕微鏡で、オランダのレーベンフックのことが書いてある。5巻の433ページからは電気のことでフランクリンの凧のことや交流、直流のことが書いてある」と話し、実際に百科事典を開くとその通りであった。担任の先生は驚くというか、やや狼狽した様な表情をしていた様子が記憶に残っている。
私は行動主義的な反復学習を否定する意見を持っていると勘違いされることがある。しかし、認知主義的な学習や社会構成主義的な学習という高次な学習に繋げて行く過程で、反復学習にも大きな意味があると考えている。大事なことは、どの様な状況の子どもに、どの様な内容を、子どもの自発的取り組みを促す形で反復をさせるかということであろう。また、シンプルな反復学習でこそ、与え時や引き上げ時という、学習者にとってのタイミングを見極める指導技能が重い意味を持つと言えるだろう。そして、教える、学ぶ、学び合うという学習活動の社会化も忘れてはならない。
繰り返すことは大事だが、楽しく、挑戦的に、自発的な反復を促すことが出来なければ、反復嫌いを生んでしまうことになる。私は、自発的に繰り返して本を読むことで、本を読むという行為が好きになり、自然と繰り返して読む行動を誘引できたのであろう。覚えなければいけないと言う様な外的強要が無かったことも、自分流の読書を充実させる要因になっていたのではないだろうか。読書の楽しさが、脳内でドーパミンを多く放出させる要因となり、読書を一層好きにさせることに繋がったのではないか。
|
194.私的学びの覚書①
私に学歴は無い。履歴書を書くと、転職歴(変職歴?)だけが記される様な有様だ。子どもの頃の学力不振を克服できずに現在に至っている。子どもの頃、オール1の成績を取っていた子どもが、後に勉強をやり直して失った過去を取り返すというサクセスストーリーは時々耳にすることがある。『オール1の落ちこぼれ、教師になる』の著者、宮本延春氏などはその代表的事例かもしれない。一度は勉強の敗者となっても、最後は勉強を返り討ちするという美談で終わるのだ。私の場合は、こうした事例とは異なり、学力不振児童を貫いて現在に至っている。
「大学にも行っていないのに、どこで勉強を学んだのですか。」この質問は、キャリア教育の講演等で必ずと言ってよいほど尋ねられる質問だ。学校でしか学ぶことができないと考えている人にとって、学校以外での学びは信用ならないのであろう。いや、学校以外で学んだ知識そのもの信頼度が低く見積もられている様な気もする。リベラル・アーツの知識は学校に専売権があると信じられているのかもしれない。ところで、自分の知識や学びはどのようにして形成されて来たのだろうか。
自分自身で反省的に振り返ったことはない。だが、学歴(学校歴)とは相関関係が薄いと言えるだろう。私の学びは無意識、無自覚に自動化された自己流の学び方に支えられている。勉強が出来るようになりたいと思ったことも、殆どない。こういう者が学習について云々すること自体が、学習指導の世界では掟破りなのだろう。「本当の学びを追求して行けば、必ず質の高い結果が得られる。これからの時代は、私的な学びであっても質が高い成果は必ず評価される。本物の学びを続けること、それが大事です」と寺尾愼一氏(福岡教育大学学長)から言われたことがある。単純な記憶に頼らないという意味では、それなりに質の高い学びを経験できてきた様である。だが、社会に出てから比較的高く評価されたのは、記憶力の高さであった。かつて勤務していた新聞社内でも「もの覚えが激しい奴」という評価を得ていた。君の場合は記憶力ではなく“記録力だ”と言われたこともある。
かつて堀裕嗣氏から「君の持っている記憶術を、メソッド化、スキル化できないか」と尋ねられたことがある。その時には「覚えようと思って覚えている訳ではないので、スキル化は難しい」と答えさせて頂いた。そもそも、私の学びは「記憶する」ということにあまり意識を割いてはいない。覚えるという行為よりも、考えるという行為にウェイトを置いて来た様に思う。例えば、二時間以上に及ぶ長い時間の講演でも、その内容を記憶して話している訳ではない。覚えている内容は忘れたり、飛んだりしてしまうこともある。覚えていることよりも、日頃から考えていることを話すことが多い。そのため、長時間でも話すことができるのであろう。記憶の再生よりも、考えの構成の方により重いウェイトを置いているということかもしれない。
いずれにしろ、自分の学び方を自己分析したことはなかった。その必要性も感じていなかった。しかし、自分にとって自分の学び方を学習研究の教材にすべく、「私的学びの覚書」を書いてみようと考えるようになった。いや、考える様になったのは、今朝のことである。私の学欲は継続的な性質だけを持つ物でではない。むしろ、常に発作的な側面を持っている。覚書はmemorandum(ランダムメモ)であるから、無作為に経験や思いを拾いながら、自分自身の学び方について、点描をして行きたいと思う。
|
193.育ちの個性が響く「協室」づくり
.
「えーっと・・・・、うーんと・・・・・・・・・・えー・・・・・・、わかんなくなっちゃいました」→≪やっと表現できる≫ 。「何て言うか、電気にはプラスとマイナスあるでしょ、だから、モーターが回る向きが変わる。だから電気とモーターが回る方向には・・・・。電気には方向があるから、モーターの方向も・・・・・」→≪もっと表現できる≫。「話すことで、自分の言いたいことがわかると思います。だから話すことで考えが整理できるのだと思います」→≪ずっと表現を大事にする≫。
子どもの思考や表現には、この子の能力の限界で行われる活動がある。これが、≪やっと≫だ。また、先生や仲間や教材の知に刺激されて、どんどん話したくなる時がある。これが、≪もっと≫だ。そして、考えたり話したりすることの価値を感じ、それを自分の中に取り込んでいこうとする時がある。これが≪ずっと≫である。
この、≪やっと≫≪もっと≫≪ずっと≫は個の中にだけ存在するものではない。教室の中では、この三つが共鳴し合うことで、相互に学びの種が生まれて行くのである。「○○君が言いたいのはこういうことだと思います」「○○さんの意見に▼▼を付け加えるとかんぺきな考えになると思います。」やっと、もっとの子どもが考え合いを通して、≪ずっと≫という態度が育まれていく。
子どもの育ちの速度や質は同一同質ではない。そこに教室が協室になっていく力の源泉がある。個性とは差がある、違いがある個の集団を前提にして成り立っているものである。揃うと安心する、揃わないと不安になる。教える者の欲として、成果の斉一性を求めることも理解できる。だが、多様な差を生かすことができない学級は、痩せた土地に似ている。窒素、リン酸、カリだけでは植物は育たない。差を解消することだけでなく、差を生かすことで学びの土壌を豊かにして行きたいものである。
2011.12.27
|
194.学習者の理解-洞察こそ授業実践技能の要
授業技能の有効性は何によって決まってくるのだろうか。教材の選択や構成の技術だろうか。分かりやすく説明する能力か。それとも、学習者と対話が上手いうことであろうか。それらも確かに有効な要素ではあろう。
中内敏夫氏は「学習者の状態」が授業行為において決定的な役割を果たすと指摘している。明日教えようとする内容を、既に学習者が完全に認識していたならば、指導の必要性は生じない。明日教えようとする内容を間違って認識しているとすれば、教え方は違ってくる。学習者の状態をいかに把握するかが、授業づくりのキャスティングヴォードを握っているのである。
教師にとって、「子ども理解」は聞きなれた言葉である。子ども理解がないがしろにされた時、授業は学びの場として成り立たなくなってしまう。日本の教師はそのことを昔から知っていた。故に、学習者理解が大事にされてきた。学習者の理解-解釈-洞察力こそ、授業実践技能の要だと言える。実践的研究者たる教師の高い専門性がここにある。
今年も数多くの授業を拝見する機会を得ることができた。その中で優れた授業者が持っていた共通の資質が、学習者洞察の能力である。子どもの表れを洞察する感度、精度、理解度が高い教師ほど、子どもの学びを構成することに長けている。反対に、子どもの状態を掴むことに失敗すると、教師の認識を再生する為の授業となってしまう。子どもの思考や表現が、教師の知を再生する材として消費されてしまうのだ。子どもの状況を洞察し、巧みに応じて行く行為が指導の有効性を決定して行く。「巧」という漢字は、まっすぐなノミと曲がったノミを表し、技能の柔軟さを示す象形である。子どもに応じる≪巧み力≫こそ、授業技能の本体だと言えないだろうか。
かつて、岡野俊一郎氏がサッカー日本代表のコーチだった頃のこと。練習でゴールキーパーの指先3センチを狙い、正確なシュートを打ち続けたという。指先1センチでは簡単にボールが取れてしまい、10センチでは諦めてしまう。GKの能力を洞察して、指先3センチを目がけてボールを蹴る。この3センチに、学習の領域が存在していることを岡野氏は知っていた。つまり、学習者の洞察からしか、確かな指導は生まれないということだ。
子どもの表れを「聞き止め」「見止め」「感じ止め」る。この「三止め力」こそ、授業と言う対人行為の生命線を握っている。学習者の理解に、分かったという完了は無い。ゴール無き洞察の道程が教師の授業実践技能を高め、授業の効果を高めて行くことに繋がるのである。
2011・12・13 |
193.研修の4っつの原則
「幸福な人は一様に幸福だが、不幸な人は様々に不幸である」という。病院に行くと、健康な人は一様に健康であるのに、病気の人の病は様々である。
この病を校内研修に置き換えてみよう。校内研修が上手く進んでいる学校は、難あれど一様に順調に進んでいる。しかし、研修が上手く機能していない学校の研修不全の原因は学校毎に様々である。ベテランが強すぎて若手に発言権がない、忙しくて研修どころではない、そんなものは個人でやるべきものだ・・・等々色々な原因が隠れている。
では研修が上手く機能している学校では、どんな要素が有効に機能しているのだろうか。
私の臨床的経験から見えてきた「研修が機能する学校の四原則」が下記である。
①具体性②目的性③論理性④必要性、そして「協働的組織風土」が研究の実行基盤となる。起承転結=気昇填頁(きしょうてんけつ)のプロセスも大事であろう。
この4っつの角が一つでも欠けると、研究の充実は困難になる。させられる研修からする研究に、参加と充実が希薄な協議から充実と学びのある協議へ。そんな研修が増えて欲しいと願っている。
※11月25日・下田市立下田小学校自主研究発表会にて、上記の図と研修に関する講話をさせて頂きます。
|
192.教師が“響志”になるところ
最近の校内研修は、講義から協議に変化してきている。授業を見て、簡単な自評と感想の後で、講師の講話を聞く。こうした静的な研修は過去のものとなりつつある。小グループのホワイトボードミーティングや、抽出児を決めて、この子の視点から授業の構成と流れを捉えていく抽出児方式など、能動的な参加による考え合い話し合いの研修が増えている。
こうした話し合いから見えてくることは、「子どもの姿であり、指導の具体の技能と作用」である。こうした情報は話し合いを通してしか得られないと言う特徴がある。自分の授業は自分が一番わかっている様で、見えていない部分も多い。一度、自分の授業ビデオを撮影して見なおして見ると、意外な発見に気づくことがある。見つかるのは問題点ばかりではない、優れた指導技能が意味づけられることもある。板書の巧みさと巧みさを支える要素、子どもの表現力を引き出す教師の聞き力、子どもの表現や表情に応じて発問と確認を使い分けていく技、話し合いを深める為に話し合いの途中で課題にプラスアルファを加えていく術などなど。日常の授業の中に潜んでいる「指導の具体的技能」が見えてくることが多い。
そもそも、具体の指導方は、具体的な場にしか存在し得ない。先生と子どもの関わる場でのみ、姿を見せるのである。○○メソッドという形式的な指導法は、指導法とは言えないのかもしれない。静的な教材と時系列的手順は分かりやすい指導法に見えるが、そのメソッドが問題そのものを解決することは少ない。単純で効率的なメソッドは、単純なメリットを持つ学習には在る程度の効果が期待できる。しかし、考え合いや深め合いによる対話-協働的な学びなど、複雑かつ流動的要素を持つ生の授業では、教師の指導技能が問われることになる。やはり、血の通った教師の具体の指導技能こそ、子どもを伸ばす指導の鍵だと言えるだろう。
こうして、話し合ってあぶり出された指導技能や子どもの変化や特徴を、教師が共有していくと共感が共観に変わっていく。観を共有し共観が教師集団の中に生まれてくると、教師が響志に変わっていく。この信念に基づく連帯感が、指導の自信に繋がり、実際の指導技能のよさも共有して行くことに繋がる。南伊豆東中学校、沼津第四中学校、裾野南小学校、そして立川第七小学校などはこうした、響き合う研修が実りを見せ始めている。先生の個性が輝き、一人の先生の得意がみんなの得意に変わっていく。こうした社会構成主義的な研修こそ、教師が学び甲斐と教え甲斐を協創していくことができるのであろう。 2011 11/17
|
191.『協同学習入門●基本の理解と51の工夫』 杉江修治 著
-理論と実践が同時に学べる入門書-
日本の教育世論は二分法的理解を好む。詰め込みかゆとりか、個が先か集団が先か、教科か総合か、競争がよいのか協同がよいのか。問題の要因を二つに分けると、比較的単純な思考で要因を選ぶことができる。それ以外の選択肢を考えずに済む。更には、二つの要因が持つ構造的関係も考えずに済ませてしまうことができる。こうした短絡的な思考では、実りある教育を問うことができない。思考力、判断力は子ども達の為だけに重要なのではない。
「総合的な学習」は必要か不要かという議論がある。しかし、算数や理科という伝統教科が必要か不要かという議論は聞かない。総合は要不要論に結び付きやすく、教科は指導法の改善論に結びつきやすい。教科では「もっと効果的な指導法があるか」が検討される。だが、総合では指導法の工夫が問われずに、要不要へ飛躍してしまうのである。なぜ、そうなってしまうのだろうか。
かつて、ある研究会で杉江修治氏(中京大学国際教養学部教授)から「協同を方法論だけで考えても駄目だ。協同は学習が立脚する原理なのであって、単なる学習法の一つなのではない。」と指摘されたことがある。教育には「価値の次元(目的レベル)」と、「方法の次元(手段レベル)」がある。「価値の次元」は、先述の例で言えば「伝統教科」である。教科の持つ知の価値を、子ども達に伝達-再構成させていくことが目的とされる。たとえ、効果が低くても廃止の対象にはなりにくい。一方で、総合は「方法の次元」に置かれやすい。だから、「成果が低い、手間の割に効果が少ない」という、効果だけで価値が判断されてしまうのである。
では、協同学習はどうであろうか。杉江氏の主張によれば、「協同は価値の次元にある」と考えることができる。協同学習は効果的か否かという「方法の次元」で語られるべきではなく、あらゆる教育実践を支える「価値の次元」にあると捉えるべきなのであろう。ところが、「価値の次元と方法の次元」の双方を包含した、協同学習の入門書が発行された。「協同学習入門●基本の理解と51の工夫/杉江修治 著/ナカニシヤ出版」がその本だ。協同学習の実践に向かう「理念/哲学/観」と、実践に向かう「ノウハウ、ドゥハウ」が一冊にまとめられている。グループ学習を実践する上の配慮事項や、実践事例をはじめ、学習の見通しの持たせ方や協同学習に適したまとめのワークシート事例なども紹介。協同学習に基づく実践を始めたい教師には、待望の書だと感じられる筈である。また、この本を読みながら、是非自分の授業中の言葉がけや発問について振り返って頂きたい。伝達型のコミュニケーションスタイルが強くなっていないか、子どもに考え合わせる発問や指示ができているかという視点で読んでみると面白いだろう。
“人が想像できることは必ず人が実現できる”(ジュール・ヴェルヌ)という。先ず、この本から「協同に向かう授業と指導のイメージ」を広げてみてはいかがだろうか。広がったイメージ向かって、授業は近づいていくものなのである。
|
190.同じ様な違うモノ
「同じ(様な)ものが、いっぱいあるでしょ。同じものを何個も買わないからね。」スーパーなどで、玩具コーナーから子どもを引き離すときの常套句である。確かに、子どもの要求に応じて、その度に玩具や本を買っていては、部屋中がものだらけになってしまう。
この、「同じ様なもの」は、本当に同じ様なものなのであろうか。「あのね、この○○は生まれた国も違うし、得意技も違うんだよ。」大人の目から見れば、同じ昆虫のカードであったり、似たような形の玩具であったりする。しかし、子どもにとっては「別のモノ」なのであろう。先日、出張先の公園で野鳥の写真を撮影している中高年のグループを見た。「あれは、○○カモだよ。あっちは、××カモだ。」僅かな違いを見とり、種類に分けることができる。これが、“分かる“ということである。
授業の中でも、似たような場面を見ることがある。「○○君と同じ様な意見だね(同じではないんだけど・・・)」「この考え方で、みんな一緒みたいだね(いやぼくは違うような・・・)」、()内は違和感を持っている子どもの言葉にならない思い。
大人から見た「同じ様」は、子どもから見ると「違うモノ」であることもある。逆に、子どもにとって違うと見えていたものが、同じ共通点で結ばれることもある。この、同じと違いを汲みつつ、学びの場に生かしていく授業が、子どもの考えを生かす授業なのではないか。先生の授業になるか、子どもと共にの授業になるか。その分水嶺が、子どもの視点を汲めるか否かにかかっている。
子どもの考えを“分かる”ことが、分かる授業の肝なのかもしれない。
|
189.「授業-教室万華鏡」
-子どもらしさからその子らしさを汲む-
万華鏡。私が子どもの頃、最もお気に入りだった玩具だ。万華鏡の中の、登場人物(色片)は数も限られており、色形も限られている。ところが、一度筒の角度を変えると、万華鏡の中には予想を超えた世界が出現する。病弱だった私は、頻繁にこの不思議な世界に潜入しては、空想を楽しんだものだ。
参加するメンバーはいつも同じ。個性的なメンバーではあるが、色形が変わる訳ではない。しかし、ひとたび違う仲間とくっついたり離れたり、違う角度で出会ったりすると、全く別の表現と世界を作り出す。どうも、この世界観は何かに似ていそうな気がする。
学級と授業。個性際だつ子ども。その子ども達がいろいろな角度で接し、様々な密度で関わり、多様な温度が生まれる。そう、教室は万華鏡だったのだ。しかも、覗き手は私だけではない。
万華鏡を覗いている私だけが、世界を見ている訳ではない。子どもも教室万華鏡を覗いている。そこには当然教師の姿も入っている。だからこそ、“その子”を通して授業を見ることが大事なのだ。一人の子どもの目線から、教室、仲間、教材を見つめ直すこと。ここを外してどの様な授業検討があり得るのだろうか。
理解研究は事例研究である(波田野)という。分かり方をわかるには、わかりつつある者の視点から授業を見つめ直すことが欠かせない。子ども中心主義もよいが、本当に子ども本位で授業を見ているのかどうか。自問自答する日々である。
「知るためには愛さねばならない。愛するためには知らねばならない(今道友信)」。
この視点にこそ、子どもの学びを学ぶヒントが隠されているのであろう。 |
188.授業の実践と理論の一体化に捧げた生涯
-稲垣忠彦先生の死を悼んで-
授業の実践と研究の間には、“見えざる河”がある。実践は現実的で個別の現象である。その具体性故に、論という普遍化の方向となじみにくい性格を持つ。普遍的な論や方法に還元しつくすことができない現象が授業なのである。
では、授業実践を研究する価値はどこにあるのであろう。一般化しにくく、法則化しがたく、形としてまとまりのある論に結び付きにくい授業。一度論理化できても、子どもや教師が変われば、堅い論は実践の多様さに飲み込まれてしまうであろう。その授業をより実りあるものに仕立てていく実践技能を、どの様に高めて行けばよいのであろうか。
稲垣忠彦先生は研究者でありながら実践を尊び、実践者の知を信頼し、子どもの可能性を疑わぬ姿勢で生涯を貫いた希有な研究者であった。それゆえに、迷い、悩み、自己自身の実存的な有り様に煩悶しつつ、生き抜いた先生であろうと推察できる。
私が稲垣氏の著書や論文に初めて接した時、“この研究者の後に私の思考や哲学は必要であろうか”と深く悩んだものだ。授業実践とその分析の背後に見える問題意識は、全くといっていいほど自分と重なっていると感じた。自分が教育や授業を研究する意味はすでに無くなっていたのではないかと思ったものである。しかし、それが自分に対する奢りと、授業実践に対する捉えの甘さ、自分に閉じた問題意識によって、自ら作り出した絶望であることに気がつくまでにさほど時間はかからなかった。なぜならば、実践と向き合うことで自らの無知を知り、問題意識を広げていかされることになったからである。そういう意味では、実践家と教室から考える力の源泉を借りることによって、研修や研究を進めてきたのだと言えるだろう。
「授業研究のまな板に上がることは、誰しもしんどい。教師としての力量だけでなく、人間性をも白日の下にさらされるのだから、ちっぽけなプライドにしがみついているようではなかなか踏ん切りがつかない。できることなら、そこはお互いに触れないで、いたわりつつ歩む道を探そうという気にもなる。
しかし、教師としての力量をつけ、少しでも子どもの可能性を開かせて行く授業をするためには、そのしんどいところでこそ、いたわり合い、認め合い共に歩める教師集団や職場でなくてはならないのだと思う」
この言葉に触れたとき、研究者は実践家に負けぬ真剣さと切実さを持って、授業に臨まねばならないということを、改めて実感したものである。しんどいから逃れるのではなく、しんどいが=真の問い(シンドイ)になるまで考える。論と実践はその延長線上でしか結ばれていかないのである。やがて、真の問いこそが、考える充実と実践に生きる知恵の創造へと繋がっていくのだ。
実践家にとっても研究者にとっても、教育の道を歩き続けることは、シジフォスの罪を生きることに似ている活動なのかもしれない。シジフォスと異なるのは、課された罪ではなく、むしろ自分から背負って歩く過程で伸びる自分と、伸び合う仲間の存在を実感できることであろう。稲垣先生の目指したものを、自分の内なる思いと重ね、自らの生きる力に換えて行きたいと願っている。 |
187.協議を支える三つの要
夏期は研修会、研究会の開催が増える。面白いことに、全く違ったテーマの会であっても、度々同じ先生と行き会うことがある。一人で多くの研究会に参加するということは、それだけ教育や授業に関心が高いということを示しているのであろう。こうした先生方が展開する熱い協議からは学ぶところが多い。
ところが、多くの研修会の中でも、熱を帯びた協議になる会があればそうではない会もある。協議のテーマや発言の時間をとっても、無言のまま気まずい時間が流れる。ジャニスの言う自己検閲行為=自分が場違いな発言をしてしまうのではないかという不安が作用しているのであろうか。話し合いは膠着したまま、指導者の講評や紋切り型の締めを司会がして会を閉じることとなる。
反対に、熱気に溢れた話し合いで、新しい知見を見つけ合い、探究し合って行く会もある。会が終わっても、メンバー同士が話し合いを続け、場合によっては二次会に発展することもある。では、充実した協議を行う上で個々に期待される振る舞いはどんな行為なのであろうか。
その要は大きく分けて三つほどある。一つは「ミッション=役割と使命」である。会に参加する責任を感じているということだ。二つは「アクション=具体的な行動」である。静かに座って、聞いているという行為も大事だが、他者に対して働きかけることが対話の充実を生む。そして三つ目は「セッション=会での交流」である。
対話を通して、多様な話し合いに参加していくということである。音楽の世界でも、セッションから生まれた名曲は多い。
知的な刺激を相互に受け合い、メンバーで新しい価値を協創していくということであろう。ミッション、アクション、セッションが揃った時、個と集団の中には更なる“パッション(情熱)”が生まれるのではないだろうか。このパッションこそが、次の学び合いに向けた期待を膨らます源となる。 (2011/8/3) |
186.なでしこジャパンのミーティングとチーミング
なでしこジャパンの快挙は国民の期待を超える成果を上げた。諦めない意志の力こそが、奇跡を現実に引き寄せるのであろう。 なでしこジャパンの佐々木監督は、筆者の高校の先輩である。NTT関東在籍時に、寮で時々お見かけしたことを思い出す。当時同級生がこの寮に入っており、佐々木氏のさわやかな話し方が印象に残っている。
この、佐々木監督は非常に長い時間をかけてミーティングをする指導者として知られている。また、監督が関与しない、選手だけのミーティングも頻繁に行わせるという。本音で話し合うことによって、より深い思考と信頼関係が共に構築されていくのである。ボールを蹴って走る練習だけでなく、考え合う活動によってゲーム観を揃え、互いの動きや役割を確認する。ミーティングという言語による話し合いが、なでしこジャパンのチーミングを支えているのだ。表現し合う、考え合う、高め合うという活動が、世界一という質の高い成果を生んだのである。
なでしこ世界一のニュースは、日本人全てに喜びと誇りをもたらした。サッカーにさほど関係ないという人でも、うれしさを感じたのではないか。では、うれしさを感じるのはなぜなのだろうか。それは、私達一人一人が、日本人としてチームジャパンに帰属しているという意識があるからであろう。プライドは個の中だけに存在する訳ではない。参加し、所属し、創り合うことから生まれるプライドもあるのだ。
学級づくりも同様である。話し合いは、考え合う力を伸ばすと共に、学級への帰属意識を高め、それぞれの子どもが個性的に育む場となる。個性を伸ばす環境は、個性を認め合える集団文化の中にこそ存在するのであろう。なでしこジャパンの選手が個性を発揮できた要因は、相互の認め合いにあったと言えるだろう。
(2011・7・18)
|
185.サラリーマンの姿に学ぶ「学びの型」のギアチェンジ
講演に出かける時、地下鉄や新幹線内で“学ぶサラリーマン”の姿をよく目にする。語学であったり、資格であったり、あるいは専門的な領域の学びであったり、テーマは様々だ。このサラリーマン達の勉強方法を見ていて、「勉強のパターン」がいくつかあることに気がついた。
①暗記方略=アンダーラインや、マーカーを引いた部分をひたすら覚える。
②本や資料の欄外に関連性のある情報を書き込む精緻化する。
③視座の転換=○○の場合はどうかという仮想の問いを立てて考える。
④図を書いて視覚化する。
⑤視覚可した図やグラフを動かしたり、条件を書き込んだりする。
という、学びのパターンである。学習すべき内容や、身につけたい内容によっても適切な学びの方法は異なるであろう。しかし、人によって得意な学び方がある様にも感じる。
①~⑤に向かって、機械的学習から有意味学習となる傾向がある様だ。更に、①側は試験対応型のアカデミック・スマートタイプの学習であり、⑤側は知的生活実践型のストリート・スマートタイプ学習に見える。①側は習得型・記憶再生型の学びであり、⑤側は創造的・探究型の学びなのかもしれない。
どの学びの型が優れているという訳ではない。だが、こうした学びの方法を学びの目的に応じてギアチェンジする能力こそ、本当の学力なのかもしれない。さて、自分はいくつの学びのギアを使い分けることができているだろうか。
|
184.教材を共財に高め合う授業
最近、小集団学習を用いた授業を拝見する機会が増えた。言語活動の充実を全教科で取り組もうとすると、あらゆる教科の中で“話し合う活動”が増加することになる。教科的コミュニケーション能力を育てることと同時に、教科的な知識の理解や思考力・表現力を高めることを目指した授業が時代から求められていると言うことだろう。
ところが話し合いを中心とした授業を実践するには、これまで以上に多くの事柄に配慮を必要とする。講義型、教習型、伝達型の指導よりも、繊細で柔軟かつ流動的な要素を持っているのが、話し合いを用いた授業である。
この図は、話し合いや考え合いを生かした授業の構成要素を整理してみたものである。こうして図にしてみると、対話的な学習の構成要素が見えてくる。多要素から構成される学びである故に、授業者にも子どもの側にも実践-体験を通した熟達が必要となる。対話的学習-学習的対話の体験を通さずに、話し合う力を伸ばすことが難しい。対話的環境の中で対話的な能力を発揮する活動によって、対話的な能力・スキルが身に付くのである。
しかし、小集団学習を行えば、子どもの対話力は本当に伸びるのであろうか。実は対話能力が伸びる小集団学習とそうではない小集団学習があるのではないか。「少数の子どもだけが学習の主導権を握る。」「子どもにとって課題が曖昧で何をどう話し合うのかわからない。」「話し合いがまとまらない上に、最後の答えを先生が出してしまう。」こうした状況は、教材が共財になっていない学習で発生しやすい傾向がある。
①話し合う前に答えが予測できる②話し合う前に、答えを出す人が決まっている(教師の場合もある)③話し合いが必要である意味が理解できていない④話し合う課題の内容を誤解している⑤話し合う社会性が育っていないという状況によって、課題と探求の意味が分かち持てない場合は、話し合いの意欲も低下してしまう。教師も子ども達も考える内容、仲間、意味を話し合いの共通財産=共財として探究し合うことによって、学びとなる話し合いが成立して行くのである。話し合いの形式を生かすことも大事だが、話し合いの中身と思考の動きが共有されているかどうかに着眼した指導も大切にしたいものだ。
|
183.“ちょっとしたこと”が持つ教育的価値に気づく
「したい」と「できない」の差は、思いの外僅かである。“ちょっとしたこと”で「したいこと」が「できること」に変わる。“ちょっとしたこと”とは、子ども自身の気分であったり、先生のヒントであったり、仲間からの視線であったりする。この、“ちょっとしたこと”が子どもの自信や学び甲斐を大きく左右してしまう。なぜならば、「したいこと」が「できること」に変化した場合と、「できなかったこと」に終わった場合では、子どもにとって学びの実感が大きく異なるからだ。したいという期待ができたという充実感に変わったのか。それとも、できなかったという喪失感に変わってしまうのか。子どもにとってはこの勝敗の分け目が、将来を左右する要因になってしまうこともある。“ちょっとしたこと”は、子どもにとって大事件である場合も多いのだ。
しかし、「したい」と「できない」の間で揺れているのは子どもだけではない。教師も日々この二つの間で揺れている。こんな授業がしたい、あんな子どもの姿を期待したい。子どもの中から生み出される望ましいその子らしさの発露を願いつつ、日々の授業に取り組んでいるのだ。多様な生活背景や個性を持つ子ども達に対して、多様な個性を同時に発揮させることは容易ではない。それでも、授業という協働空間の中で、子どもの集団と個を同時に育てることを企てる教師の取り組みには頭が下がる思いである。子どもと同様に“ちょっとしたこと”からヒントを得て、子どもを伸ばしている教師の姿には強い感動を覚える。
今年も「授業改善研究会」から“子どもらしさに学ぶ19”という、実践分析記録が届いた。多様なキャリアの教師が互いに自分の授業を材料にしながら、学び合いを通して授業改善を目指しているのがこの会である。この冊子を読んで感じたことは、先ほど“ちょっとしたこと”と書いたことが、非常に重い教育的な価値を持っているということだ。“ちょっとした”子どもの発言、表情や素振り、教師の気づきがきっかけとなって、実践が変わり、子どもの姿が具体的に変化して行く様子が丁寧に追われている。教師の変化と子どもの変化が相互に意味づけられ、実践者自身によってレビュー(再吟味)されている。
「できる」「わかる」という一般的な教育成果に加え、子どもにとって“知識・仲間・教師・自己”の価値を見いだしていく過程まで読み解こうとしている。更には、自らがこれから実践を創造していく上で必要な指導力の有り様まで、仲間と共に考え合っている様子が窺える。授業を記録に残すだけでなく、意味を持ったエピソードとして記憶に残し、未来の授業に活かす。学び合い考え合いながら、児童理解、授業理解、自己理解を協働で実践する教師の姿が「子どもらしさに学ぶ」という冊子の背を閉じているのだ。実践を支えるバックボーン=観は、仲間と磨き合う活動を通すことによって、より高めあっていくことができるのであろう。
(2011/5/9)
|
182.助け合う文化
人間は助け合うことを前提として進化をしてきた。親子、家族、社会という様々な場で、力を合わせる。個が共通の意図や目的、あるいは方法を他者と共有する活動によって文化は進歩してきたのである。助け合うという活動によって、心の相互乗り入れが可能となる。そこから、活動のエネルギーや新しい知識やより深い思いが生成されて行くのであろう。
新学期に新しい集団として集う子ども達も同様である。クラス編成当初は、「学級がある」という集団の存在の事実だけが子どもにとってのクラスの存在価値なのであろう。ところが、学校生活の中で仲間と関わり合いを深める体験によって、「ある学級」から「学級になる」というクラスの存在理由を醸して行くのだ。学び合い、教え合いも「学級になる」有効な学びの手段であろう。更に、学級の中に“助け合い”の文化を育てることも、子どもにとって学級と自己の価値を共に育てることに繋がる。助け合いの学級文化は、学級文化全体の進化を牽引する力になる。なぜならば、助け合いに参加する行動を通して、自己有用感を高めると同時に他者への信頼感も高まるからである。
現在の日本社会は地震という自然の力に文字通り揺さぶられている。マスコミでは「日本は強い国である」とか、「日本ならば必ずできる」という希望に満ちた言葉が繰り返し流されている。「強き国、成し遂げられる国」という主張に根拠を与える行為こそ、助け合いの精神、行動である。今こそ、大人が助け合いの姿を子どもに見せる絶好の時ではないか。「国がある」だけではなく、「文化的な質の高い国になる」ために求められている精神が助け合いの精神なのであろう。 2011/4/14
|
181.≪思い出す≫と≪思いつく≫
≪思い出す≫とは、過去に知り得た既知や体験を再生する思考である。過去に入れておいた情報を蓄積し、必要に応じて正確に情報を再生するのである。一方で《思いつく》という思考もある。これは、過去の再生のみに止まる思考ではない。持っている情報を元手にして、もう一歩深く、もう少し分かりやすく、より明確化した情報に仕立てて行こうとする時に、≪思いつく≫という着眼の瞼が開く。蓄えた知識だけに頼るのではない。自らの思考によって情報の価値を高めて行こうとする時に、≪思いつく≫という知的働きが活発になるのである。
≪思いつく≫ ためには、探求的に情報を処理する態度と能力が不可欠である。同じ組織の中で、同じ様な生活をしていながら≪思いつく≫人と、そうではない人がいる。この差は何によって生まれてくるのであろうか。自分自身も≪思いつく≫能力を磨きたいと願って来た。しかし、≪思いつく力≫、着想できる力を伸ばす方法を見つけることができないまま現在に至っている。
そんな折に、大先輩のK先生から「思いつくままに」という冊子が届いた。内容は一年間に亘り、学校で感じたこと、子どもを見て考えたこと、研修会で知り得たこと、読書によって気がついたこと、部下や同僚が研修で学んだ内容の分析・紹介等が250ページ程にまとめられている。
①毎日休むことなく継続し
②情報の引用や流用だけでなく、自分の考えや分析を加えて
③行政、学校、研修、子どもの姿、授業、教師、保護者、教育学という幅広い視野を持ち
④説得・指導する者としてではなく、子どもや教師と共感する者という視点を大事にしている
、という四つの哲学がこの冊子には潜んでいる。特に、①②④は≪思いつく力≫を磨く上で重要なヒントになるだろう。≪思いつき≫を時間の流れに任せてしまうのではなく、その時の今日に、まとめ続ける。継続した、情報の焦点化と表現によって≪思いつく力≫は磨かれて行くのであろう。
漠然と思いつくというが、思いついた時点で漠然から焦点化に向かって思考の収斂が始まっているのだ。身近な生活の中から情報を汲み上げ、情報の自分化を図っていくことが≪思いつく≫という思考だ。学びにも覚えることによって学ぶ学びと、考えることによって学ぶ学びがある。考える行為の日常化、習慣化こそ≪思いつく力≫を磨き、維持する基本的条件なのであろう。「一たび、退意生じるは、是、自棄自暴なり(菜根譚)」という。今日は疲れたから、他の仕事をしたから・・・という自己弁護をせずに、考えを具体の行為で表現し続けることが≪思いつく力≫を伸ばす最低限の条件なのであろう。
2011/4/1
|
180.指導を支える「捉え」と「促し」
●指導は学習者の状況を前提としてしか具体化することができない。学習者不在の場で、どの様な指導が良いかと問うと、その答えは抽象的で一般的なものにしかならない。中内敏夫は「教師が教えようとする内容と子どもが既に持っている知識が一致していたら」「教師が教えようとする内容を、一部だけ子どもが知っているとしたら」「教師が教えようとする知識を、子どもが間違って認識していたら」、指導の方法は変化する筈だと指摘している。
指導の具体的な方法や材料は、学習者との接点を視野の外において問うことが難しい。その原因は、○○学習というメソッドの側に学びの本態があるのではなく、子どもと内容との力量関係や適性処遇によって指導の有効性が決まってくるからであろう。
▲子どもの姿を捉えるということは、指導の基本的条件である。子どもと知識の関係を把握ようとし、子どもと子どもの関係を把握しようとすることから指導は始まるのである。そうして捉えた子どもに対して、学びに促す方法や内容や手順を組み立てていくことが、具体の指導を生む。優れた授業者は、子どもを「捉え」「促す」という二つのステップを蔑ろにすることはない。
◆嶋野道弘氏は指導には「センス」と「技術」の 二つの側面があると指摘している。そして、この二つは磨くことができる能力だと出張している。このセンスは「捉え」であり、「促し」は技術だと考えることが出来る。
▼「捉」という漢字は手偏+束であり、手で束にして掴むという意味を持つ。一方の「促」は人偏+速であり、足を速める様に働きかけるという意味を持つ漢字である。教師の指導力は、考え方によって様々な要素に分解できる。しかし、大胆に切り分けてしまうと子どもの「捉え」と、子どもの知的活動の「促し」という二つの部分に集約できると言えるだろう。教育が学習者の存在を前提とする活動である限り、「捉え」と「促し」は指導を支える二重視点なのである。2011.3.8 |
179.「練り上げ型授業」の呪縛
●ここ数年「練り上げ型の授業」を授業の理想だとする声をよく聞く。元々はStigler,J.W.とHiebert,j がまとめたThe Teaching
Gapに紹介された日本の算数授業の特徴に由来する表現であろう。一般的には、多様性のある意見を子どもから引き出し、対話を通して一つの知見にまとめていく流れによる授業と捉えられている。練り上げ型の授業は、算数だけでなく、様々な教科で理想的な授業の雛形になりそうな勢いである。
▼元々、日本の授業を研究した結果導かれた授業の“型”なのだから、それほど珍しい授業スタイルではない。起承転結のある授業展開で、ドラマチックな結に向かって行く授業だ。しかし、旧知の方法ではあっても、急速に新任が増えた様な学校では練り上げ型の授業が難しい新人の先生もおられると聞く。子どもに求める答えをどの様な順序で引き出し、取り上げ、子どもとまとめ上げていくのか。机上の授業設計だけでは、実践に結び付かないのであろう。
◆ところが、最近授業を拝見していて、疑問に思うことがある。それは、なんでもかんでも「練り上げ授業でなくてはならない」という呪縛に対する疑問である。無理に練り上げ型を目ざし、「練り崩し=まとまりのない授業」になったり、「練り戻し=散々話し合った挙げ句に授業前後で考えに変化が少ない授業」になったりする。そもそも、練り上げは一つの型であり、唯一の理想ではない。子どもと学習内容の力関係や、子どもの対話能力によって、授業の型は変わる。そういう意味で言えば、型は子どもの方から出るのだとも考えられる。
▲例え、「練り戻し」の授業であっても、考え抜いた結果、学習前と同じ考えに子どもの信念がプラスされれば良いのではないか。あるは、「練り崩し」の授業であっても、その崩れた考えから、子どもが自分で考えの道筋を組み立てていく学びがあっても良いのではないか。教師の意図が「練り上げ」に翻弄されてしまうと、授業で実現すべき“大事な何か”がおざなりにされてしまう。型に縛られ、学びの本質を見失うことがない様にしたいものである。型の中身こそ、授業の命である。
2011・2・24 |
178.「スタートカリキュラム」のすべて
上越教育大学大学院教授 木村吉彦 監修 仙台市教育委員会 編
「子どもの発達段階に応じた教育が大事だ」という指摘をよく耳にする。しかし、子どもの発達段階に応じることだけが教育の役割ではあるまい。子どもの中には教育によって顕在化-活性化する潜在的な発達段階があるはずである。新しい体験や学びによって、子どもの中の学習回路が拓かれて行く。教育は子どもの成長と発達に応じつつ、より積極的に子どもの学ぶ力を開発する力も持っている。例えば、「年上の子どもと交流を持つ」という新しい経験が、異なる年齢の他者と交流する力を活性化させていくのだ。子どもに内在する可能性は、環境からの積極的な働きかけによって、より具体的な膨らみを持つのであろう。
学校という場(環境)と子どもの出会いも、子どもの伸びる力を刺激する材料となる。時にはその環境が有する刺激が子どもの持つ力を越えてしまったり、相性が合わなかったりすることもある。近年よく耳にする様になった「スタートカリキュラム」は、こうした学習環境と子どもの成長の齟齬を調整する役割を持っている。小1プロブレムというが、プロブレムは子どもの側だけでなく、カリキュラムの側にも存在したのだ。生活科という柔軟で体験的な学びを中心としながら、子ども本位の学習を創造していく。それは、子どもの生活を学び化(文化化)し、学びを子どもの生活としていく挑戦でもある。
『「スタートカリキュラムのすべて」木村吉彦 監修 ぎょうせい刊』は、学校側のプロブレムと子ども側のプロブレムを学びに昇華させていく処方箋である。スタートカリキュラムの重要性を裏付ける論、実際の具体的実践事例、さらには実践例から得られた成果や特別支援教育との連携、行政の取り組むみまでが網羅された内容だ。低学年を受け持つ教師だけでなく、学校全体で読んでおくと子どもの育ちと学びを支える指導観を共有できる。
教育は“子どもを学力化すること”を主眼にしがちである。だが、一方で“学びを子ども化する”という視点も忘れてはならない。スタートカリキュラムへの取り組みは教師にとっても、子どもの育ちに根ざしたカリキュラムへスタートだと言えるだろう。
梶浦 真
|
177.“観”から“見”に降りる
●今年は年始から研究、研修の立ち上がりが例年より早く感じる。 新指導要領への対応を具体的に進めたい。そんな先生方の思いが、研修の取り組み姿勢に現れている。
新しい指導要領へ移行するたびに、毎回同じ話題が持ち上がる。新指導要領で授業の姿がどう変わるのかという話題である。
●それでは、指導要領の記述が変われば、授業が変わるのだろうか。指導要領の記述が変わり、記述の変化の意味を理解し、授業に持ち込み、教材選択や学習内容、授業設計を変えていく。だが、授業は言葉で改善の順序を追うほど簡単には変えることができない。これまでの授業観や実践を進める教師のスタイル、そして、目の前の子どもも急には新しい変化に付いては行けないからである。
●こんな時、お勧めしたい研究方法が授業検討会だ。生の授業を共通の軸にして、授業観と子どもの学びの観を明らかにしていく。授業というリアルな空間を教師が共有しながら、学びの諸相を読み解いていく。子どもの発言や指導言(発問-指示-説明)を分析する。伝達講習や論理研修も大事だが、生の授業から新しい授業の構成を分析してみることも大事だ。抽象的な記述を具体的な事例と結びつけて行くことによって、授業の抽象と具体が結びついていくのだ。
●授業観や学力観という、“観”が一致しにくい時は、“見”に戻るとよい。人生観、人間観、学力観など、観は目では見えにくい価値を表す場合が多い。いわば、観は心眼的な見方である。一方で、見学、見物など“見”は眼に見える現象を中心に見る。観という抽象が見えにくい時は見という具体に降りる。教育“観”の共通理解を促す“見”の窓口が授業である。
2011/1/25
|
176.天岩戸神話と集団の知恵
●日本では神代の時代から、話し合いが知恵を生むと考えられて来た様だ。天の岩戸神話では、神々の話し合いが問題解決につながる様子が見事に表現されている。
●天照大御神を岩戸から招き出すために、八百万の神は相談をする。そして神々の話し合いによって生まれたアイディアが、長鳴鳥を鳴かせたり、アメノウズメが躍ったりするという作戦として実行される。最後はアメノタヂカラオが得意の腕力を使い、天照を岩戸から引き出すという話の展開は周知の通りである。神々が話し合って知恵を出し合い、それぞれの神が自らの個性や能力を生かして、天照の心を外界に向けて開かせて行くのだ。話し合い、考え合い、高め合う神々の姿は集団による知恵の創出を象徴している様に見える。
●更に、この神話で象徴的な点は、天照が「鏡に映った自分の姿に気を奪われて岩戸の外に踏み出す」という部分だ。天照は自分よりも偉い神が来たと聞かされて鏡を見る。しかし、そこに映っていたのは自らの姿だったという。神々との対話を通して、天照は自分を見いだすことになるという結末は何を意味しているのか。それは、個が他者と関わることを通して、自分の個を見いだしていくということを意味するのではないか。
●神々ですら相談を通して知恵を創るのである。まして、凡夫である自分は今年も多くの人々と対話を通して学んで行きたいと願った初詣である。(2011/1/4)
|
175.沼津第一中学校のみなさんへ
先日は真剣に講話を聞いてくださり、ありがとうございました。
●夢がある人は夢に向かって今日の挑戦をする。夢や目標が決まっていない人は、今日一日少しでも何かに挑戦することを目標にする。夢を持っていないことは悪いことではない。自分で夢を創って行くことが大事。まず、今日一日の挑戦をする。挑戦すると進歩がある、進歩があると自信がつく、自信が付くと挑戦したくなる。
●自分と仲間を大事にする。自分を大切にする人は、友達も大事にできる。どの様な社会に出て行っても、心を許せる友を持つこと。そこから、困難に打ち勝つ希望や、互いに励まし合う助け合いが生まれる。自意識過剰になると身動きがとれなくなる。みんな、自分のことに一番関心があり、それほど他人のことは気にしていない。相手に関心を向け、相手を大切にすることで互いが大切な存在になる。今、目の前にいる仲間を大事にしよう。
●とにかく、自分の可能性を信じよう。私の様に、子どもの頃に全く勉強が出来なかった人でも、少しずつの挑戦で大きく変わることができた。誰でも、最初からできる人はいない。今できないことでも、明日にはできる様になる可能性を持っている。その可能性は、今日一日の挑戦から広がる。可能性の引き出しは、日々の小さな挑戦によって開く。
「自信をなくすことは、自分に対して盗みを働く様なものだ」ということわざがあります。小さな挑戦で自信を掴み、仲間と励まし合い、自分の持つ可能性が目覚めていけば、なりたい自分に近づくことができます。自分さがしは自分づくりです。みなさんの可能性が希望の実現に繋がることを信じています。 2010/12/9
※追伸 11日にみなさんからの感想が届きました。「自分の持っている可能性に気づいたので勉強からはじめてみたい」「目の前の仲間を意識して大事にしたい」「できないできないと、あきらめない様にする。あきらめない人になりたいと思った」等々、沢山の感想を頂き、私もみなさんから元気を頂くことができました。一生懸命聞いてくれるみなさんがいたからこそ、私も一生懸命話すことができたのですね。ありがとうございました。
|
174.指導力の向上と“共変わり”
ここ数年、教師の年齢構成が徐々に変化を起こし始めている。教師の世代交代が進み、若い先生を迎える学校も増えている。世代交代に伴い、教師の指導力を次の世代にどう伝えていくかが教育界全体の課題になっている。
「指導力」は
①人と人の間で伝えることに適した能力である。=文書や文字だけでは伝わりにくい高度-高次な能力を含む力であるため。
②伝える側と、伝えられる側の互恵的熟達関係が乏しいと、伝わりにくい。= 主に教え伝える側の教師と、学び手である若い教師が共に認め合いながら、協学していく必要がある。
③抽象的な論と、具体的な教育活動を意味づけながら納得世界を構成する。個別の事例と、子どもー学びの普遍性を自らの論考によって、結びつけていく。
という、非常に理想的かつ本質的な環境-状況を通して伝えられていくのである。
興味深い事は「教えることによって自分自身が充実した」という、ベテラン教師の声を聞くことだ。
中国最古の歴史書「書経」の中に、“教うるは学ぶの半ばなり” という言葉がある。一般的には、他人に教えることは自分が学ぶことにも繋がると解釈される。しかし、学びという行為には、「教わって学ぶ学び」「教えて学ぶ学び」二つの側面があると解釈することもできる。教える学びが学びの半分であり、教わる学びも学びの半分である。双方が揃ってこそ、「学びの全体性」が維持されるとも考えられる。
教えた方だけが変わるのではなく、教わった方だけが変わる訳でもない。双方が“共変わり”していく実感が伴ってこそ、指導力の伝えが成されていくのだ。教師の世代交代は多様な危機も孕んでいる。だが、その反面では生きる価値を協創する契機-可能性も提供しているのである。この可能性に賭ける者こそ、学びの実感を得ることができる。 |
173.「試」(子どもの質的な成長と学習評価)
「試」という漢字は、“きまりや形式”を意味する音を示す「式」と、言葉を意味する言偏から成る文字だ。決まった手続きや方法に従って、言葉で応えるという意味を持つ。A問題のテスト形式では国語や数学という教科の知識構造に基づき、基礎知識の定着が試される。B問題では同様に、この知識構造を背後にした応用力が試される。試験という文化的形式によって、計れる学力の性質が枠付けられるのだ。計られた学力は、計られた方法に縛られる。
「命題の真偽は命題を検証する方法の中に存在する」。この言葉は20世紀前半に哲学の新しい潮流を創った論理実証主義者の標榜していた思想だ。検証されないものや反証されないものは偽である。検証の方法が科学的で明確でなければ、真の思想とは言えないという考え方だ。では、子ども達の学力の伸びや成長はどう検証するのであろう。客観的に検証されなければ、偽の発達だということになってしまうのであろうか。
他者と関わる力や心の豊かさなどは、その伸びを客観的に捉え、量的に表現することが難しい。こうした数値化できない部分にこそ、教育の闇が潜んでいる。見えない危険こそ、最も危険度が高い危険なのだ。結果と数値は高い信憑性を持つが、信頼性が高いとは言えない。「測り方」と「わかり方」の間にある危険なマジックを賢く判断して、子どもの育ちを捉えることが大事である。
子どもの発達や能力の伸びは量的な拡大だけではない。質的な変化が伴うのだ。「今日は答えが出せなかったよ。でもね、図形の問題を考えるのはすごく頭を使って、つかれるけれど面白かった(三年生)」。結果が出る学びだけが子どもを育てる訳ではないのだ。この質的な変化は時として「試験の形式や決まりの枠を超えてゆく」のだ。テストの結果からだけでは捉えきれない「子どもの伸び」をどう捉えるのか。この伸びを捉えることが教師自身の教え甲斐や、次の一手の指導を適切化する策が生まれることに繋がる。
伸びる子どもに「試されている」のは、私たち大人の方なのかもしれない。 2010・9/3
|
172.有岡陖崖氏の指導と伊豆-下田小学校の授業研究
“分かる”という言葉の語源は、“分かつ”であるという。私が空の雲を見上げても、数種類の雲の名しか分からない。似た様な形の雲はどれも同じ種類の雲に見えてしまう。文字通り、雲のことが分からない-分けて見とることができないのである。物事を分けて捉える思考行為を分析という。分析の析という漢字は、木+斤(おの)を表し、木を斧で割るという意味を持つ。物事を分けて考える思考の在り方を表現した言葉が分析という言葉なのだ。ちなみに、英語では分析をAnalysis(アナリシス)と言う。これも、語源の意味はバラバラに分解して考えるという意味を持っている。
先日、高名な書家である有岡陖崖氏の指導場面を拝見する機会があった。弟子の書いた漢字を見て「ここは思い切って堂々と」「この点はなんとなくではなく、しっかり揃える」「この大きさでは、作品の良さが見えてこない。もっと大きく書ける紙で、大きく表現する。そのことによって、文字も意味する言葉も表現力を持ってくる」、と朱を入れながら指導を加えて行く。私の目では、どの文字も達筆に見えてしまう。文字の何処を直せばさらに良くなるのか、検討もつかない。書の善し悪しを分析して、分けて捉えることができない。つまり、私は書が分からないということである。
授業研究でも、“授業が分かる教師”と出会うことがある。「あの子どもの発言を今、拾っておかないと、後で辛い展開になる」「指示が明確で単純すぎて、冷えた授業になるぞ」「例題の組み合わせが悪いな。納得できない子どもへの説明が多い授業になるぞ」。そして、こうした授業が見える先生の予測通りの授業展開をしていくことがある。こうした先生方は、授業のどこを見ているのだろうか。
先の有岡氏の書道道場では、弟子達が先生を囲み、書に対する評価を聞いていく。書という思考の焦点を共有しながら、書の見方、評価を実技的に学んで行くのである。
伊豆-下田小学校の授業研究では、教師が子どもの思考の流れを推察し、学びの見とりを語り合う活動を通して、授業を分析して行く。教師が互いに児童観、教材観、授業観を交換し、磨き合うのだ。分かるという行為には、一人で分かることだけでなく、共に分かり合うという分かるもある。先輩と後輩との間で、あるいは人事異動で新しく下田小に赴任した先生と在職が長い先生との間で、子どもと教材と指導を分析し合って行くのだ。そこには、学び合う専門家としてのプロ教師が相互に高め合い、認め合い、究め合う姿がある。書が分かる目も、授業が見える目も、人と人の間で互恵的に創られていくものなのであろう。
2010/8/3 |
171・「教師力を高める教師の協同」
犬山市の実践資料を読む
~豊かで創造的に個の力を創り合う学び~
「協同学習は本当に必要なのか。個別指導や少人数指導の方が効果的ではないのか。」この問いは、協同学習の実践に取り組もうとする学校で良く聞かれる問いだ。だが、この問いは無邪気であると同時にナンセンスな問いでもある。なぜならば、学習とは子どもの社会参加を期待-前提として行われる行為だからだ。
①社会は協同的な活動体であり、個が知的行為を実践するためには社会参加が不可欠である。
②社会参加を実現する学力を育てる方法-環境は、協同的な間主観性を基盤とする必要がある。
③教師も子どもも社会的な活動に参加しながら、活動の成果と自己の能力を拡張していく存在で ある。
社会は協同性を持った活動体だ。社会は協同という活動様式を持っている。ここに参加できる能力を育てて行くためには、社会性を帯びた学び体験が不可欠となる。いわば、社会のOperating
Systemが協同であり、その上で動く人や知も協同性を前提とせざるを得ない。「協同学習は他の学習よりも素晴らしいのか」という問いは、「水の中で魚を育てるよりも素晴らしい方法はあるのか」という問いに似ている。社会の中で具体の協同を生きる子ども達の学びは、協同を方法としてではなく原理として位置づけるべきである。実社会という海はコミュニケーション的行為という水で満たされているのだ。
しかし、実際の学校における「協同学習」の実践は、容易ならざる側面も持つ。それは、目指す授業像が個に偏重した視点で捉えられていたり、協同に適した評価や教材の変形-加工などに馴れていなかったりすることに起因する。協同学習を充実させる指導の視点はこれまでの指導法よりも広く、捉えにくいと感じる場合もある。こんな時、先行の実践事例や指導に向けた考え方を参考にできれば、協同学習に挑戦するハードルを低くすることができるであろう。
「協同教育実践資料11 教師力を高める教師の協同 犬山市授業研究会 著 杉江修治・水谷 茂 監修 一粒書房 刊」は、協同学習を授業づくりの基盤に据え、日々実践に取り組んだ犬山市の先生方が授業づくりの具体例や課題等を資料としてまとめた本だ。「協同学習での授業はどの様な教材を使ってどの様に教えるのか」「協同での学びを自分の成長の実感として子どもに感じさせる手法はどうするか」「グループ活動における指示の与え方はどうするか」など、身近で日常的な指導のポイントが収録されている。この本を読んでいくと、犬山市の授業研究会に参加している様な錯覚に陥る。学び合いや伝え合い、考え合いを生かした学習を構想しようとしている実践家にとって、説得力ある事例を知ることができる貴重な本だと言えよう。
そもそも、協同学習が素晴らしいのではなく、質の高い協同が高い学習効果を持つのである。協同学習が必要だと言うよりも、“学習となる協同体験”が子どもにとって必要なのだ。さあ、その“学習的な協同体験”を学びの場としてどう仕立てて行くのか。この一冊の中に、理念としての協同を実践に換えるヒントが潜んでいる。
梶浦 真
|
170.新刊発行
『授業が見える漢字のはなし』
~文字に潜む学びのこころ~
はじめに
私達は日常生活の中で、当たり前の様に文字を読んだり書いたりしてきた。あまりにも身近で日常的な存在であるが故に、それぞれの漢字個々が持つ意味世界について考える機会は少なかったのではないか。ところが、漢字に込められた意味を読み解いていくと、非常に深い先人の叡智が潜んでいることに驚かされる。
教育に関わりが深い漢字の中には、現代教育学の知見と合致する様な意味を持つ文字も多い。漢字を創った中国古代の人々は、認知科学や教育学を知っていたのだろうか。そう思えるほど、学びや指導の本質を掴んだ意味を含む漢字がある。教育に関連が深い漢字の中には、教育の本質に触れる意味を持つ文字が多い。
元来、私は漢字の専門家ではない。しかし、講演などで、漢字と学習や指導との接点を語る中で、漢字と学習指導との深い関連に気付く様になった。漢字の成り立ちに絡めて、教育や授業、学びの諸相を考えると、自分自身に説明がつきやすいのだ。この本では、「漢語林-大修館書店」を元に、漢字と学習指導との繋がりを意味づけてみた。
漢字の持つ意味世界から見る、授業や学びは、より深く教育の本質を感じさせてくれるだろう。漢字の成り立ちに潜む様々な物語が見えてくると、漢字に込められた意図や願いも見えてくる。心に残る言葉もあれば、言葉に残す心というものもある。文字はいつの世も、人の思いや念と、密接に結びついているものなのだ。教育に関わる者が、漢字の成り立ちを通して自分の思いを見つめ直してみることも楽しいのではないだろうか。生徒に使わせるだけではなく、「漢語林」を教育的に読み直してみると新しい発見がある筈だ。
尚、これまで拝見した授業の中から、子ども達の発言や先生の指導言もエピソードとして使わせて頂いた。これまで授業を見せて下さった先生方に、謝意を表したい。
梶浦 真
|
169.N校長の危機管理と危機関知
先日、日頃からご指導を頂いている静岡のN校長からメールが届いた。新年度から中規模校から大規模校へ異動したという知らせである。大規模校に異動して、日常業務が圧倒的に量的に増加した。その結果、校長業として危機的な状態に陥ったという。N校長の言う、校長としての危機とは、具体的にどんな内容を持つ危機なのであろうか。それは、「子どもと接し、向き合い、語り合う時間が激減したことだ」という。子どもと接する時間が減少したことを、校長業としてピンチだと感じる教育的感性に敬服した。
学校には様々なピンチや危機場面がある。昨今、危機管理という言葉が学校経営の中心的な課題になっている。しかし、危機を管理するのではなく、自己を管理する自己が存在しなければ危機管理は機能しない。危機を察知し、何を危機と捉えるかによって、危機への対処方法は変わってくる。学校という組織の危機管理も重要だが、自分の状態を俯瞰的に捉えてピンチを感じるセンスを磨かなければ、真の危機管理はできないだろう。危機管理以前に危機関知能力が問われるのだ。
今から10年ほど前、O先生という大校長が勤務先の近くに住んでいた。土日なく働いていた私は、土日に度々この校長先生の姿を見かけることがあった。「先生、どうして土日に街の中に出ているのですか」と問うと、「君ね、校長はね生徒と職員を見失ったらアウトだよ。生徒を知らない校長なんて、自分の工場で何を創っているか知らない工場長みたいなものだ。子どもを見つけるために、できるだけ生徒のいそうなところを見て回り、学区内の危険箇所も同時にチェックするんだ。自分の目で確かめると、別の危険や別の生徒を発見することがある。」と言うのである。
学校の危機、教育者として自己の危機に気づく力は、質の高い校長力の必要条件であろう。炭鉱のカナリアの如く敏感な教育的感性と、自己評価によって自らを修正する力はどこから生まれてくるのだろうか。それは、教育者として進歩を続けたいという内なる願いと、子どもに対する愛おしみや、職員の働きに応えたいという思いからであろう。N校長の感じたピンチは、学校に関わる人々を感化する潜在的な力になると直感した。N校長の如き対人的感性は、学校組織の教育的な質を高めていく原動力である。
2010.6.1
|
168.教育実践を深める「絆」
人間にとって、自分の行いを客観視することは難しいことである。スポーツの達人や芸術のエキスパート達はハイスピードカメラやビデオで自分の姿を撮り、自己分析に使うこともある。古典芸能などでも、姿見の大鏡に自分の姿を映しながら練習をすることがある。自分で自分の動きや、音楽の表現、言語の語りなどをチェックするためには、自己を客観的に見る必要があるのだ。自己を修正するには、今の自己を知ることが必要である。授業研究でも、授業のビデオ記録が使われるケースがある。これは、授業を客観視し、加えて研究会で授業情報を共有する目的から使われる。
だが、教育ではカメラなどの機械の目を通した客観の目以外にも貴重な客観情報がある。その客観情報とは、「人」との関わりによって見えてくる、他者のフィルターを通した自分の姿である。教師においては、「子どもとの関わり」「同僚や先輩との関わり」「保護者やその他の大人との関わり」を通して見えてくる私がある。子どもの発言やつまずきにどう応じた自分だったか。保護者の指摘にどう応えた自分だったか。そして、同僚や先輩との関わりで何を見いだした自分であったか。人と私との関わりで見えてくる自分情報には、自分を知り、変えていくヒントが詰まっている。
先日、筆者の手元に「子どもらしさに学ぶ 18(授業改善研究会:山本清人会長)」が届いた。多くの実践家の実践記録と自評が収録されており、毎年発行を楽しみにしている冊子だ。この冊子を読んで、『他者と自己の絆を創造すること』が教育実践の要であり、授業改善の資源になっているという実感を得た。子どもとの関わりが深まることによって、“教師としての私の活動”が具体化する。具体化した教育活動は、同僚や先輩の教師との協議で読み解かれ、実践者を含む教師の財産へと変わる。そして、この協議を通して教師と教師の絆も強まって行くのである。子どもとの絆の強まりで実践が深まる教師。実践を実践協同体として読み解き合う活動によって、指導の財産へと次元を上げていく教師相互の関わり。こうした、人と人の絆の持つ人間的な価値が、「子どもらしさに学ぶ 18」の中から伝わって来る。
人と人の結びつきは、相互性にその本質がある。一方的な関わりは縛りであって、絆とは言えまい。「絆」とは糸+攀から成る漢字であり、“しっかりと結びつける”という意味を持つ。互いに結び付くことによって、人の絆は結びつきの質を高めていくことができる。教育が人と人の間で行われる行為であるかぎり、人と人の相互的関係が教育活動の基盤であり原理なのである。「子どもらしさに学ぶ 18」から、教師らしくなる、教育を人間の行為として見つめ直す実践家の生き方が見えてきた。 2010・5/26
|
167.言葉が生きる環境-子どもが生きる環境
経団連から新卒採用(2010年3月卒業者)に関するアンケート調査結果の概要が発表された。会員企業(回答企業425社)の採用選考時に重視する能力の第一位は、今年も「コミュニケーション能力(81.6%)」であった。これに続き、「主体性(60.6%)」「協調性(50.3%)」などが、企業の人材に欲する能力として挙がっている。
コミュニケーション能力を必要とする割合については、この調査が始まって以来ほぼ右肩上がりの推移を見せている。「主体性「協調性」も同様の傾向を持っており、こうした能力が企業にとって年々重視されている様である。では、企業が期待する「コミュニケーション能力」「主体性」「協調性」は家庭や学校でどの様に育てているのだろうか。また、企業が欲する「コミュニケーション能力」「主体性」「協調性」とはどんな力なのだろうか。本論壇では細かな分析に立ち入ることはしない。しかし、「創造的協働能力」が企業の求める力を括るキーワードだとは言えないだろうか。
コミュニケーションという相互活動、主体的に活動を企画―参加―調整する力、他者との関係性を築き活動を調整し合う能力。これらの能力は、「他者と具体的な活動に参加し合う」という、実質的協働性を対象にした能力だと言えるであろう。語る他者を持たないコミュニケーション。社会から孤立した、あるいは無秩序な主体性。反応的同調を指向する斉一的合同。協働という関係性が希薄になると、コミュニケーション―主体性-協調性は無意味なコトバに堕してしまう気がする。
GW が終わり、仲間と再会した子どもたちは何を語り合うのだろうか。仲間と共に、互いに語り合う。こうした対話が、子どもたちの心の中で真のゆとりを生み、表現し合い考えあう場を創る。語り合い、考えあい、分かり合う活動が「社会の求める力」の育成にも繋がる。やがては、子どもの将来を切り開く能力の基盤にもなるのであろう。
2010/5/6
|
166・記述の指導、三つの類型
「とても考えられた問題ですね」「B問題は馴れないと大人でもやっかいな問いですね。」学力テストが終わり、先生方からは様々な感想が聞こえてくる。「難しかった」「意外と簡単だった」と、子どもの方の反応は様々だ。国語のB問題は、大人から見ても難しい問題だという感想を多く聞く。必要な情報を取捨選択し問いに答えていくという、頭の使い方に馴れていないため、難しく感じるのである。
言語力は状況依存性の強い能力だ。「体育の時は言えるんだけど、国語になるとオレはダメだ。国語では信用されてないしね。」これは、先日ある小学校での子どもの呟きだ。少し状況が変わると、それまで言えていた言葉、表現がでなくなってしまう場合がある。言語力はを言葉を使用する状況や文脈から大きな影響を受けるのだ。国語はいつも100点、でも、友だちとは話すことができないという子どももいる。
指導要領には「描写・要約・記録・紹介・説明・報告・対話・討論」という多様な言語活動の事例が示されている。それは、言語を使う状況の多様さへ対応した指導の必要性を意味している。私は、例示された全ての言語活動を行うことよりも、①目の前の子どもに不足している能力から重点を置く部分を焦点化する②教師が得意な単元、馴れた題材から考えていく③活動を通す前と後でどの様に子どもの能力が伸びるのか、効果の予測・見積もりをするという、三つの点が重要だと考えている。
特に、記述の学びについては、B問題的、読解力検定型の学習に偏重せず、
①テキストを読み解いて問に対して答える=読解-解答型の学習
与えられた情報を問の内容に沿って読解し、解答していく学習。B問題型学習。
②自分の考えや思いを記述し、目的に応じてまとめる=創造型の学習
自分で文章や表現を生みだしていく学習。アウトプット型の学習。表現の創造。
③記述した内容を元に、話し合ったり、考え合ったりして、考えを深めていく学習=記述―対話型の学習。「聞く-話す-書く」を繋げていく。読書も「対話や記述」に繋げることができる。多様な言語活動を行うことだけでなく、「聞く-話す-書く」という活動を繋ぐことで、指導の効率も上げて行く。
という三つの「言語的な頭の働かせ方」を大切にしたい。
問われた問いに答える思考活動だけでなく、自ら考え、問を創り、考えを創り合う主体間の活動に参加をする。書くという行為が、考える私を創出し続けて行く。表現を創ることによって、子どもが自らを築いていける様な学習を構想したいものだ。
2010.4.23
|
165.優気を勇気に変えるボランティアの基礎知識
「できない」という時、できない理由は概ね二つである。一つは知識や技能が足りない時。もう一つは意欲や動機が高まらない時である。知識・技能と意欲は行動を起こす力の両輪である。この二つが、できそうだ、やってみよう、やる、という行動を生みだしていく。
教育の役割の一つは、行動に向かうハードルを下げるということだ。ここで言う行動は具体的な行動と、頭の働きとしての思考の双方を含む。「できそうかな」という可能性が持つ期待感は、様々な行動に繋がって行く。学んだことが具体的な行動や活動として主体的に構成された時、学びが生きる力に昇華したと言えるのではなかろうか。
「S市の駅に行った時、白い杖をついた人がいた。何か手伝ってあげたかったけれど、何ができるかわからなかったので、なにもできませんでした。」これは、かつて福祉をテーマにとり組んだ小学校・総合での子どもの発言である。「なにもできませんでした」という言葉からは、この子どもの優しさと無念さがにじみ出ている。この時、目の見えない方に接する知識や技能が少しでもあったならば、この子の行動は少し違ったものになった可能性があるのではないか。
「イラスト版 からだに障害のある人へのサポート(横藤雅人 編 北海道生活科・総合的な学習連盟ネット研究会 著 /合同出版 刊)」は、正にこうした子どもの行動に向かうハードルを下げる本だと感じた。肢体に障害を持つ人から、視聴覚機能の障害、そして認知的な困難を抱える方に対する接し方が具体的な図を使って説明されている。更には、なぜそうした接し方が必要なのか、接し方の根拠と理由も示されている。人の障害には多様な程度や種類がある。その障害の個性に応じて接する上で必要な知識や技能の基礎を予め知る。予備知識が子どもの優気を勇気に変えるのだ。小さな勇気が行動に変わり、行動をした子どもは自己有用感と優しさを一層膨らませて行くことであろう。
この本は総合的な学習は勿論、一般の家庭や企業などでも教育や研修に使うことができる内容を持つ。障害を持つ人に接する側が行動のハードルを下げることは、ノーマライゼーション社会の実現に繋がる。やがて、多様な人々との関わりを通して、自分自身と向き合うことも学ぶのである。本書は、現実の福祉活動に参加する実践的入門書だと言えるであろう。
2010/3/30
|
164.実用から生まれる習得
近年、地域によっては外国人の児童・生徒が増えている。外国人の子ども達が突き当たる問題の一つが、言葉の問題だ。両親が日本語を話せず、家庭では母国語ばかりで会話が進む。こうした子ども達の中には、日本語の習得が早い子どもとそうではない子どもがいる。日本語の習得が早い子どもに共通する傾向は、「友だちや先生とのコンタクト意欲が高い」という点だ。
手持ちの語彙は少なくても、知っている言葉を使って仲間に関わっていく。関わりの中で、知っている言葉を使いながら、使える言葉を増やしていく。更には、相手の言葉を聞き、自分で使えそうな言葉を取り入れながら、まねたり試したりしながら使える言葉を増やしていく。語彙が豊富な子どもよりも仲間との接触や対話を好み、社会性が高い子どもの方が日本語の上達が早いというケースは多い。言葉を使う必要がある「関係」を創れる子どもは、実践的な対話力を伸ばして行きやすいのである。
「言葉や知識は知らなければ、使えない。だから、教える言葉や知識を教えることが先だ。」という、知識先行論は今も根強い支持を得ている。だが、言葉や知識を習得する目的で子どもが存在する訳ではない。子どもが、仲間に自分の考えを述べたり、意志を実行に移したりする目的で、言葉や知識が必要になるのだ。言葉や知識を使う主人公は子ども自身である。言葉も知識も、実際に使いながら身に付くという性質を持っている。実用と習得を行き来したり、併行させて行くことで子どもの能力は実力を帯びていくのであろう。
(2010/3/15)
|
163.「指導力を創造する具体-抽象-具体の環」
教育界では「具体的でわかりやすい」という表現をしばしば聞く。一般的には、具体的な内容を持った話=わかりやすい話と捉えられている様だ。ここで言う「具体的な内容」とは、ある教師の体験であったり、ある子どもの変化であったりする。実際の教室で、実際の先生が子どもと共に実際に経験したり体験したりした事例を、具体的と表現することが多い。こうした、具体的な話には、実践の前と後の変化が具体的に盛り込まれているという特徴がある。できない子どもができるようになった、見えなかった子どもの活動が見える様になった等々。子どもや教師の“変化の前と後”が理解しやすく対比的に表現され、変化の要因も象徴的に示されていることが多い。
こうした、具体的でわかりやすい事例は、聞く者に強い印象を残す。事実の持つ具体性と、変化の様子とが現実的に感じられるためであろう。しかし、具体的でわかりやすい事例は、自分の実践に置き換えてみようとすると、急に見えなくなってしまうことがある。あれほど感動し、自らも行ってみようと思った実践が、実行に移そうとするとつかみ所がわからなくなってしまう。具体的な事例は、その場、そこで、個性的な一回限りのドラマとして生まれている。再現をしようと試みても、同じ様な状況を別の場で再現することは難しい。たとえ、同じ場所、人であったとしても同様の状況を再現することは困難だ。それ故、具体的でわかりやすい事例は、想像以上に再現が難しいのである。
具体性が過剰になると物事は見えにくくなる場合が多い。生活科や総合など、具体的な活動そのものを学習の基盤に据えた学習も、その具体性故に捉えにくいことが多い。対話や協働など、子どもが他者と関わり合う活動を通した学習も同様の傾向を持つ。生き生きとした、熱を帯びた話し合いの学習は、その時、その場所でのみ実際に起きた現象なのだ。具体的で個別の優れた授業から要素を抽象化、一般化、汎用化して、どの学級でも同様の学習状況を再現するということは相当に難しいことだ。同じ指導案に基づいた指導であっても、実践を共にする教師と子どもが変われば授業も変わる。では、優れた具体的で個別の実践は、他の教師の実践づくりには役立たないのであろうか。
具体的で個別の教育実践には、その中から何かを掴もうとする人間にしか見えない部分がある。また、同じ実践から得られる教育的知見は、知見を得ようとしている教師の力量や眼力によっても異なる。具体的な優れた事例は、読みとり手の知的な咀嚼、消化によって読みとり手の指導力に変わって行くのである。そして、読みとり手が自分の実践の中で、得られた知見を自分の指導として使って行く行為によって、再び優れた授業が具体化していく可能性を生むのだ。具体的な事例から要素を抽象化し、自分なりに抽象した知見を実践として具体化する。この、具体-抽象-具体を繋ぎ続けて行くことが、指導力の向上に結びつくのであろう。
(2010/3/2)
|
162.校長室の“ふりかけ”に潜む教育的戦略
ある小学校の校長室に入ると、そこには、何種類もの“ふりかけ”が置かれていた。しかも、種類が多く、数もかなりの量だ。校長によれば、良い行いを先生から認められた児童に対して、校長がこのふりかけをプレゼントするのだという。「なんだ、報酬系を使った単純な指導か」、と先読みするのは早合点というものだ。
①このふりかけは、子どものアレルギー等に一切影響しない製品を調査して選んでいる。
②このふりかけは、もらった子ども自身が食べてはいけないという掟がある。家に持ち帰り、父母など、自分 以外の家族に食べさせることが約束になっている。
③このふりかけには、プチ吉から超大吉までの「おみくじ」がついている。子どもは、このおみくじを楽しみにし て、良い行いを自分から起こそうとしている。
いずれも、常識的な配慮に見えるが、特筆すべきは②自分で食べてはいけないという掟だ。この掟は、教育効果を挙げる上で重要な役割を持っているのだ。
このふりかけをもらった子どもは、家に帰って家族のご飯にこのふりかけをかけてあげる。ふりかけをかけてもらった家族は「どうしてこのふりかけをもらったのか」と子どもに尋ねる。子どもは自分が認められた行いを、家族に話す。子どもは自慢げに自分の行いを語り、家族は「先生が子どものことをよく見ていてくれる」と感じる。結果として、子どもの自己有用感が育ち、家族は学校に対する信頼を深める。
更には、子どものよい行いを発見しようとする教師は、意識的に子どものよさを発見しようと心がける様になる。教師の子どもを見つける目、見つめる目、見まもる目を磨くきっかけになるのだ。
この小さなふりかけを媒介として、子どもと教師、子どもと家族、家族と教師が繋がる。そして、子どもの体験は、学校での楽しい思い出として子どもの心の中に残っていくのだ。見えざる関係に着目し、ふりかけに教育的戦略を潜ませた校長は、真の人間通だ。人と人の間を繋ぎ、心を通い合わせる戦略は見事である。人と人の関わり合いを生かした教育は、目に見えざる繋がりをイメージし、実現しようとする意図から生まれるのである。(2010・2・15)
|
161.“学ぶわたし”を創造する学び
生活・総合新時代-授業で語る新学習指導要領(北海道生活科・総合的な学習教育連盟刊)
わかり方を変えるためには、かかわり方を変えるとよい。かかわり方によって、既知は未知の窓口に変わる。身近な商店や公園、交通機関やそうした場所で働く人々。子ども自身が既に知っていると思っていた、モノやコトやヒト。それらが、学びを通して子どもとかかわる活動のなかで、問いを生み、探究の意欲を喚起し、新たな未知との出会いに向かって行く。だが、具体的なかかわりを生かした学習のよさは、意外と理解しにくい面も持つ。
地域のことを本で調べて学ぶ。調べたことを覚える。覚えたことを、他の地域の特徴と比較する。この様な抽象的なわかり方も学習を進める上で大切な意味がある。しかし、対象と関わって学ぶ、具体的な状況や個性的な現象を通して学ぶという、具体的なわかり方を通した学びも大切にしたい。質の高い生活・総合的な学習は、子どもの知り方やわかり方、理解の在り方を拡げ、深め、“学び、考えるわたし”を創造していく力を持っている。
「生活・総合新時代-授業で語る新学習指導要領(北海道生活科・総合的な学習教育連盟刊)」には、学びを通して変化をしてゆく子ども、教師の姿が織り込まれている。ヒトや地域などと関わる活動によって、気づき、思い、考えを確かにしてゆく子どもの姿。そして、子どもの変化を読み解きながら、活動環境をマネジメントしてゆく教師の視点が見える内容になっている。
更には、新指導要領と実践の関係を具体的に繋げて示している点も、読者に気づきを与えてくれるだろう。生活や総合は、その具体性故にわかりにくいという性質を持っている。学びの実態が、「学ぶ主体(子ども自身)」「使われる道具(思考や言語など)」「働きかける対象(問題空間)」という、具体的且つ個性的な要素で構成されている。具体性の過剰によって見えにくい学びを、指導要領の適度な抽象性と結びつけることで、読み解きやすくしている。実践と指導要領の関係を感じ、読み解き、自分の実践として構成していくガイドブックだとも言えよう。本書から得られた気づきは、読者と学びの関係を一層身近にしてくれるだろう。生活の中に学びを見いだす楽しさを気づかせてくれる一冊だ。尚、寺尾愼一氏、田村学氏、嶋野道弘氏の指導講評も収録されている。
梶浦 真
|
160/しっぽを変えると教育が変わる?
「試験というのは、学校の縦の関係の問題で、ドーアによれば、大事なのは学校教育の内容で、これが犬の本体なら、入試というのはしっぽのようなものだと。ところが、日本の教育はしっぽが犬を振り回している。」これは、中央教育審議会の第225回総会議事録に見える言葉だ。カリキュラムが犬の頭と胴体であり、しっぽ(カリキュラム実行の結果)が評価である。ところが、しっぽである評価が、本体であるカリキュラムを引きずり回しているという。非常にユニークで的を射た比喩ではないか。こうした主張は、目標準拠主義教育の弊害を指摘している様にも見える。
試験の成績や点数、あるいは子どもの行動の変容として机上で客観的に捉えられる成績だけを学習目標の中心とする。競争的な場面では、競走の公平性の維持に寄与する教育評価が重視される。客観性が高く、評価者の判断による揺らぎを回避できる問題を使って、学習評価が行われるのである。作文や対話やディスカッションによる評価が重視されないのは、評価結果に対する客観性、透明性を維持するためであろう。また、「総合的な学習」が批判される理由の根底には、点数と繋がらない学習だという見方があるからではないか。こうして、正答力偏重ともいえる学習が教育の中で幅を利かせていく。
その結果、小学校から中学校に進むにつれ、「点数が上がらない学習は無駄だ」という風潮が強くなる。こうした傾向は教師側にも存在するのではないだろうか。測りやすい学力、目標化しやすい目標を重視した学習ばかりが尊重されることになってしまう。教育活動や学習行為など、あらゆる部分が評価の対象になればなるほど、評価というしっぱは、教育の本体を振り回し続けることになる。
この正月、ある新聞社が学力低下問題をとり上げていた。批判の対象はゆとり教育や総合的な学習などの導入である。その批判の構造を見ると、学力が低い子どもの存在を指摘し、そうした子どもが育ってしまった理由をゆとり教育や総合的な学習の導入にあるとする筋書きだ。まず、できない子どもの存在を指摘し、政治主導の教育による教育改革の結果であるとする。非常にわかりやすく一般受けが良い論理展開だ。だが、最も過密なカリキュラムを実行していた時代には、「できない子」は本当にいなかったのだろうか。こうした論調は魔女狩りに似ている。詰め込みの時代にも、「できない子」を取り上げて、その責任は教育にあるとしていたのではないか。い しかし、そうしたテストで測ることができるという「でき方だけ」に焦点を当てて教育や学力を捉えたのでは、教育のねらいを進化させることができないであろう。こうした、マスコミの記事を読むと、高学歴なマスコミ人が、知識の傀儡(かいらい)になっている気がしてならない。保守的な教育観を再生産することによって、認知的不協和から無意識のうちに逃れようとしている様にも見える。未だに、沢山、強く、繰り返して教え込めば教育効果が保証されるという、行動主義的な教育観から抜け出せないのであろう。
こうした状況は「教育評価」に大きく関係する問題だ。計算の速算ブームは、速く正確に計算できることを重視して評価する学力観が後押しをした。今度は、知識の活用力が重視されると、知識を活用する問題を解く能力を高めたり評価したりする学習が流行るようになった。更には、読解力や記述による問題への回答力が重視される様になり、記述型の問題で記述できる能力が評価の対象になる。
評価には対象とすべき、能力や目標がある。教育活動において、目指す能力や目標が変化すると、評価の方法や対象も変化せねばならない。漢字の書き取りテストでは読解力を計ることはできない。数学の応用問題を解くことによって、数学的なコミュニケーション能力は掴むことができないのである。単純計算のわかり方と、記述問題のわかり方は異なる。わかり方と測り方には密接な関係があるのだ。評価の課題はこの点にあると言える。測り方が目標の達成を握っている限り、測り方が確立できない評価の対象は、教育の目標から排除され易いのだ。
例えば、「他者の考えを聞き、自分の意見を構成する」「教師の指導を受け、自分の考えを加えてまとめる」など、対人的な思考力はどう評価するのだろうか。言語表現やコミュニケーション能力の育成を重視するというが、コミュニケーション能力はどの様に測るのだろうか。この様な、測りにくいが、教育的に価値がある能力を評価する方法や、評価に必要な教師の技能などを議論する時期に来ているのではないか。かつて、論理実証主義者達は「命題の真偽は、検証方法の論理的客観性に基づく」という主張をした。この主張は、「測れない学力は、学力ではない」という主張と論理構造が似ている。しかしながら、論理実証主義の崩壊過程がそうであった様に、客観学力にしがみついている間は、教育の本質に迫る価値目標から乖離したままになる気がする。
現在、中教審の教育課程部会「児童生徒の学習評価の在り方に関するワーキンググループ」において、新しい学習指導要領に対応した評価の在り方が協議されている。観点の整理や、思考、判断、表現する能力を重視した評価の在り方が記述される様だ。そもそも人間を評価するという行為は極めて困難な要素を持っている。だからこそ、評価の文化を豊かに築き、教育としての評価の価値を創造して行きたいものだ。教育の評価は、温度や距離や高さを測るという様に単純ではない。計測機頼みでは評価が不可能であり、評価をする人間の評価力育成も必要だ。しっぽ(評価)を変えなければ、胴体の向き(カリキュラム)が変わらないのだとすれば、思い切ってしっぽを変えてみる。教育改革は、しっぽの部分からはじめた方が成果が挙がるのかもしれない。(2010/1/27)
|
159.「これからの生活・総合」 東洋館出版社
田村 学 嶋野道弘 編著 みらいの会 著
“学習機能付き”と機能表記されている家電製品がある。この家電製品は、何を学習しているのだろうか。過去の使用状況や、作動環境を記録しているのであろう。では、家電製品ではなく、動物や人間の学習機能はどうだろうか。動物には動物の習性、人間には人間の習性に適合した学習機能があるのだろう。人間には、人間らしい学び方が存在する筈である。
人間の習性や発達は複雑な要素で構成されている。従って、単純でシンプルな学習だけでは、人間らしい学びの場を構成することはできない。机上の教材などだけに頼る学習は、痩せた土壌で作物を育てる様な学習になりがちだ。窒素、リン酸、カリだけでなく、多様なミネラルや有機物を含む土壌によって、栄養価の高い作物が育つ。学びでも同じことが言える。体験があり、困惑と判断があり、外界への働きかけから受け取るものがある。机上での探究もあれば、仲間や他者との協議もある。こうした、複雑な要素を持った学びによって、人間らしい学びが構成されていく。
「これからの生活・総合」(東洋館出版社 田村 学 嶋野道弘 編著 みらいの会 著)は、こうした人間らしい学びを構成する一角を担う、生活科・総合的な学習の在り方を問う内容を持つ。子どもの発達の今と未来から、この学習の意味を説き明かし、実践を充実させる指導の在り方を示している。更には、カリキュラムのデザイン力や実行力、評価力という、教師力の向上にも言及している。豊富な実践紹介と学習-指導を繋ぐ分析検証からも学ぶところが多い。実践部分を読み、自分で分析をした後に、本書の検証と比較するという読み方もできる本だ。
近年、“メリット-メソッド主義”が教育の世界に影を落としている。メリット(点数という利点)はメソッド(利点としての点数を上げる方法)と結びつき易いのだ。わかり方と測り方を単純に結びつけてしまう。しかし、人間が生きていく上で直面する問題は、A問題やB問題、用意された読解の問題ばかりではない。本書の中で展開されている“子どもの学び”を読み解いてみて頂きたい。既知の知を確かめ、新しい知識に気づき、自分の知識世界を拓いていく子どもの姿が見えてくる筈だ。既知の知を確かめ、新知に気づき、未知を創造する豊かなメソッドが、質の高い生活・総合の学びの中に存在する。知識に使われる私から、知識を使う私への育ち。我々大人にも求められる学習の在り方が本書に示されている気がしてならない。
梶浦 真
|
158.中藤喜八郎氏の言葉
かつて、埼玉には、中藤喜八郎先生という教育界の巨人がいた。県の社会教育課長や旧大宮市の教育長などを歴任。多くの後輩を名教師、名管理職に育てたことから、人づくりの名人、中藤学校とも言われたほどだ。
私がこの先生と出会った頃は、20代後半であった。取材や指導を受けに、時々先生の自宅を訪ねたものである。 その日の中藤先生は、いつも通り饒舌であった。これからは、コンピュータの時代が来る。教員も学校も、コンピュータ時代に対応せねばならない。そんなお話しを伺い、帰ろうとしたときに先生から質問を受けた。「君は何に一番精を出しているか?」というのである。「好きなことに精を出すのは当たり前だ。しかし、精を出すと、精を出したことに対して、やり甲斐が湧いてくるものだ。だから、精を出す対象を探す前に、精を出すことそのことを目標にせよ」というのである。おそらく、当時新聞の営業という仕事に対して、力を注ぎ込めていない私の姿を察しての言葉であったのだろう。不完全燃焼をしている内心を、ぐっと押さえ込まれた様な気がしたものである。
「精を出すことそのものを目標とする。中途半端な取り組みや手抜きは、自分自身を疲れさせてしまう。」毎年年頭になると、私は中藤先生の言葉を思い出す。今年も、精を出す年にしたいと思う。(20101/10) |
157・メソッドとメリットを超える「協働の学び」
教育のメリット(長所)とメソッド(方法)は密接な関係を持つ。ドリル問題にとり組めばドリル問題に強い力が育つ。記述式の問題にとり組めば記述式の問題に強くなる。この様な、方法と利点を直接的に結びつける指導観は単純でわかりやすい。教育方法の長所(例えば計算の能力を上げること)を期待して、学習方法(計算の反復学習)が選択される。教育の専門家でなくとも、簡単に理解できる論だ。
だが、メリットとメソッドだけに囚われると、見失うものも多い。例えば、「話し合う力」はどの様なメソッドで育てたら良いのだろうか。話し合う力は、メソッド学習で育てることが難しい力である。話し合いのルールやスキルを暗記させたり、教え込んでも話し合う力の伸びは期待できない。話し合える仲間との関係や、話し合うテーマの切実性や真実性の高低、子ども達の対話力の実態などを鑑みなければ話し合いの場は充実しない。話し合う力は、話し合う活動に参加する学びを通して育つのである。
立川市立立川第五小学校では四年間にわたって、学び合い、高め合う子どもの育成を目指して研究を進めてきた。研究の中核に据えた指導法は「協働学習」だ。協働という学習方法は実践者の指導力によって、成果が大きく変わってくる。課題設定やグルーピング、ヒントの出し方などによって、学習の成果を高めることができるのだ。教師自身が“質の高い協働学習の場を生み出そう”という意識を持たねば、協働の学びは充実した成果を残すことが難しい。教師の主体的なとり組みの態度が、協働学習の出発点であり成果の源泉でもある。
この1月21日に、同校では研究発表会を開く。研究で見えてきたことは、協働学習の「豊かなメリット」だという。考え合いによって思考が深まった、学ぶ意欲が高まった、自分の意見がしっかり持てるようになった、など、子どものふるまいや活動の様子から協働学習の成果が見えるという。「意見がしっかり持てる」「考え合いで思考が深まる」というメリットは、ペーパーテストで評価しにくい力である。だからといって、メリットが無いとしてしまうのは短慮軽率に過ぎる。そうした力は、豊かで複雑、高度な能力なのである。メリットとメソッドを超えて、子ども達に確かな力を育てる。教育の本質に接近する指導の在り方を考える上で、注目したい研究発表だ。2009/12/20
|
156・授業が響く教室
教室には二つの種類がある。一つは、授業が響く教室。もう一つは、授業が響きにくい教室だ。響くとは、教師の考えや子どもの考えが伝わり合うという意味である。授業が響く教室とは、考えや意見が集団の中で使われ合い、創り合われていく様な教室だ。個々が集団に参加する活動によって、参加の意欲を高めていく。集団と共に高め合った考えや、思いが個に返ってゆく。
近年、一人一人の学力を保証する授業の重要性が叫ばれている。個別指導や個を鍛える指導。これこそが、個の学力を伸ばす方法だという声も根強い。だが、好むか好まざるかを問わず、子ども達は学校で集団生活を送っているのだ。子どもの周囲に拡がる人間環境と学力や学ぶ意欲との相関は、子どもにとって無視ができない学習条件なのではないか。学力形成と学級経営、集団づくりは密接に関わっている。豊かな人間環境を経験していない子ども達が、どうやって社会に参加していける様になるのか。この点も心配だ。
「失敗しても、アドバイスをしてくれる仲間がいるので安心して発言できる」「自分の意見が言えなくても、同じことを考えていた友だちが発言して、褒められると自分も嬉しい。自信が付く」「一人で解決できないことが、解決できた」「自信がなくても、少ない人数の前だと発言できる」(中学生)「1+1は2だけれど、人間は計算以上だと思う。二人だと、一人より何倍も楽しくなる」(小学生)。
子どもは他者との関わりを避けて生きていくことができない。学校という場で、先生や仲間と関わりながら、関わり方を学ぶ。関わりを通して学んだ知識も身に付けていく。学力形成と人間形成は別個のものではない。授業が響く教室づくりが、子どもと教育双方にとって大きな意味を持っている。授業が響く教室、社会性の豊かな教室。そんな教室を経験せずに、どの様な学力、人間が育つのか、問うてみる必要がありそうだ。(2009/12/7)
|
155,言語表現と中学校の校内研修
今年に入ってから、中学校での校内研修に伺う機会が随分と増えた。
研修のテーマは殆どが、「協働的な学習」や「コミュニケーション能力の育成」などである。
社会的な相互応答関係を通して学ばせる指導が、注目を集めている様だ。
新しい指導要領の特徴として、「記述の内容が増え、ゆとりからの転換を図った」という事ばかりが
マスコミによって喧伝されている。「言語表現の重視」「習得-活用-探究という学習形態(過程)の重視」も今回の指導要領の特徴を表していると言われるが、実際の授業の中ではどの様に取り組めば良いのであろうか。
更に、「学習における社会的形態の拡張」も、今回の指導要領の大きな特徴である。指導要領に加えられた記述の中には、「伝え合う」「意見交換し」「協同して問題解決」「互いに」「グループ活動など」という様に、個の学びから仲間と学び合う活動を通した指導をする記述が盛り込まれる様になった。これまでの指導要領では、特定の教科以外では、「他者と共に学ぶ」という学習の社会的形態まで踏み込んだ記述はあまり見られなかったが、この変化は何を意味するのであろうか。
言語表現というが、単純に考えを述べて自分の考えを確かめるという表現主義に止まっていたのでは、形式的な表現に止まる学習になってしまう。他者とコミュニケーションを通して伝え合い、水平方向で伝え合うだけではなく、協働というコラボレーションによって、意見や考えを創り合う学習を通して学ぶことが、子どもの確かな思考能力を伸ばすのである。させる表現からする表現へ、する表現から創り合う思考へと進んでこそ、新しい指導要領が目指す「社会に生きる力としての学力」を育てることができるのではないか。
表現-コミュニケーション-コラボレーションは下の図の様に、各教科共通の教育土壌として捉える必要があるだろう。子どもが生きていく社会は他者との出会いに満ち、それを避けて生きていくことは不可能に近い。社会とは協働で成り立って存在するものであり、そこに参加できる力としての学力を育てることが求められているのである。中学校の研究テーマとして、「表現し、伝え合い、考えを創り合う授業づくり」は、指導要領の変化の方向から見ても時宜を得たものなのではないか。
授業の中で、仲間と考え合った意見を述べる子どもの力強い表情。その表情から、未来に向かって自分自身を希望の核としていく意志の芽生えを感じることがある。これこそ、生きる力としての学力が育つ瞬間なのではないだろうか。
2009-11-18 |
154.変化の切っ先から教育の本質を読み解く
今、授業づくりはどこに向かおうとしているのだろうか。そもそも、授業づくりはどの様に変化をしてきたのだろう。新しい指導要領への移行に伴う授業改善が各学校において取り組まれている。新たに増えた内容や記述に基づいた授業づくりも、多く目にする様になった。だが、記述の変化を局所的に追ったとしても、授業づくりの基盤となる考え方を掴まないかぎり、改善の実感が伴う授業改善はできないのではないか。
教育界は「新しい」という言葉の響きに弱い。指導要領の改訂もそうだが、「新しい」という部分だけに注意が集中しすぎる様にも思う。だが、新しさや先進性が教育的な価値を代表している訳ではない。目新しさよりも、教育の本質的な価値への接近を変化の中に見いだしていく意識を持つことが必要だ。変化の切っ先だけを見ていたのでは、変化の本質は見えて来ないであろう。
『豊かな学びをひらく授業の構想/寺尾愼一 著 梓書院』は、教育問題の変化の過程を総合的にあぶりだした上で、これからの授業改善のあり方を示している。教育界にどのような変化が起きているかということに加えて、なぜそのような変化が起きているのかを読み解き、解説しているのが本書だ。学力低下問題や教育政策の変化、授業実践や学校づくりまで、現実的かつ具体的な視点から授業づくりの未来を見せてくれる内容になっている。
神聖ローマ帝国時代に興隆を見せたドイツ流剣術の極意は、「先(vor)」と「後(nach)」という二つの言葉に象徴されるという。先とは、相手の行動を先に読むことであり、後とは相手の動きに応じることを意味する。そして、特に戦況を左右する要因が、先に相手の動きや意図を読むことだという。変化の波に蹂躙されるのではなく、変化を読んで授業をつくる。未来志向の授業改善を具体化する上で、自分の位置を確かめ、行く先の見通しに展望を与えてくれる一冊である。
梶浦 真
|
153.「教室で語り、教室を語り、子どもを語る-明日の教室(第四巻)」
を読んで
教室という場は、子どもと教師が共に育つ場所だ。いや、子どもが育ち、教師は教育の専門家として熟達する場だと表現をした方が的確かもしれない。子どもは教わる側であり、子どものみが変化を要求される存在だという教育観は危険だ。教師も子どもとの対話や協働を通して、変化をしてゆくのである。子どもにどの様な姿勢で接し、いかなる言葉を交換するのか。
「明日の教室-第四巻-子どもに接する・語る(明日の教室研究会編集/ぎょうせい刊)」では、子どもとの関係を創る視点が様々な状況から考察されている。
「わからない」という言葉と、「わかっていない」という言葉は、含まれるニュアンスが異なっている。「わからない」という言葉は理解の不足を意味し、「わかっていない」という言葉は、理解意欲の不足を意味している。理解力よりも理解欲が、教師の力の伸びを左右するのだ。子どもを理解し、自分の実践を理解し、他者の授業を理解する。その理解の態度によって自己の実践感覚を磨いてこそ、指導力を豊かにしていくことが出来るのである。
「明日の教室-第四巻-」は、子どもを理解し、教室を理解する意欲を持つ教師にとって、刺激と共感と発見を促してくれる内容を持っている。子どもに接し、語るノウハウだけではなく、教室で起きている現象を「わかりなおしたくなる」一冊でもある。
一日という時間の物理的な長さは、どの学級にも同じように与えられている。とりとめのない一日としてしまうか、かけがえのない一日にできるかは、教師が子どもと学びを繋いで行けるか否かにかかっている。「明日の教室」は、子どもと教師にとって、かけがえのない時間を創り出すヒントに溢れている。明日、教室で子ども達と何を語るのか。「語」という漢字は言+互であり、一文字に語り合いの相互性を含み持った文字(漢語林)だ。語りの質が高まった教室は、子どもと教師が共に伸び合う「協室」になるのである。(2009・10.25)
|
152.教室を「協室」にするジグソー学習
東村山市立萩山小学校(山崎 憲 校長)では、学び手の協働を通して学力を育てる「協働学習」の実践的研究を行っている。“ジグソー学習”という小集団の学習によって、算数の実力を伸ばすことがこの研究のねらいだ。低学年から言語的な活用の基礎力を高め、堂々と数を語り、数を使い、数について考え合う力を育てている。他者と語り合い、考え合う活動によって、学び手の質の高い思考を促し、思考や表現を実際に交流できる力を伸ばしている。
高学力で脚光を浴びているフィンランドの教科書も、他者との関わりを前提にした内容構成になっていることが特徴だ。「・・・という問題を、一人で/ペアで/グループで/みんなで考えてみましょう」という記述が、教科書の中にも頻繁に見られる。
日本の新学習指導要領でも、共同学習(総則)身近な人と連絡を取り合う。感想を伝え合う(国語)互いに自分の考えを表現し(算数)伝え合う活動を行い(生活)他者と協同して問題を解決(総合)というように、学習の社会的形態が、個から他者へと拡張しているのである。学び合う、考え合う、語り合うという、社会構成主義的/活動論的な指向が強まっているのだ。当然、学ばせ方が変われば、教材や教え方も変化をすることになる。
これまでの教材や問題内容は、個がその問題を考えることで知識を獲得することを目指して設計されていた。個が学べれば、それでよかったのである。だが、チームや小集団で学ばせるには、グルーピングに適した課題の分割が必要となる。教材内容を、小集団学習に合わせて応用していく教材変形の力が必要になる。更には、子どもを学び合わせる言葉がけの工夫なども、個に応じる指導とは異なった視点を必要とする。
ジグソー学習は大学の授業などでも取り入れられており、小学生からこうした学び合いの形式に慣れていくことも、子どもにとっては学力となる。同校では
10月31日に「第39回全国協同学習研究大会」http://www16.ocn.ne.jp/~mrym/kenkyukai1.htmlが開催され、実践も紹介される。ジグソー学習によって、教室が「学び合う協室」になっていく活動から、小集団での学習指導のヒントが見えるのではないかと期待している。尚、同校の先生方による授業検討協議も、圧巻であり、学ぶところが多い。(2009/9/18)
|
151.人と人の間に学びがある
我が家の近くには入間川という川が流れている。この河川敷には野球の練習場があり、休日は子ども達の元気な声が聞こえてくる。先日、たまたま、野球を練習している小学生の姿が目にとまった。小学生でありながら、ピッチング・マシーンを使って、バッティング練習をしていたのである。私が子どもの頃は、ピッチング・マシーンなど、プロ専用の機器であった。時代が変わると、練習方法も変わって来るのであろう。
バッティング練習を見ていると、一人の少年がマシーンのボールを必死に打とうとする姿が目にとまった。一球目、二球目、三球目・・・・。全くタイミングが合わないようで、ボールに当てることすらできない様子だ。二十球近くを全て空振りし、がっくりと肩を落としている少年の気持ちが、私にはわかる様な気がした。「やっぱり、自分には難しいんだな」そんな呟きが聞こえてきそうな表情であった。
マシーンは便利な練習機器である。だが、どこまで行ってもマシーンに過ぎない。繰り返せば上手くなるというが、子どもの力と見合わないボールを空振りし続ければ、練習そのものから逃げたくなるのではないか。その少し横では、青年のコーチが、少年に対してゆっくりとバットを振らせて、フォームの改造を行っていた。子どもの顔の位置や、足を運ぶタイミングを修正している様子である。学ぶ子どもの方も、「こうか!こうか?こうか!」と真剣に、コーチに動きを確かめてもらっている。
数多く練習をするならば、機械を用いて練習をすることも合理的ではあろう。しかし、人が人と関わって練習をする効果は、繰り返しの回数とは違うところに価値や魅力がある。コーチと共に、ゆっくり、確かめながらバットを振る少年の姿から、人と共に学ぶことの大切さを教わった気がする。 (2009/9/14) |
150.質疑応答の背後にある“協働”
私は講演後の質疑応答が非常に苦手である。殆どの講演では、質疑応答の時間が用意されている。ところが、質疑応答で質問を受けることは殆どない。私の話が、よっぽどわかりにくいか、わかりやすいかのどちらかに偏っているのかもしれない。質疑応答の時間が苦手な理由は、質問が出ない会場のどこに視線を置いて良いか迷うからである。特定の先生に視線を送ってしまうと、その先生も目のやり場に困る様だ。その困っている様子を感じてしまうことが、自分の心の置き所を迷わせてしまうのだ。
ところが、先日伺った沼津第四中学校(芝厚校長)では、十五個以上の質問を受けることができた。講演後に先生方がグループミーティングを行い、質問事項を創る。先生方は講演の内容と、実際の教育課題を比較検討しながら、質問事項を練り上げて行くのである。「学力と意欲の育ちは、日本だけの問題なのか」「伝え合い、考え合う学習では、ルールを教えた方が良いのか」「グルーピングは偶然に任せるのか、教師が意図的に組織するのか」「教材を子ども側の問題として構成することは難しいのではないか」・・・・・。次々と質問が繰り出されてくる。先生方の協議の様子を拝見していると、実に熱っぽく意見の交換をしている姿が印象的であった。先生方の『協議力の高さ』はこうした研究活動で創られ、授業や会議にも活かされていると推察された。
更に、研究主任の先生が、子どもや教師の学習-指導に関わる意識をアンケートで汲み上げ、分析し、まとめて発表していく姿も見事であった。これも、研究主任に対する先生方の協力と、研究主任の主体的な研究意欲が結びついてのことであろう。
質疑応答という場面にも、その学校の組織性は反映される。今回は受けて、返すという単純なやりとりになってしまったが、次回は対話を通して共に学ばせて頂きたいと考えている。
人の集まりでは、集まることを活かして、関わり、新しい知的価値を創造していくことが大切である。この、沼津四中方式の質疑応答は、多くの学校(組織)でも取り組む価値があるのではないか。 (2009/8/27) |
149.グランドデザインを駆る
この夏も多くの学校に伺った。学校に伺った折りに必ず見せて頂く資料が、学校のグランドデザインである。学校規模に関係なく、現在では殆どの学校がグランドデザインを作成している。だが、問題はグランドデザイン=全体構想を作成することによって、教育的な成果が生まれているかどうかであろう。
「毎年ほどんど見直さない」「管理職を中心にした数人で決める」というのでは、なかなかグランドデザインが学校自身のものになって行かないのではないか。グランドデザインは掲げることも大事であろうが、その作成過程も重要である。作成過程を省略してしまうと、職員には自分と関係が感じられない、絵に書いたデザインになってしまう恐れがある。カリキュラムもグランドデザインも、書き表すだけでなく、実行系の力として機能させることが重要だ。
これらの情報が実効的な力を発揮するには、カリキュラムやデザインを実行する主体の存在を必要とする。つまり、カリキュラムやグランドデザインが、教師にとって関わりを実感できる形で作成することが求められるのである。教師にとって主体化しないグランドデザインは教育活動に向かって具体化することはない。グランドデザインは活動化することによって、デザインという形式から教育力に変化していくのであろう。(2009/8/17) |
148.大越基氏の指導に見る「協働」
7月23日朝、山口県・早鞆高校野球部を指導している大越基副部長(元ダイエー投手)の、指導方法がNHK総合で紹介されていた。その指導法の特徴は、チームワークづくりの徹底にあるという。大越氏は自らの高校野球生活を通して最も勉強になったことは、助け合い、支え合うチームワークの大切さだったという。今、高校野球の指導者に転身し、高校球児達にチームワークの価値を学ばせたいといと言うのだ。
バッティング練習では、バッターボックスに入る前に、投手とキャッチャーと球審にあいさつをさせる。「一回の打席に入る前に三回のあいさつをする。あいさつは相手とあいさつを交わすタイミング、間合いが重要である。こうして、人と関わりを持つ力を育てていくことがねらいだ」とのこと。選手が互いに声を掛け合い、伝え合って、ミスを招くプレーの見逃しを防いでいく。こうした指導を受けて、選手の意識が徐々に変わっていくことになる。
「自分達に足りない部分がわかってきた。強くなるためにはチームワークや支え合いが大事だ。」こうして、生徒達はチームワークの重要性を実感していく。やがて、選抜高校野球の県大会を迎える。大越氏はレギュラーに入れなかった選手のユニホームをベンチに持ち込み、選手に語りかける。「このベンチに入れなかった仲間達の思いを忘れるな。」実際の試合では、一人の選手のアクシデント(怪我)をカバーし合うプレーが飛び出す。その姿を見て、大越氏は選手達にチームワークの芽が育ちつつあることを実感する。
関わり合いや伝え合う力は、その価値を頭で理解するだけでなく、実感として知ることが大切である。この高校は二回戦で敗退したというが、助け合い、励まし合った体験の充実感は選手の心に生涯残り続けて行くことだろう。
(2009/7/23)
|
147.教師の【念頭力】が組織に活力を生む
激変する社会が組織の概念を変え始めている。構造的に盤石で、安定した組織では変化に対応できなくなっている。変化に対応する受け身型の組織から脱却することは、組織の新たな課題である。時には堅固に、時には柔軟に、そして自らが変化の核になることも必要だ。組織には創造的かつ動的な方向への脱皮が求められている。柔軟で創造力を有する組織が社会の変化を更に促進しているのだ。
学校という組織も、より柔軟で機敏な活動を求められる時代になった。瞬時のミスがICTによって社会に拡散し、問題を拡大させてしまう。子どもも保護者も情報ツールを持つ時代。学校の信頼は、そうした情報化に耐える組織力を必要とする。都市部では私学も含め、学校間の競争が激化している。信頼と魅力の双方が、組織としての学校に求められるようになっているのだ。
学校の組織力は、ある部分に端的に現れる。ある部分とは、子どもと教師の接点だ。子どもと教師の関わりは、子どもを通して周囲に拡散していく。子どもと教師の接点が、組織としての信頼性を高めも低めもするのである。
組織力の高い学校では、教師が“念頭力”を持っていると感じさせられることがある。念頭とは、今+心+頭だ。現在進行形の思いを活性化させたまま、意識の中に止めおくことを意味する。個々の教師が、学習者の実態を理解する姿勢や、学校としての教育ポリシーを共有する。個々の教師が理念や信頼で繋がってこそ、活力のある組織活動が可能となる。個々の“念頭力”が機能してこそ、学校という船は激変の教育海を航行して行けるのである。
2009/7/8 |
146.子どもの学びをあぶり出す教師の語り合い
授業の中で一人一人の子どもはどの様に学んでいるのだろうか。同じ教室にあって同じ問題と向きあっていても、それぞれの子どもの頭の中では違う物語が生まれている。子ども一人一人の個別的な知識が、一般化されていく過程を通して、知は練り上がって行くのだ。長さにこだわる子、面積から考える子、公式から考え始める子、友だちの考えに揺さぶられる子、先生のヒントから何かを読みとろうとする子。一斉授業であっても、子ども達の考えは実に個性的である。
だが、ここからもう一歩踏み込み、一人の子どもの発言や表情に着目して、その思考と心の動きを読み解いて行く。それも、同時に数人の教師がそれぞれにメモを取りながら発話を記録してゆくのである。教師それぞれが、一人の子どもに集中して学びを読みとり、次は、教師がチームになって、その学びを読解し合って行く。教師達の話し合いを通して、子どもの思考の変遷があぶり出されていく。教師の与えたヒントや言葉の受け取り方、これまでの考え方から新しい考えに変わって行く仲間を見て戸惑う様子、その子なりの思考世界が徐々に見えてくる。
模造紙に記された子どもの発言記録に対し、次々の教師の見取った子どもの思考世界が書き込まれていく。時には赤の油性ペンで、時には緑や青の油性ペンを使って、子どもの思考世界が豊かに再現されていくのである。それは、宝探しの地図に隠された暗号を読み解いていくかの様な活動だ。子どもの学び世界を読解し、指導に役立つ情報として翻訳し合って行くのだ。
・一人の子どもは周囲の仲間や教師と関係し合いながら学んでいる
・教師の教材選択や、発問のちょっとした言葉が子どもの思考世界を大きく左右する
・子どもは、基本的に自分の頭で考えたがっている
・他人の間違いを感じて、自分の考えを修正する力を持つ子もいる
・一見無意味な発言の中にも子どもなりの正解が潜んでいる
・・・・次々と、子どもの学ぶ姿から“学びの準法則”が見えてくるのである。
これは、下田市立下田小学校の授業研究の一場面だ。論理から子どもを見るだけではなく、社会構成的に子どもの学びの特徴を練り上げていく感じである。子どもが創った学びを、教師がチーム協議を通して再構成しながら吟味し合う。個々の教師が見取った学びが協議を通して教師自身に還る。子どもも教師も、考えの交流という社会的活動を通して、最もよく学ぶことができるのであろう。
2009/6/22 |
145.「現場を生き抜く教師のチカラ-野中信行氏のことば」
学校を“教育現場”という言葉で表現することがある。現場という言葉には、他の教育職とは異なり、子どもと直に対峙しているのだという意味が含まれているのであろう。子どもとの距離や直接性が現場という言葉に含まれているのである。「踊る大捜査線」という刑事もののテレビ映画で、織田裕二がこんな台詞を語っていた。「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!。どうして現場に血が流れるんだ。」
これも、事件と刑事の距離や直接性を表現した言葉である。
だが、教育現場という言葉は、どうしても私の言語的感性とは折り合わない。どこか違和感があり、しっくりこないのだ。そこで、自分の中では教育現場を“教育本場”と読み替えることにした。子どもと教師が学ぶ、学びづくり人づくりの本場=学校と捉えたのである。まさに、その「本場」で、人と学びは創られていくのである。
さて、今、私の手許に「“現場”を生き抜くということ」というサブタイトルが付いた本がある。『野中信行のブログ教師塾(学事出版)』がそれだ。教師と子どもが生き合う“本場(教室)”で生じる問題や、その問題の根底に潜む課題を深く簡潔に切ってゆく内容である。学校では、様々な現象や事態が次々と生じてくる。その時、どうやって問題を解決をしていくのか。問題の解決だけではなく、なぜそこのことが問題になっているのかを考える。更には、教師として生きねばならない“私自身”から目を逸らさず、具体と論を結び付けて行く筆致に引き込まれていく。
この本を一冊読むと、教師ではない読者でも教師人生を歩んで来たかの様な錯覚に陥る。これから教師になる学生や初任者をはじめ、保護者や行政関係者にも、興味深く読める内容だ。授業づくり、学力問題から、職員旅行や子どものエピソードまで幅広く身近なテーマを素材にして、修辞的な内対話で読者の思考を快く刺激してくれる。教師を含む教師の周辺で起きている現象をどの様にみていくのか。「野中信行のブログ教師塾」はその見方と、見るための姿勢を自然に考えさせてくれるのである。
捜査の現場は血が流れるのかもしれないが、教育の現場は血が通い、知が育つ本場である。混沌とした現場(本場)を生き抜かねばならない教師に対して、血の通った助言が得られる一冊である。
梶浦 真
※野中先生ありがとうございました |
144.本質という“質”を問う教育
~授業改善研究会に学ぶ~
かかわり方が変わると、わかり方が変わる。学ぶという行為は、問題や対象と関わる行為と密接に関わっている。習得、活用、探究は問題との関わりの程度と質に関係している。授業研究でひとつの授業に深く関わると、その授業の背後に潜んでいた関係が見えてくる。ある子どもに深く関わると、その子どもの持つ様々な関係が見てくる。家族との関係、友達との関係、そして、知や言葉との関係。
かかわりを決定的に左右する要素は三つある。量と質、そして相互性という三つの要素だ。関わる頻度は量的な要素。関わりへの丁寧さや集中力は質的要素。そして相互性は関わる対象と相互に影響を受け合う要素である。かかわりが変わると、わかり方が変わるということは、子どもも大人も同じである。わかろうとすると、かかわりが深くなり、かかわりが深くなると、かかわりの過程と対象がより本質的に見えてくるのである。
『子どもらしさに学ぶ 17(授業改善研究会編著)』が今年も私の手許に届いた。授業改善研究会は、静岡県を足場に、自主的な授業改善活動を行っている実践家の集まりである。この冊子は、実践家が自分の授業と子どもの関係を批判的に分析し、実践力を高め合って行く活動を記述化したものだ。それぞれの教師が、自分の授業と子どもの変化を質的に捉えている点が見事である。子どもの人間関係、子どもと学習との関係、そして子どもと子どもの未来との関係が丁寧に分析されている。 ・なぜ、その子どもはそこで考えることを止めたのか ・どうして、この授業で子どもが迷ったのか ・どうやって、教師自身が子どもや指導内容の問題点に気が付いたのか ・どの様に子どもと接すると、子どもと共通の視点を持てるのか 教育活動の本質が、“学びと子ども”という二つの視点から捉えられている。
学習指導の具体と授業改善を目指す理念を、互いの教師人生に織り込み合って行かんとする気概が伝わってくる冊子である。実践を読み解く量と質と相互性が息づき、子どもと授業、そして実践者自身に対する姿勢も伝わってくる。関係を断ち切られ、孤立した精神は、最早今日的な精神の有り様ではない。学びや教育の質を問い合う教師の相互性が、子どもと教師を共に創り上げて行くのである。本質という質を問うことの意味を、「子どもらしさに学ぶ」は教えているのであろう。 2009/5/18
|
143.協働的な学びで学力の質を高める教師
~ 岩城一磨氏の挑戦~
「手間のかかる協働学習が、なぜ、必要なのか。もっと優先すべき学習方法や、効率が良い学習方法があるのではないか。」 伺った学校で、 たびたび聞かれる質問である。
①協働学習が優れているという訳ではなく、優れた協働学習は成果の質が高い。
②学習内容や学習資料(教科書)は、個人の学力向上を標準的な対象としている。従って、協働学習は指導法のスタンダードになりにくい傾向がある。
③②に関連して、一斉指導で個にも応じるという難しい指導が無批判に受け入れられ、標 準的な教え方として定着している。
④社会的な選抜を行う方法が、個人内の能力を閉鎖的に測定する方法に偏りがちである。
⑤学習や発達が、個による習得的な学習を基盤にしているものだと、(未だに)捉えられ ている。
など、協働的な学習が定着しにくい理由は様々だ。協調的に学んだり、チーム活動を通して学ぶ経験は、教える大人の側もあまり経験がなかったのであろう。だが、「伝え合う力、考え合う力を伸ばす」「コミュニケーション」「言語表現を通した学習」など、学びは社会的な方向に向かって広がっているのである。授業を社会的に開くことが、これからの授業づくりの重要なキーワードとなっていくであろう。だが、授業として協働の指導を具体化していくためには、実際の授業として活動化して行く必要がある。
岩城一磨氏は、協働を基盤に据えた授業づくりに着目し、後進を指導しながら自らも協働的な学びを実践してきた教師である。協働の指導理論を実際の授業づくりに生かしながら、自らの指導法として採用し、編み直す活動を行っている。そのエッセンスが「指導教諭指導資料集/協働の授業づくり32の視点」として、冊子にまとめられた。
「そもそも協働の教育的価値はどこにあるのか」「各教科における協働の在り方」「協働学習における発表や発問の技法」、あるいは、自評の仕方や授業ビデオや写真の撮影方法まで、実践を前提にして解説されている。協働という指導方法を自らが後進に指導する活動によって、協働の授業づくりに必要なエッセンスをあぶり出した内容となっている冊子である。この一冊から、協働の授業づくりを通して得た知見を多くの先生方に語って行きたいという、強い思いを見て取ることができる。
語るという行為は、伝えるという目的によって説得の力を得る。「語」という漢字の旁(つくり)は、互という意味を持つ。つまり、言葉を相互に語り合う意味が、「語」に含まれているのだ。なぜ、人は語り合うのか。それは、伝えたい思いや考えを交換しあうことによって、互いの考えを創り合って行くことを期待するからではないか。自分自身の考えが、この冊子によってより深められていく。そんな実感を得られた一冊であった。2009/5/1 |
142.「子どもを認める?」「子どもが認める?」
子どもは認めてあげれば伸びるという。具体的な長所を挙げて認める、行動の結果だけでなく取り組みの態度を認める。そして、役割や行動を越えて、その子そのものの存在を認めることが子どもを伸ばすことに繋がると言われてきた。 しかし、子どもが伸びるのは、認められた時だけであろうか。子どもを認めるという時、大人は暗黙の内に自らを認める側に置く。その結果、子どもは常に認められる側に止まり、大人は認める側からのみ指導や教育を捉えてしまう。子どもが伸びるのは、大人から認められた場合だけではない。「子ども自身が、誰かを認めた時」にも、子どもが伸びるということを忘れてはいないだろうか。
○○君の意見は凄い、先生のしたことが凄い、みんなで協力できたことが凄い。この様に、子どもは相手や他者を認めた時にも伸びる、伸びようとするのである。他人の価値を認める、意識の中に見止め(ミトメ)た時、子どもは他者を認めた自己をも認めていくのだ。
認め合う学びによって育ち、育ちを認め合うことによって共に育つ。学校という他者と学び合う場でこそ、認め合いによって育ちの質が高まり、伸びの量も大きくすることができる。最初は他人であっても、他認によって仲間となり、認め合いによって自認の質を高めていく。子どもの認めを促す指導は、子どもを大人に変えていくのである。他を認める私は感動に正直な私であり、自己中心から脱皮して成長をする私なのであろう。
2009/4/15 |
141.便宜的カリキュラム俯瞰相関図(試作版)
個人メモ(図の補遺)
・伝統教科と総合・生活は相互に他方の学びを基盤とし合うことでカリキュラムバランスをより安定させる。
・伝統教科のみを基盤に据えてしまうと、教科的な(知識とその操作の)習得-活用のみが優先される危険がある。
・習得-活用と探究を、段階的系統性のみで結びつけてしまう傾向は無いか。 習得-活用は学習転移モデルを背景としているが、探究は批判的学習モデルや経験的学習モデルも背景にしている。従って、習得-活用-探究を階層的に捉えることには難があるのではないか。但し、探究を学習行為のメタ理論として捉えるならば、探究の中に習得や活用を位置づけることが可能である。
・習得と活用は相互に相関しているのであり、習得から活用への一方通行ではない。習得-活用-探究は学びに必要な諸相として、環学習的に繋がっている。その環を断ち切り、特定の場面を切り出したり、絶対的優先関係を決定することはナンセンスであろう。
・「実用」の領域は実社会(学校外での現実的問題)の問題解決を想定しており、学校カリキュラムの外に(便宜上)位置している。
・単純計算に過適応してしまうと、応用問題を解く場合にも数だけを取りだして計算してしまう。転移の順行性干渉とも言える。定型的熟達化を果たしても、適応的熟達に問題が生じる傾向あり。※PISAの7×3問題など。誤答の背後に潜む学習方略も視野に入れたい。
・個(独学)-共(共学)-協(協学)という、一人から学び合いに向かう、学習活動の社会性の拡張も視野に入れたい。
・更に、学習者の立場に立てば、伝統教科か総合かという様な区別はあまり意味を持たない。もし、子どもが授業を区別するとすれば、乗れる(参加できる)授業かそうではないかということだけである。・・・従って、この図表そのものが、便宜的な大人側の都合に立脚していると言えるだろう。(2009/4/8) |
140.問う問いと問われる問い
問いには、様々な種類がある。計算問題もあれば、記述を要求する問題、意見や考えを要求する問題など、問いは実に多様である。しかし、大きく分けるならば、問いは二つの領域に分けることができる。一つは与えられた問いであり、もう一つは自らが気づき、創造した問いである。
子ども達が学校において要求される問いの多くは、与えられた問いである。子どもは、自発的に問う力を持っているが、教師が意図的に問いを持たせることによって学習が進んでいくのである。問いを見つけ、深めつつ考えて行ける様になるためには大人の助けが必要なのであろう。
ところで、我々大人は生活の中でどの様に問いを見つけたり、創ったりしているのだろうか。大人になると、問いを誰かが与えてくれるとは限らない。自分で気づき、自分で問いを深めて行かねばならない場合が多くなるのだ。企業では“気づく人は伸びる”ということがしばしば言われている。気づく人とは、即ち、自発的に問いを構成できる人のことを指すのであろう。問いさえ深まれば、解決への手だてや意欲は自ずから高まる。問いを焦点化する力こそ、考え抜く力の源泉なのだ。
知識の基礎基本を問われる問い、活用力を問われる問い、PISA型の問いから現実的な問いへと、問いの種類によって求められる力は変化をしていく。そして、問われる問いに答える力から、自ら問いを発見する力を高めてこそ、気づく人になって行けるのである。問いに気づく力を持つということは、“伸びしろの長い学力”を身に付けるということだ。それは、大人になっても知的に伸び続ける学力だと言えるだろう。2009/3/21 |
139.“キー・コンピテンシー”の見える授業研究
ある中学校の校内研修は、職員間の垣根が非常に低い点が特徴である。教科の異なる同僚の授業を観て、職員協働で授業分析を行っていく。「題材を選択した理由がわからない」「子どもの考える時間を保証していた」「手厚い支援を必要とする生徒への指導は十分だったか」「この教材には、表面上の問題と、その背後に潜むもう一つの問題がある気がする」「私の教科ではあれほど勉強ができる生徒でも、他の教科では苦戦することを知って、生徒の新しい面が垣間見えた」・・・・。延々と、先生方の授業にかかわる協議が続いていく。自分の教科ではない教科の授業でも、積極的な意見交換を通して、先生方が学び合っていく。
教師が生徒から学び、同僚から学び、社会から学び、自分自身や置かれた状況からも学べる、学びの専門家であること。「教師が教えることを学び合うコミュニティを形成していること」が、学校における授業研究の生命線であると、ハーモンドやスノーデンは述べている。この中学校の授業は総じて質が高く、①生徒の授業参加率が高いこと②授業中の生徒の思考が継続していること③わからない問題に対して、あきらめない生徒が多いこと、が印象に残った。そして、何よりも感じたことは、生徒一人一人が先生や仲間から認められているという安心感を持っていることだ。
更に、面白いことがある。それは、こうした環学的/横断的な授業研究をすることによって、先生方が自分の教科以外の教科を好きになり始めていることである。「私は社会科なのですが最近○○科の勉強の良さが解ってきました」「○○先生の授業を見ていると、もう一度○○科の問題を解いてみたくなるのです。」
PISAの掲げたキー・コンピテンシーの中に、「多様な社会グループにおける人間関係の形成能力 (自己と他者との相互関係)」という柱がある。この中学校の教師陣は、このコンピテンシー(能力)を授業研究という実際の活動の中で発揮しているのである。生徒の先を生きる教師が、望ましい姿を体現しながら教育活動を行っている。富士山を仰ぎ見る山間の中学校に、これからの中学校教育の在り方を示す一つのモデルを見た気がする。
2009/3/11 |
138.教えないという教え方
~へき地校での協働学習/学び合い学習~
机を向かい合わせにして、5~6人の子どもが座っている。教師はやや離れた場所に机を置き、子ども達の様子を眺めている。子ども達は、互いに課題やワークを見合いながら、学習が進む。一見した感じでは、子ども達が学び合い、教え合いながら自習をしている様に見える。授業の進み具合によっては、教師の出番が非常に少ない。へき地の少人数で、この様な協働学習や学び合い、考え合い学習をすると決まって出てくる意見が以下の様な声だ。
「これは授業とは言えない。自習だ」
「教師は子どもを見守るだけで、指導をしていないのではないか」
「教えるべきことは教えないとだめだ」
「こんな手抜き指導では、子どもの学力が心配だ(保護者の声)」
「都会に出てもこんな学習で大丈夫なのか(地域の声)」
どうやら、“授業とは教師主導で講義をすることだ”と考えている人が未だに多いらしい。自分が受けてきた授業スタイル、勉強スタイルを追認再生産するのである。教師の手出し、口出しが少ない授業で学びが進むと認知的不協和を起こしてしまうのかもしれない。
○教師の指導の評価は、手出しや口出しなど行動に見える部分を中心に見る
○子どもがじっくり考える時間よりも、説明を重視する
○子ども達だけで学び合うといい加減で、効率の悪い学習になると信じている
という様な古い授業観に立つと、協働的な学習や学び合いの学習としての良さは見えにくくなってしまう。だが、子どもの考え合いや話し合いを見守る教師は、本当に何も指導をしていないのだろうか。
指導には顕在的な動的指導と潜在的な静的指導がある。顕在的な指導は「理路整然とわかりやすく教える。正しい知識を教える。」という、従来からの古典的な指導モデルである。一方で、子どもが考える時間を保証し、教え合ったり、問い合ったりする様子を見守り促す指導が、潜在的な指導のモデルである。
十分に教材研究を行い、子どもの性格や学力の変化を読みとって、最小限の指示で最大限の学びの効果を得ようとするのである。この様に子どもの学びを見守りながら、子ども同士が考える時間を生かした指導は、特に、少人数のへき地校の指導に向いていると言える。
・手をかけずぎず、子どもの能動的な学びの体験を重視する=少人数故の教え過ぎを防止。
・子どもの数が少ないため、表情や言葉の行き来を観察しやすい=学びの場と子ども個々の状況を適切につかんだ指導がしやすい。
・考え合い、聞き合いによって、他者の話を聞く耳が育つ=上級学校へ進んでも、聞く耳が育っていると学びのスタイルが変わっても対応しやすい。
・都会に出ても、他者と考え合ったり、対話をすることができる=試験に合格しても世間に出られないのでは困る。
こうした点を考えてみても、「教えない教え方=考え合わせ、語り合わせる学び」は、子どもの少ない過疎地域の指導法に向いていると言えるだろう。
先日、WBCの解説をしていた清原和博氏が、面白い話をしていた。「バットは振って攻撃をするだけではない。振らない攻撃というのもある。球のコースを選び、バットを振らずにフォアボールを狙う。今の押し出しは、振らないバッティングという攻撃である」というのだ。
子どもの性格や学力の状況を把握し、教材研究によって教材の特質を把握して、子ども達の考え合い語り合いを見守る。策を持って待ち、子ども達の考えを促すために、的確なヒントを出す時合いを待つ。積極的な待ちによる潜在的な指導によって、子ども達が主体的に協働できる学びの力を育てたい。地域の教育資源に限りがある過疎地でこそ、都会とは異なる方法で生きる力を育てる必要があるのではないだろうか。2009/3/1 |
137.「つくる」「つかう」「つくりなおす」
子どもは知を受動的に習得するだけではない。子どもは、自分にとって必要な知を創り出す力を持っている。生活科で、幼稚園児を小学校に招いての、ゲーム大会を企画した。ここで課題となったのは、役割の分担である。話し合いだけでは、なかなか意見がまとまらない。話し合いの内容が整理できないのだ。やがて、「必要な係りを書き出してから考えよう」という意見が出る。こうして必要な知をつくりだしていく。
子どもは知を創り出すだけではない。自分が創り出した知をつかうことができる。自分たちがつくった役割表を中心にして、役割を決める話し合いが進む。創った知を使いながら、課題に臨んでいく力を持っているのである。
子どもは知をつかうだけではない。自分が創り出した知を、状況に応じてつくりかえる力を持っている。場所は変わって、国語の授業である。班活動での話し合いによる学習が進む。しかし、意見はなかなかまとまらない。「この間の役割表みたいに、出てきた意見を、意見ごとに分けてみたらどうか」という意見が出る。意見を整理をするために、役割分担の学習で使った分類方法が役立った様である。子ども達は、必要性に応じて知をつくりなおす力を持っているのである。
「つくる」「つかう」「つくりなおす」という能動的・創造的な知性を伸ばす。確かな思考力や柔軟な発想の意欲を育てるためには、子どもの知の働きに着目する必要があるだろう。知を「つくる」「つかう」「つくりなおす」という三つの過程を経たとき、子どもの中の知識と知性が考える力として結晶して行くのである。2009/2/19 |
136.出場と塩梅と“材質”
前回は、伝達的な“授業”と、学習者の活動を求め、待ち、窺う“需業”という、二つの“ジュギョウのバランス”について書いた。ところが、「教えるべきことは教えるべきである」「まず、一人一人に考えを持たせないと学習が成り立たない」「指導内容が増えるということは教える授業を重視するということである」
という意見も多く聞く。とにかく、教えることなくして学習なしという考え方だ。押し得る(オシエル)=押しつけないと学力は得られないという教育観は根強いものがある。
だが、「教えるべきことと、そうではないことについて整理されていない」「ヒントによって知を引き出すことが不可能で、何も考えられない学習者がそんなに多いのか」「教える内容を学ばせるためには、説明や伝達以外に方法がないのか。説明や伝達で理解が深まるのか」という疑問も残る。
嶋野道弘氏は、指導は出場(タイミング)と塩梅(程度)が重要だと指摘しているが、 これは、伝達的に教えれば良いという安易な指導観への批判だと言える。更に、この指導の出場(タイミング)と塩梅(程度)に加えて、材質(質)という視点を挙げておきたい。どの様な教材や例示を使うのか、学習者の発言や疑問をどう活用するのか、個人が対象か集団が対象か。この様な指導の具体に関わる部分が、指導の材料(質)にあたる部分だ。料理で言えば、素材の鮮度や調理方法の適正を見抜く目にあたる。指導の強弱(塩梅)、タイミング(出場)に加えて、質(材質)という次元を加味することによって、指導は有効性を発揮するのである。
量は質と結びついて実効性を高め、質は量と結びつくことで具体化する。量というわかりやすい部分からだけ教育や評価を捉えるのではなく、“どの様な”という質的語りを必要とする視点から指導を捉える。その質的な語りを必要とする領域に、子どもの姿や教師の姿、学びと指導の具体-主体-実体が存在するのではないだろうか。
2009/2/10 |
135.子どもの学びを支える二つの“ジュギョウ”
授業という漢字は、「授ける」+「行為」という意味であり、伝達的な意味合いが強い。知識を授ける、考え方を授けるという様に、教師が持っているものを受け渡すというニュアンスが「授業」という言葉には潜んでいる。行動主義的な授業が中心だった時代には、説明が上手い、鍛え上手だということが教師に最も必要な行為=役割だったのであろう。
しかし、認知主義的な授業設計理論が導入されると、子どもの考えを引き出すのが上手い、ヒントを与えて支援することが上手いという様に、ややソフトな支援方法?が教師の役割として重視される様になった。知識や技能だけでなく、関心や判断力など、多様な育ての要素が授業に持ち込まれて来たのである。
更に、伝え合いや学び合い、探究型、活動型の学習では、学びの成立を促す複雑な役割が教師に求められることになる。伝え合いが起きやすくなる課題の選択や、探究を促す状況を準備する力、難しくても子どもに取り組む価値を見いださせる技術など、多様な技が要求されるのだ。
需要の需という文字は、「待ち、求める」「様子を窺う」という意味を持った漢字である。子どもの様子を窺いながら、子どもの思考や表現を待つ。授業という文字よりも、「需業」という文字の方がこの場合の教師の役割を適切に表現しているのかもしれない。実際には、授ける授業と、待ち、窺う需業の双方を適切に用いることが指導の要なのであろう。子ども達と学習を通して綱引きをし合いながら、集中した学びの世界に招き込んで行く。「授業」と「需業」を駆使できる力が、学ばせ方の上手い教師だと言えるであろう。(2009/2/1)
|
134.挑戦がある授業
Change! Yes we can ! オバマ新大統領を象徴する言葉がこのフレーズだ。何かを変えたい、みんなで取り組めば必ずできる、というポジティブなメッセージがこのフレーズに潜んでいるのだろう。その期待感が、オバマ氏を大統領に押し上げたのであろう。だが、この言葉には何か、トリックが潜んでいる気がする。
何を、いつ、どの様に変えるのか。何に、誰が、どう取り組むのか、具体的な変革と実行の有り様は見えてこない。実行の量と質、そして潮時(タイミング)が不明確なChangeは本当に実現するのであろうか。
言葉遊びに過ぎないが、change/チェンジに(all)を加えると、ch(all)enge/チャレンジとなる。Changeの語源はラテン語で“交換する(cambio=to bater)”だという。成果の質が高い教育効果を生み出す挑戦の継続こそ、真の教育価値を実現するものなのであろう。
授業にも、挑戦(チャレンジ)がある授業とそうではない授業がある。子どもの挑戦心や好奇心も大切だが、教師の側に挑戦がある授業は子どもの学ぶ意欲を引き出しやすいと感じる。挑戦のある授業とは、教師にとっても子どもにとってもねらいと願いが顕らかになる授業だ。変化を受けて対応するだけでなく、挑戦を教育行為の柱にして行きたいものだ。
(2009/1/21) |
133.“新しさ”を充実に換える
~授業の未来像と学びの本質に迫るヒント~
『木村吉彦 編著 小学校新学習指導要領の展開 明治図書』
“新”という漢字は、期待感を感じさせる文字だ。新品、新車、新学期、新年。いずれも、未来の可能性に対する広がりを感じる言葉である。反面、新しさは、同時に一抹の不安感を随伴することが常だ。未来は常に未確定である。故に、安定した高い成果を約束してくれるとは限らないのである。
現在の教育界でも、もっとも多用されている漢字が“新”である。新しい教育、新しい指導方法、そして、新学習指導要領等々。とりわけ、新しい指導要領への対応は、教師にとって最大の関心事だと言える。新指導要領というと、その変更点だけに関心が集まる傾向がある。どこが新しくなったかだけに、異常な関心が集まってしまう。指導要領は変化をした部分よりも、変化をしなかった部分が多いのだ。変わらなかった重要な部分を押さえずに、新しい部分だけを学んでも、根無し草の様な頼りない知にしかならない。新しさは、変化を要求する。だが、変化の連続だけでは、確かな教育の文化は構築できないのである。
“新”という文字にいささか食傷気味になっていたところで、興味深い一冊と出会った。 それが、「小学校新学習指導要領の展開-生活科編-(木村吉彦 編著/明治図書)」
である。新しさに対応しながら、生活科が持つ“学びという行為の原点”に軸足を置いて編集されているのが本書だ。しかも、19人の教師が自らの具体的な活動や、指導の経験を基にして、生活科の授業づくりの「これまでとこれから」を解説しているのだ。指導という活動の最適化を目指して、生活科の学びの真髄に触れながら、具体的な学習指導のあり方を示している。新しさだけに惑わされることなく、質の高い実践を子どもと共に生み出していくヒントがコンパクトにまとめられている本だ。
編著者の「TeacherからEducatorへ」という提案は、教師が「知識・技能を教える」という役割から、「能力をedu=引き出し/care=世話をする」役割への変更を薦めるものであろう。教師の役割の変化は、子どもと教師の関係、子どもと教材の関係、子どもと学力の関係を、これまでと異なる構造で創造することを求めるのだ。新指導要領が示す生活科の学びのあり方は勿論、あらゆる教科・領域における授業の未来像と本質を示す。「新らしさに対峙する不安」を充実した未来に変えていく力を持つのが、本書である。
梶浦 真 |
132.私論・試論(年末・年始号)
「学習の優先順位に潜む教育観の対立と調和」
-「伝統的教科」と「生活・総合的な学習」、
それぞれが基盤とする学習観の差異から見た教育価値の比較検討-
【要旨】「教科」と「生活・総合的な学習」は一般的に、性質の異なる学習だと言われている。二つのカリキュラム領域は、経験主義と系統主義、あるいは工学的接近と羅生門的接近(Atkin,J.M)、パラディグマティック・モード対ナラティヴ・モード(Brunner,J,S)など、対照的な性質を持つと考えられる傾向が強い。二つの学習が持つ目標の性質と構造、基盤に据えている学習・教授モデルを比較し、その共通性やそれぞれの教育的な価値を考察する。この考察を通して、日本における教科学習と生活・総合的な学習という二つの学習が持つ教育的価値を確認する。
★続きをご覧になりたい場合はPDFにてこちらでお読み頂けます。
|
131.学びの長距離走に子どもを誘う
TIMSS2007の学力調査結果がマスコミなどで紹介され、国際順位の高さと裏腹に学ぶ意欲や態度の低さが指摘されている。また、7センチと3センチの辺からなる長方形の外周を求める問題では、21センチという誤答が50%などに上るなど、問いを批判的に読み解く態度に欠ける点にも課題を残す結果になっている。この他にも、「数学に対する自信/中2(開催国中最下位)」「理科の勉強が楽しいと思う割合/中2(30カ国中27位)」など、高学年になるほど理数科離れが顕著であることもわかった。小学4年生段階でも、成績が高い割に学びに対する自信が低く、苦手意識が高いという傾向が顕著である。
教育の世界では、一般的に「わかればおもしろくなる」ということが言われるが、実際にはそうなって行かない様だ。もし、わかることで学びが楽しくなるのであれば、受験を勝ち抜いて大学生になった頃には、学ぶことが楽しくてしょうがなくなるはずである。そうならないのは、学習の特定の場面でわかることの楽しみを味わっても、それが持続できない状況があるからではないだろうか。学び離れという現象は、学びの形骸化を象徴している様に思えてならない。
与えられた問題を解くだけでなはく、自分で問題を創造することを学ぶ。同じテーマを持って、仲間と学び合う。大人自身が、学ぶことを楽しむ態度を持つ。社会の中、子どもの周囲に学びの愉しさを感じさせる環境が乏しければ、一時のわかった楽しさは霧散してしまうであろう。大人一人一人が、問うこと、学ぶことを楽しむ学びの物語を持つ。教師にも自分の学びを愉しむゆとりが欲しい。学ぶ量と、点数に拘り続けると、学びの本質的な部分が痩せてしまう気がする。成果を数に書き換えてしまう風潮は、社会全体を窮屈にし、学ぶゆとりを失ってしまうであろう。
school(scholē/スコレ-)とは元来、“閑暇”という意味を持っている。学校からスコレーが消えた時、学びも希薄になってしまうのではないか。日本に限らず、高得点を獲得しているアジアの国々の子ども達は、学ぶ自信や意欲が低い傾向が見られる。今、ここで点数を稼ぐ教育がいいのか、別の選択肢があるのか、そろそろ本気で考え直してみる時期に来ているのであろう。そうでなければ、点数は取れるが学びは嫌いという傾向は変わって行かないのではないか。健やかな者はより遠くまで行くという。健やかな学力を育てて、人生という学びの長距離走に子どもを誘いたいものだ。
(2007/12/16) |
130.かかわり方とわかり方
イ・蒸した芋をピアノ線で切り分けて、干し芋を作る。蒸し上がった直後の芋は、柔らかく、切ってもなかなか分けることができない。子どもが一生懸命芋を分けようと苦心している所に、干し芋生産者の手が伸びる。子どもの手に重なった生産者(ゲストティーチャー)の手がちょっと力を加えると、芋は子どもの掌の中で切り離されて行った。自分の手の中で、バラバラになっていく芋を見て、子どもの目は感動で輝く。
ロ・かつて地域を走っていた鉄道を調べる。すでに、線路も車両も現存せず、情報は書籍やネット、地域の人々の記憶の中だけに残っている。「自分たちで模型をつくってみよう」。車両はもちろん、線路の模型や、前後の駅を示す駅の案内版も作る。
ハ・地域の名物まんじゅうをみんなに紹介したい。説明だけではつまらない。クイズを作って、まんじゅうについての疑問に答えながら説明をする。「こんなクイズができたよ。わたしは、もっとおもしろいクイズを思いついたよ。○○さんの作ったクイズも、おもしろそう」。知恵を出し合って、まんじゅうクイズの内容が豊かになっていく。
ニ・昔の遊びを身に付けながら、遊び方を説明していく。あやとりの遊び方を、一生懸命話そうとする子ども。しかし、なかなか手と口は同時に動かない。「ペアやグループになって、お互いにアドバイスしながら練習するといいかもね」と、先生がアドバイス。15分後、環になって相互に練習をした子ども達の説明口調は、短時間で自信に満ちたものに変わっていた。
イの学習は、干し芋の生産者を目指す学習ではない。干し芋生産者の持つ技術やコツを、体験によって知る。干し芋の向こう側に、それを作る人々の技術の素晴らしさや、困難が見えてくる。地域の名物、干し芋はこの体験を通して、子どもの中で価値が変わっていく。生産者とのかかわり、干し芋づくりとのかかわりを通して子どもは学んでいるのである。
ロの学習は、鉄道会社に就職するための基礎学習ではない。廃線の歴史を通して、地域の人々の思いを知り、すでに無き鉄道の模型を再現する活動を通して、鉄道の歴史と地域の歩みに迫る。社会の中に埋もれている情報を調べ出す学びに加え、リアルな模型を作る活動を通すことによって、廃線と子どもの距離が縮んでいく。造り出すという行為を通して学ぶ。一見、図工の学習にも見えるが、子どもの創造力の奥には、現実の鉄道が走っているのだ。自分たちで造るという、対象とのかかわりを通し、地域の廃線は子ども達にとってこれまでと違った意味を持って立ち上がって行くのである。
ハの学習は、まんじゅうの売店につとめるために、まんじゅうを学んでいる訳ではない。まんじゅうの紹介をするプロジェクトを通して、様々な表現を工夫する活動によって学んでいるのである。友達と同じ意見をまとめる。友達と異なる“異見”を調整しあって、一本化する。友達との意見のかかわりを通して、より質の高い意見が生まれていく。こうして、知を高め合う活動の価値を知り、考え合う力を身に付けて行くのである。
ニの学習は、遊びのインストラクターになる学習ではない。いや、これは、遊びのインストラクターになる学びである。言葉と模範演技によって、昔の遊びの遊び方や楽しさを
表現する活動を通して、子ども達は学ぶ。個別の練習ではなかなか成果が上がらないという子ども達の様子を見て、先生が助言をする。このかかわりが、子ども達のかかわりを紡ぎ出し、相互表現を通しての学びが進む。この子ども達は、昔遊び以上の何かを知り、身に付けようとしていると言えるだろう。先生と友達と、昔遊びとのかかわりを通して、である。
この学習は、静岡県内のある小学校で拝見した、「総合的な学習」の学びの様子である。テーマは「すごいぞ 僕たちの街」。街の個性や特徴を追究し、表現する活動を通した学習である。人とかかわり、地域とかかわり、先生とかかわり、友達とかかわる。その、かかわりを通して学ぶことによって、分かり方が変わる。わかり方が変わると、対象とのかかわり方が変わる。芋は単なる食べ物から、伝統と技術に支えられた名産品に変わり、友達とのかかわりで考えを磨き合うことによって、対話の価値を知る。かかわり方が変わると、分かり方が変わる。この変化が、成長であり陶冶(人間形成)なのである 。総合的な学習は、漢字の反復練習を通して漢字を学ぶ様に、学びの内容と結果が直接的に結びついている訳ではない。だが、かかわるという活動と体験を通して、確かに学んでいると言えるであろう。伝統的教科の様式で学べることと、総合的な学習の様式で学べることは同じではない。総合の学びの価値の大切さを実感させられた静岡の実践であった。(2008/12/5)
|
129.コミュニケーションのロス・ミス・パス
~組織の危機管理に潜む罠~
東京都で、重体の妊産婦が救急医療を受けられぬまま、亡くなった事件が問題になっている。産婦人科の医師不足や、複数の大病院が存在する都市故に責任の真空地帯が生じたなど、色々と原因が指摘されている。
しかし、最も重大な問題は、医師間のコミュニケーションが上手く機能しなかった点にある。患者の引受け先を探していた担当医は、緊急性や症状の重篤性を受け入れ依頼先の医師に訴えたと主張している。一方で、引き受け側の医師は、それほど治療の緊急性を感じなかったという。
知識を豊富に持つ医師がいて、高度な医療を施せる機器があり、患者を搬送するシステムを持っていても、コミュニケーションが機能しなければ無意味である。コミュニケーションが機能しない原因は、大きく分けると三種類ある。
①コミュニケーションのロス=情報を失ってしまうこと。情報が希薄になってしまうこと。
②コミュニケーションのミス=間違った情報を発したり、間違った情報を信用したりしてしまうこと
③コミュニケーションのパス=情報の受信、発信を避けようとしてしまうこと
この三つは、組織運営の命取りになる場合がある。危機管理はコミュニケーションの問題と密接に関わっているのである。個人としても、組織としても、コミュニケーションを失うことは全てを失う危険をはらんでいる。
学校の組織運営や、危機管理もコミュニケーションの「ロス」「ミス」「パス」に注意したいものだ。「そんなつもりで言った訳ではない」「間違った情報を伝えてしまった」「伝えるべき情報を伝え忘れた」、この様な、情報のヒヤリハットは誰でも経験したことがあるのではないだろうか。ちょっとしたボタンの掛け違いによって、失うものは大きい。場合によっては、取り返しがつかなくなる場合もある。(2008/10/23) |
128.坂田昌一博士と松陰の指導法
ノーベル物理学賞受賞三氏が名古屋大学で学んでいたということで、名大の教育が話題になっている。名大物理の指導方法は、坂田昌一氏がその基盤を創ったと言われてている。坂田氏は、朝永、湯川と並ぶ素粒子論の大家である。坂田氏が用いた指導法は、課題を中心にして自由闊達に討議を行う形式であったと言う。当初は、「話し合いによって、どんな物理の知識が身に付くのか疑問だ」という批判の声も聞かれたが、現在でもこの指導法が貫かれている。講義によって知識を伝達するのではなく、語り合うという社会構成的手法を中心とした教育が名大では行われていたのである。坂田氏は、こうした学習によって、知識を確かめ合い、問い合い、創りあう力を伸ばそうと考えたのであろうか。
この原型とも言えそうな指導法を用いていた人物がいる。かの、吉田松陰である。一冊の書物を輪読し、話し合いを通して、意見の共通点や解釈が異なる部分を整理してゆくのである。こうして互いに考えを整理し合う行為を通して、それぞれが資料の要点を自分のものにしていくのである。この指導法は抄録法と呼ばれているが、協働による知の再構成を活用した学ばせ方だと言えるだろう。伊藤博文や山県有朋、高杉晋作という、行動する思想家を生みだした松陰の指導法と、ノーベル賞受賞者を生みだした坂田博士の指導方には共通点がありそうな気がする。
考えてみれば、孔子、仏陀、ソクラテス、キリストという四聖人も、師弟や他者との語り合いで指導を試みた人達であった。協働によって人と知が高い次元で結びつくという作用は、昔から経験的に知られていたのではないだろうか。(2008/10/10) |
127.協働学力のススメ(続・協働学力の発行)
前作、“協働学力”出版の反響は意外なほど大きかった。少人数・習熟度別学習が全盛の中で、時代に逆行したかの様なタイトルの本だったが、かなり多くの先生方から共感を得ることができた。この本の出版が、私を全国の学校に遊学させてくれるきっかけとなった。都会の学校にも地方の山村の学校にも、学び合い、考え合い、協働を通して充実を生み出し合おうとする先生方と子ども達がいた。
“協働”は指導のスタイルだと思われがちである。しかし、グループ学習やペア学習という指導スタイルの中に、協働的な学びの本質が存在している訳ではない。共に学び合う活動の質を高め、学習成果の質を高めて行こうとする“指導スタンス”が、協働的な学習の価値を高めているのである。学び合いという学習方法が優れているのではなく、優れた学び合いを促す指導が高い教育成果を生む。そう信じる先生方の姿勢から、多くのことを学ばせて頂いた。
更に、学校だけでなく、企業における研修も協働化が進み、グループによる体験活動や課題解決的実習、ワークショップによって研修が実施されていることも学んだ。実社会の学びが、協働化-体験化-具体的活動化しているのである。そうした研修の場で、他者と上手く関わることができない方々の姿も見た。『協働できる資質・能力は子どもが将来必要とする学力なのだ』という実感は、自分の中で一層揺るぎないものになって行った。協働は単なる指導法、学習法ではない。社会に参加することを学び、社会に参加することによって学び、個が社会と結びついていく学びなのである。指導の効率や効果という次元だけでは語れぬ、教育の価値が“協働”中に存在しているのであろう。
今回上梓した「続・協働学力」では、協働で学ぶ価値と、協働で学ばせる支援のポイントを簡素にまとめてみた。他者との関わりを通して学ぶ効果と価値を、少しでも多くの方々に考えていただければ幸いである。(2008/9/17) |
126.見いだし合う能力~ネット上での分散知の集約~
最近は、ネット上の情報を安易に流用する、“コピペ”なる行為が問題になっている。ネット上の情報を安易に切り取り、自分の原稿や文章に貼り付けてしまうのだ。他人の文章や考えを流用することによって、自分で考えたり創り出したりする労力を省こうとする。自分の頭をひねって知を創り出す活動が少なくなれば、情報を剽窃した者の思考力は停滞してしまうに違いない。知的創造性を欠いた消費的な情報の使い方をすれば、自分の知性が堕落してしまうのである。一方で、ネットを創造的に活用すれば、情報そのものを創造するだけでなく、情報を使う者自身の成長を促す場合もある。
この数年、自分自身が様々な教育関係者のメーリングリストに登録することになった。このリストを通じ、教育者と教育者を繋ぐ情報がメールとして、毎日着信するのである。メールで交換される内容は、授業設計や会合の企画など多岐に亘る。こうした情報のやりとりを拝見していて感じることは・・
①向社会的態度を持っている(自分から、様々な活動に参加していく態度を持つ)
②批判的学習モデルと経験的学習モデルの双方を状況に応じて使い分けている(活動の根拠や背景の吟味と、実践-経験を結ぶ省察力、論理性を持つ)
③同じ文面のやりとりの中から、自分に必要な情報やヒントを見いだす能力 ・態度を持っている先生が多い。加えて、自分達のプロジェクトの課題や 内容を相互に見いだし合う力も持っている(協調的課題解決と協働的創造、自らの知的充実の反省的実感力を持つ
④こうした傾向は、年齢や性別とさほど関係が無い様だ
ということである。
近頃、北海道を中心に活動を展開しておられる山本先生、横藤先生等の情報交換を眺めていると、こうした能力は教員だけでなく、これからの子ども達にも育てたい力だと感じる。
近年の企業では、クロス・ファンクショナル・チームによる活動が注目されている。立場や経験が異なるメンバーが、質の高い結果の創造を目指して協働していくのである。こうした活動は、個の力を拡大し、質の高い課題解決を可能にし、個々の成員が所属する組織の風土も変えていく可能性を持っている。進化を生み出す創造性は、互いに存在や課題を見いだし合うことによって高まっていくのであろう。
変化に対応する追従型の知性だけでなく、変化を創り出す前進的知性が時代を拓いていく。その核になる力は「見いだし合う力」なのではないだろうか。(2008/9/5) |
125.同語反復的学力観を信奉するマスコミ
“漢字の練習をしたら、漢字テストの点数が伸びた”“計算ドリルを学習したら、計算テストの点数が伸びた”。これらの現象は、しごく当然のことでである。短距離走の練習をすると短距離走のタイムが短縮できる。筋トレをしたら前より重い物が持てるようになる。ドリルを行うとドリルの点数が伸びるのは、練習の方法と評価の方法が似ているからである。先行した学習と同様のテストを行えば、テストの点数が高くなるのは当たり前のことである。
先日、某放送局では全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の成績分析を行っていた。そこでの主張とは、「基礎学力が高い県は、朝にドリルをさせている。従って、A問題の成績を伸ばすにはドリルが効果的である」という内容であった。更には、「県庁が数値で目標を設定した点」を評価している様であった。「数値で管理をすると学力が上がる」「基礎知識は基礎的な問題でトレーニングをさせると点数が伸びる」という近視眼的視点から、学力向上の正義を声高に語るマスコミ。“Aを行うとAが得意になる”という同語反復的学力観を、もっともらしい言い回しで語る側の読解力や判断力の方が心配だ。教育改革はマスコミ改革から始めなければ、量と圧力に頼る物理的/力動的学力観を再生産し続けることになる。
①目標を数値で掲げるということと、成績の向上に因果関係は乏しい。数値 目標を設定しながら、学力が低下した県もある。目標を設定することより も、目標の実現化を図る社会構造をデザインすることが肝要である。
②公教育の教員は目標化できる教育領域以外の、様々な教育価値を具現化す べく努力をしている。目標準拠教育の偏重は、目標化できない部分の教育 価値をないがしろにする恐れがある。目標の具体化の可能度と、教育目標 の価値は同じものではない。
③知力と社会性は、学びつつ実社会を生きる資質の相互基盤である。社会性 の乏しい知のみを重視した教育ではなく、社会性と知力の相互基盤を視野 に入れ、実用的知性を育てる学習が必要である。
④実社会のワークプレイス・ラーニングはその殆どが、体験化-チーム活動 化している。子どもが大人になっても、チーム的な学習に参加する能力が 乏しければ、知を実用的に駆動したり創造することが苦手になってしまう。
AだBだというテスト結果に、過敏な反応を見せるのは、評価が教育を振り回していることを意味している。評価に振り回されず、必要な教育価値の見極めと実現が重い意味を持つ時代になっているのではないか。(2008/9/1) |
124.実践から見える教育の「不易流行」
先日、静岡県大井川町全体研修会で、小学校2校の研究発表を拝聴する機会を得た。中学年の社会科と総合的な学習の時間という二つの実践が紹介された。社会科では「調べの観点を明確にすること」、総合では「学習と体験の結びつきを明確にすること」を重視した指導が行われていた。
二つの実践とも「子どもの問い」を重視した指導を目指し、子どもの「問い心」を広げ高める指導が構想されていた。調べ学習(社会科)における調べ行為も、体験から問いを深めていく探究(総合)も、その背後には子どもの問いが必要となる。問い心の浅い調べや探究では、調べや探究による成果の質は高まらないであろう。“学びの本質を問う問い”から構想された先生方の実践からは、学びの充実を感じることができた。
指導要領が変わる、時代が変わる、子どもが変わる。そうした変化ずくめの社会の中であっても、教育において変わらない本質に立脚した実践は、誰が見ても価値を感じることができる。変化した部分も大事だが、変化していない部分にも教育の本質は存在しているのである。
臨時教育審議会で教育の不易流行論が主張され、以後、様々な教育の不易流行論が生まれた。「不易があっての流行である」、「“不易流行”は表裏一体だ」、「時代の流れに左右されない部分と時代の流れに対応する部分の調和が大事だ」・・・・。この他にも、様々な教育の不易流行論がある。
大井川町の2校の実践から感じたことは、「教育の本質的な不易に接近し続ける活動が流行の実体である」ということだ。本質を求め続ける先生方の姿の中にこそ、教育の不易と流行が存在するのである。一時流行ではなく、継続した実践的追究こそ、教育の不易流行なのであろう。
(2008/8/6) |
123.“見よう見まね”は社会標準の学力
夏休みに入り、アルバイトをする高校生の姿が所々で見られる季節になった。自宅近所のスーパーで、高校生らしき数人が、アルバイトの研修を受けている場面に出くわした。「いいですか、口で言ってもわかりませんから、レジの後ろで店員の動きを見ていて下さい。品物をどう動かすのか、どうやってお金を受け取るのか、そうした流れをしっかり見ていてください」。なるほど、見習いとはよく言ったもので、見て習うという学び方は“社会標準の学び”であるらしい。筆者もかつて仕事を転々としたが、どの職場でも“見て覚える”という学びが原則であった様に思う。
①言葉で細かく説明したからと言って、説明されたことが理解できるとは限らない。
②実社会の仕事の中には、言葉で説明しきれない要素がたくさん含まれている。
③教わる側が学ぶ気になって、自分から覚えよう、理解しようという気持ちにならないと学習効率が悪い。
社会の中での実際の学びは、机上の学びと異なる能力を必要とする様だ。言語による理解力は大切な力であるが、人間の理解力はそれだけではない。実生活に近い、見て学ぶという活動は、教育において軽視されやすい気がするがいかがなものであろうか。見て学ぶ力は、現実的な視点から見れば「生きる力」の基礎的な力である筈だ。他人のやり方を見ながら要領を得るという学びは、大人の職場では最も多用される学び方である。心理学ではこうした学習を模倣学習と呼ぶ。“見習う”とは古くさい表現に聞こえるかもしれないが、「環境への迅速な適応」や「複数のメンバーの学び合い」など、多くの可能性を秘めた学び方なのである。
そういえば、自分の身近に“○○で見た授業をちょっと真似てみました”という言葉が口癖の先生がいる。いつも子ども達に歓迎される授業をする先生だが、学び方が上手いのであろう。こう考えると、教師にとっても見て学ぶ力は、指導力と無関係ではない様な気がする。
先般、宇宙から帰った星出彰氏彦は「今回の飛行で、クルー(同僚)から沢山のことを学べたことと、地上のチームから沢山のことを学べたことが非常に大きな収穫だった」と、NHKのインタビューに答えていた。なるほど、このレベルになっても、他者から学ぶという能力は重要な力なのだ。見よう見まねは、見よう!という意欲に始まるのである。(2008/7/21)
|
122.生涯楽力(岩上進先生の姿に学ぶ)
先日、岩上進先生 (元全国都市教育長協議会会長)と、郊外の大規模店で偶然鉢合わせになった。久しぶりの再会となり、「コーヒーをご馳走するから」という言葉に甘えて、先生の街角講義を拝聴する機会を得た。岩上先生のお話を伺っている時、常に感じることは「面白い」という言葉を連発することである。
「生物と無生物の差がどこにあるのか。調べていくと、これが、とても面白い」「学習というものは、比較をさせる、対比をさせることによって、子どもにとって面白く、印象に残る知識になる。比較するということは、比較の仕方、させ方で面白くなる。そこが、面白い」。「教育における人事とは・・・」「組織における個人の責任の大きさとは・・・」、様々な話題に移って行っても、お話の最後は「それが、面白いところなんだなぁ」という言葉で締めくくられる。伺えば、御歳82になられるとのこと。
年齢と知的好奇心の衰えは、岩上先生のお姿を見ている限り、無関係の様である。常に、好奇の眼を持って現象や情報を受け取り、自分の思考を通して考えを繋げ、意味を見出し楽しんでおられる。「ネットは便利だけれど、独立して切り出された知識だけでは役に立たない。繋がり、系統、構造として知を捉えた学びが大切なのだ」と、先生は言葉を締めくくられた。
知的探究をする態度は、一生モノの学力であり、充実した人生を創り続ける力でもある。岩上先生の生きる姿が、何よりも饒舌にそのことを物語っているのだと実感させられた再会であった。
(2008/7/16) |
121.勉強“が”できる力 と勉強“に”できる力
先日、日本生活科・総合的な学習教育学会の全国大会に参加をして来た。拝見した研究公開授業では、子ども達が他者との話し合いを通して、自分の言葉を自分たちの言葉として意味を高めて行く様子が印象的であった。子ども相互の対話によって、自然と思い違いに気が付いたり、言葉の意味に対する勘違いが修正されていく。子ども達は、対話の中で間違いを見つけ、意味を構成していく能力があることを実感させられた。
また、全国から集まった実践家が、様々な研究成果を発表する場もあり、大変参考になった。この研究発表の場で、日本の教師文化の中には非常にいい言葉があることに気が付いた。「この研究を通して、一番勉強になったのは私です」「興味深い発表をお聞きし、大変勉強になりました」という言葉である。「勉強になる」という言葉は、自分の周囲から学びを掴み上げていく能力や態度を象徴した言葉だ。「勉強にできる力」は教師の世界でも、価値の高い態度、能力なのであろう。
子どもにも「勉強ができる力」を育てることは大切なことであろう。だが、加えて「勉強にできる力」を育てることができてこそ、知識基盤社会を生き抜く「生きる力の基礎」を培うことができるのではないか。「勉強にできる力」は探究的な学びによって、自ら問いや知を掴む活動でこそ学べる力なのであろう。
20087/7 |
120.一回性の窓から子どもの学び世界を見る
授業という現象は極めて、個性的的で特殊な現象だ。今、ここで学ぶ子どもも、教師も二度と同じ学びを繰り返すことはできない。たとえ、同じ学習内容を繰り返して学んでも、それは同じ学びを繰り返したとは言えないだろう。一回性が高く極めて特殊な現象が、授業という現象なのである。これを捉えてゆくには、“川の水の如く流れゆく授業という現象”を心に留め置く意識を持つことが要求される。
さて、この度、「こどもらしさに学ぶ(授業改善研究会)」の第16集を頂戴した。授業の記録や分析、研究会・研修会で学んだ事などが、“多様な立場の執筆者の今”としてこの冊子にまとめられている。授業の中で子どもが見せた表情や発言の動きから、子どもと学びの接近を読み解く。あるいは、学びを通して、子どもの心が繋がり合ってゆく過程を考察していく。ぞれぞれの学校の、それぞれの子どもの中に起きている今を捉えて、指導の共有知に換えて行こうとする教師の姿がこの冊子から見えてくる。授業という一回性の高い現象の中から教育的な何かを掴み上げ、共に見つめて行こうとする教師の姿勢がこの冊子の根底にあるのだ。
科学は一回性を普遍性に繋ぐことによって、客観的な全称命題の知識世界を作り上げて来た。誰がリンゴを落としても、9.8メートル毎秒で落下する。誰が、どこで実験を行っても、結果が同じにならなければ科学とは言えないのである。だが、教育の世界では、一回性が直ぐに普遍性に結びつく訳ではない。一回性の窓から見つけた子どもの姿や教師自身の気づきを、普遍に結びつけてゆく努力があってこそ「学びと教えの普遍」に近づいて行けるのだ。それは、子どもの姿に近づき、教師自身が自分の姿に近づくことでもある。更に、一人ひとりの一回的な体験を記録・分析し、共有しようとする同朋があってこそ、学びの一回性を普遍に換えて行けるのだ。
一回性を普遍に繋いでいくためには、一過性の活動では効果が期待できない。継続的に互いの活動を読み解きながら、自己の指導力の普遍として高め合う活動があってこそ「授業改善」に繋がっていくのだ。「子どもらしさに学ぶ意義」は、一回性の窓から見えた学びの風景から指導の資源を汲み上げ合う教師の協働が創り出しているのである。(2008/6/5) |
119.「楽問楽聞(がくもんガクモン)」
この春から、NHKで“爆問学問”という番組が始まった。
「教養立国ニッポンを目指して・・・・。 時代は、教養を欲している…。その時、教養って何だろう?。今だからこそ、爆笑問題が、問う、学問の本質・・・。爆問学問」
と、番組紹介のホームページに書かれている。様々な分野のエキスパートから、その分野の最先端の話を聞くという趣旨らしい。爆笑問題という一般人代表が、現代知の巨匠から新しい教養を引き出していこうとしている様だ。しかし、この番組を見ていると、知識が増えるというよりも、次々と問いがわき上がって来る。そして、知のエキスパート達こそ、問い続けの人生を過ごしていることが見えてくる。
学びでも、子どもにとって問いが無い学びは、貧しい学びなのではないか。かつて、ある中学生(埼玉県:比企地区)からこんな話を聞いたことがある。「調べればわかると思って調べたら、わからないことが増えてしまった。わかったら面白いと思ったけれど、わからないことが増えるのも面白い」
なるほど名言である。問うことは考えの種に水遣りをすることに等しい。学ぶ態度を育成するならば、知識の量を増やすだけでなく、問う楽しさを学ばせる必要があるだろう。
楽しく問う、問うことが楽しいから、他者の話も楽しく聞ける。問うことの楽しさを感じることができない学びを続けて行けば、子どもは考えることから逃げる様になる。人間は、楽しくない行為から逃避しやすいのだ。楽学楽聞(がくもんガクモン)があってこそ、学ぶ態度が育つのであろう。
(2008/5/15)
|
118.「下田小学校の研究と“三つの詳しさ”」
病気と治療に詳しくなければ、よい医者にはなれないであろう。同様に、歴史学者は歴史に詳しくあるべきであり、料理人は料理の味付けや盛りつけに詳しくなければならない。では、教師は何に対して詳しければ、よい教師と言えるのであろうか。
「詳」という文字の偏の“部首=言”は、文字通り言葉を意味している。旁(つくり)の部首である羊は、姿や形を意味する象形である。漢字の成り立ちから考えると、ものの姿を言語化することが、“詳しくなること”だと言えるだろう。このことから考えると、「子どもの姿に詳しくなること、学習の内容に詳しくなること、内容の学ばせ方に詳しくなること」という、三つの点に詳しくなることが教師にとって必要なのではないだろうか。
静岡県下田市立下田小学校(小澤義一校長)では、「共に学び合い、高め合う授業」を主題に校内研究を進めて来た。先日、研究の反省と分析が、研究主任の高田大祐氏から送られてきた。
下田小学校の研究の足跡を拝見し、感じたことが、前述の「三つの領域への精通」ということである。
同校の研究の特徴は、
①“その子の学びを追う=子どもの学ぶ姿への着目”
②“子どもの学ぶ姿を語り、考え合う=子どもの学びの姿を捉え合い、意味 づけ合う”
③“教師の教材観、知識観と子どもの学びを繋ぐ手だての具体化=学ばせ方 の開発と創造”
という三つの点にあると思われる。
下田小学校の研究では、子ども、学ばせ方、学びの中身という、三つの領域について教師陣が“詳しくなって行く姿”を読みとることができる。「共に学び、高め合う」のは子ども達だけではなく、教師自身に求められる姿でもあったのだ。下田小学校の研究要項には、子どもの学ぶ姿、教師の指導姿勢、指導の方法と期待する成果が詰め込まれている。
個か集団か、協働か競争かという、教育的に不毛な思弁的対立を越え、「子どもも教師も社会的な相互関係を通じて成長するのだ」ということが、同校の研究から見えてくる。
「友と学び 共に学び 学びを友とす(問者)」
今年度、これから研究を具体化する学校では、同校の研究スタンスを参考にしてみては如何だろう。“三つの領域に詳しくなる研究づくり”には、必ず役立つ筈だ。詳しさは、詳しくなろうと願う者にしか、与えられることはないのである。(2008/5/1) |
117.「リポート(report)・トーク」と「ラポート(rapport)・トーク」
“発表”という学習活動は、「総合的な学習の時間」の研究発表会などで良く見られる学習活動だ。それまでの学習の総括として、課題追究の過程を説明するためには、発表という活動が適していると考えられているためであろう。「総合的な学習」導入の初期は、調べ、まとめて、発表するという学習(追究)過程を用いた学習が多く見られた。
発表の項目には「なぜ、その課題を選んだのか」「その課題を追究するために、どの様な活動をしたのか」「その結果何を知り得たのか」「知り得た結果から、次に追究すべき課題をどう設定したのか」という様な項目が、含まれていることが多い。しかし、発表の各項目に充てられる時間配分や、内容の密度は子ども達の課題追究姿勢によって大きく異なってくる。
「調べる」という行為に重きを置いた学習では、調べた場所や内容、方法に関する発表内容が多くなる傾向がある。また、「課題構成」に重きを置いた学習では、「課題を構成していくまでの過程」に関する発表内容が増えるケースが多い。どの学習段階や、学習行為に重きを置くのかという点については、指導者のねらいや学習者の課題追究の個性によって異なる。従って、どの段階の学習活動に重きを置くべきか、一概に言うことは難しい。
発表から学習の充実を推察する場合には、「リポート・トーク」の色合いが強いのか「ラポート・トーク」の色合いが強いのかという点に着目して考えてみたい。「リポート・トーク」は事実としての情報が中心であり、やや事務的な内容の発表を意味する。何を調べたか、どこで調べたか、調べた結果何が分かったか、と言うような情報は「レポート的」な発表内容である。 一方で、調べた事実や分かったことに加え、“自分達の主張を伝える内容”に重きを置く発表内容が「ラポート的」な発表である。
「総合的な学習の時間」の学習は、客観的な知識の発見や習得を学習の最終的なねらいとしている訳ではない。知識と繋がることだけではなく、知識や事実と自らを繋げ、考えや意見を創造していく。創造した考えを表現するだけではなく、行動や共感を訴え、他者に対する働きかけをする。止むに止まれぬ“切実な思いとしての表現”が生まれてくれば、総合の学びが深まった証だと言えるのではないか。また、そうした考えや思考を深めやすい学習が、「総合的な学習」の特徴だと言えるであろう。切実な思いを伝えるラポート・トーク。表現をする行為そのものだけでなく、何を伝えようとしているのかという視点から、子どもの学びを読み解いて行きたいものだ。(2008/4/21) |
116.変わり行く“学力の物差し”
前回の論壇では、学力を捉える言葉の物差しについて考えた。学力は学力を捉える物差しの性質によって、値打ちが決まってしまう。例えば、問題に答える力はテストによってある程度は評価することができる。しかし、問題を発見する能力は旧来のテストによって測定することが難しい。PISA調査の様に、「様々な情報を読解し自分の考えを創造していく力」も旧来のテストでは測定しにくいであろう。
最近企業が人材に求めている“地頭力”も、これまでの教育では重視されなかった学力だ。地頭力とは既知の知識に縛られず、創造的に課題解決を進める能力である。最近の入社試験では、「富士山を動かすにはどうしますか」、「世界6大陸のうち1つをなくすとしたらどれですか」という様な、突飛とも思える問題を出す企業がある。こうした問いは、既知の知識を再生するだけでは答えられない性質を持つ。この問いでは、創造的な思考力という学力が試されているのである。単純計算が速くこなせるという学力とは、質が違う学力だと言えよう。今、企業は“地頭力”という学力の物差しを使い始めているのである。
学力の物差しには「他者とかかわる」という物差しもある。学力は個人の頭の中から他者の頭の中に拡張されていかねば、実用的な力とはならない。実際の知的活動場面では、他者の考えや知識を理解、解釈し、批判し、変形し、模倣したり加工したりし合うことによって、考え合いが進むのである。「他者とかかわる学力」が乏しければ、知を“生きる力”に変えて行くことはできない。
知的協働を可能にする学力が、「他者と知的にかかわる力」だ。協働の学力と呼ぶこともできる。学校で育てるべき学力の基礎領域は、社会の変化と共に変化をして行くのであろう。
(2008/4/11) |
115.「高める 広げる 持ち続ける」
“学力”は高低という言葉の物差しによって表現されることが多い。しかし、学力は高低という言葉のみで表現できるほど単純な力ではない。それでは、他に学力を表現できる言葉の物差しはあるだろうか。
例えば、「広さ」という言葉の物差しはどうであろう。高低が上下垂直の物差しだとすれば、広い-狭いは水平の物差しである。「広い学力」とは、柔軟性の高い学力だ。漢字の学習で考えれば、書くことができ、意味が分かり、使い方が分かり、熟語も知り、文章の中で用いることができて、自分の意見を述べる場合にも使うことができる。こうした、漢字の知識を多様な目的に応じて使うことができる力が、学力の広さである。どんなに沢山の漢字を書くことができても、実際の生活で使うことができなければ「狭い学力」に止まっていることになる。
次に、垂直、水平の物差しに、時間という物差しを加えてみよう。「持続」という学力の物差しが考えられるだろう。学び続ける態度の持続や、学んだ知識を忘れぬ知の持続力。“よく見聞きし分かり そして忘れず”(雨ニモマケズ)。学力には「持ち続ける」という、時間軸の物差しも必要なのである。
新しい指導要領はバランス型の学力定着を目指しているという。この趣旨は、高さと低さという単純な物差しから学力を解放することを意味している。「高める 広める 持ち続ける」。学力を縛る言葉の物差しにバリエーションを加えることから、学力の捉えが変わって行くのである。次回の論壇では「かかわる」という物差しで、学力を考えてみる。(2008/4/4)
※中央教育審議会 総会(第225回)
「つまり、試験というのは、学校の縦の関係の問題で、ドーアによれば、大事なのは学校教育の内容で、これが犬の本体なら、入試というのはしっぽのようなものだと。ところが、日本の教育はしっぽが犬を振り回しているといって、書いていましたけれども、やっぱり体がしっぽを振るような教育制度にしなければいけないのではないかと思います。」
・・・。実に興味深い指摘である。
|
114.経験を編み直す指導と研修
時間には量と質という二つの側面がある。量としての時とは、物理的な時間の経過である。時計の針の動きとシンクロした時の流れを指す。一方、質としての時間とは、熱中や印象、感動という物語を含み持つ時である。時間は量的側面と質的側面の双方を持ってこそ、生身の時間となる。私が考えた時間、あなたから聞いた時間、共に語り合った時間は、血の通ったリアルな時間となるのだ。
更に、時を人と結びつけて行く条件というものがある。タイミング=時機とチャンス=好機がそれだ。人間の人生には様々なタイミングやチャンスが存在する。この二つを逸してしまうと、後から取り返しがつかなくなってしまうこともある。
教師であれば、新採初任校着任から数年間が、大いなる好機になる。タイミングやチャンスとどう出会い、どう生かすかによってその後の教師人生が大きく変わっていくのである。後の優れた教師や教育者は、必ずと言ってよいほど、初任の時期に印象的な体験を持っている。先輩との出会いであったり、校長からの指導であったり、時には子どもからの指摘であったりする。
一方で、初任の教師を迎える側の学校でも、様々な方法で初任者研修を運営する。研修を担当する中堅、ベテラン教師にとっても、初任者研修は相互行為としての研修となる。教職に関わる自己の理念や技術を含め、教育力そのものが試されることになるのだ。
今日、私の手許に一冊の冊子が届いた。「初任者研修資料集-若い教師を育てる80の視点(岩城一磨 著)」がそれだ。学級経営から、教材研究、学級事務の進め方、板書の原則や教科指導のポイント、研修の進め方までを、「一般研修」「授業研究」「課題研修」という三章に分けて解説している。資料の内容を見れば、岩城氏の研修スタンスが見えてくる。この資料は、実務実践と理念論理という二つの側面から記述されている。例えば、発問の原則や発問の種類という論と、実際の授業場面を活写した事例解説が併記されているのである。論と実践という二角が決まれば、具体の教育活動像を焦点化しやすくなるという、指導的な読みが効いた資料構成だ。著者の研修を受ける機会に恵まれた教師は、必要なタイミングで最高の研修チャンスに恵まれたと言えるだろう。
こうした研修を通して、育てる側の教師も高い次元に向けた教育的熟達を遂げていくのである。これまでの経験や知見を編み直して、後進に伝えて行く。伝える過程を通して、自分の教師としての物語を語り直す。伝え、語ることによって、語る者も創り直されるのである。教育の半分は教わることで成り立ち、もう半分は教えることで成り立つ。初任教師の研修を通して、自分の教育力を再構築していくのだ。岩城氏の作成した研修資料は、育ち合う研修の素晴らしさを語っている様に思えてならない(2008/3/11)
|
113. “学力の人間化”を目指すこれからの教育
教育の世界的な流れは、学力という言葉の意味を変えようとしている。特に、「国際標準の学力」という概念の登場は、旧来の学力の意味を大きく変化させ始めている。教育は、“子どもの学力を伸ばすこと”を主要な目的とした活動だ。したがって、目的とすべき「学力」が変化をすれば、目的=学力を実現する手だてや方法にも変化が生じる。では、これまでの「学力」と「国際標準の学力」はどこが違うのであろうか。
その違いを象徴する言葉が、「キー・コンピテンシー(鍵となる能力)」という言葉だ。この言葉はPISA調査を主催するOECD(DeSeCo)の提唱による、新たな学力の枠組みだ。これから改訂を迎える指導要領や、活用の力を重視する教育は、キー・コンピテンシーの概念を色濃く反映している。キー・コンピテンシーは、「相互作用的に道具を用いる力」「異質な集団で活動する」「自律的に活動する」という三つの範疇を要素としている。
1/相互作用的に道具を用いる
・言語、シンボル、テクストを相互作用的に用いる能力
・知識や情報を相互作用的に用いる能力
・技術を相互作用的に用いる能力
2/社会的に異質な集団で交流する
・他人といい関係を作る能力
・協力する能力
・争いを処理し解決する能力
3/自律的に活動する
・大きな展望の中で活動する能力
・人生計画や個人的プロジェクトを設計し実行する能力
・自らの権利、利害、限界やニーズを表明する能力
この、キー・コンピテンシーは、エンゲストロームやコールが提唱した「活動理論」から大きな影響を受けている。エンゲストロームはフィンランドのヘルシンキ大学教授であり、フィンランドの教育界にも大きな影響力を及ぼして来た。近年、PISA調査におけるフィンランドの成績の高さは世界から注目を浴びている。そして、フィンランド教育の持つ教育システムが非常に注目を浴びている。フィンランドの教育システムを模倣すれば、同様の成果が得られる様な錯覚をもたらしている様な気もする。
だが、PISA調査の基本的な考え方を支えるキー・コンピテンシーと、フィンランド教育の基本的な考え方には共通点が多いことにも着目すべきであろう。つまり、フィンランド教育では日常的にPISA的な学力観に基づく学習を行っているのである。
探究型の学習、体験的総合的な学習、グループ学習を多く取り入れた学習を行っている。知識を使いつつ身につける、知識の使い方も身につけるという学習が日常的に行われているのだ。PISA的な出題の形式や、その背後にある学力観に子ども自体が親しんでいるとも言えるだろう。PISA調査で測ろうとしている能力と、フィンランドのカリキュラムは類似した学力観に根ざしている。恰も、フィンランドの学力モデルが世界標準になろうとしている様にも見える。
PISAとフィンランドの教育観・学力観の共通点は、「学びの人間化」という点にある。それは、道具(言葉や物理的機器)を活用し、思考や表現を他者との関わりの中で実用できる能力を育てる教育である。机上の学習で「子どもを学力化すること」ばかりでは、「国際標準の学力」を身につけることは難しいだろう。PISA的な学力への対応に振り回されるだけではなく、フィンランドの如く教育者自らが教育の在り方を開発せねばならない時代に入っているのではないか。
(2008/3/5) |
112.学欲の生起と仲間効果
110号で「大学生の学欲崩壊」について書いた。この東京大学の調査グループの調査結果から見えてくることは、ネガティブな内容ばかりではない。たとえ少ない割合であっても、「学びが好き、読書が好き、講義に関心が高い」という大学生が存在することにも注目すべきであろう。
では、こうした「向学心(好学心)」を持った学生は、自分ひとりで学ぶ意欲を高めることに成功しているのであろうか。そうではなく、学び合ったり、一緒に課題を追求したりする仲間に恵まれていると考えた方がよいであろう。自分一人で誰とも考えを交換せず、競争も協同も無く、孤独の中でそれほど高い学びのモチベーションが維持できるとは考えにくい。
教師もそうであるが、優れた実践者はよい仲間に恵まれていることが多いと感じる。実践を報告しあったり、お互いに意見を交換したりして知的な刺激を受けあっているのであろう。よい学びの態度は、よい仲間を持つこととも大いに関係がありそうである。
・友と学び、共に学び、学びを友とす(問者)
(2008/3.1) |
111.改善は教師の支援から~実践現場の教育資源~
カリキュラムには、三つの次元がある。「意図したカリキュラム」「実施したカリキュラム」「達成されたカリキュラム」(村瀬,2005)の三つがそれである。別の言い方をすれば、「教師が意図したカリキュラム」「教師が子どもと共に実施したカリキュラム」「子どもが受け取り、教師が達成したカリキュラム」 とも表現できる。教育行為はあらゆる段階に、計画、実行、達成(評価)の次元がある。
先日、新しい指導要領の案が公表された。いわば、国レベルにおける教育実行の指標であり、今後の教育の包括的青写真と言っても良いであろう。今回の指導要領改訂では「中心教科の時間数増と内容の増」が、話題を集めている。マスコミはまたしても「ゆとりか詰め込みか」という、次元の低いレベルで衆目を集めようとしている。「どうするゆとり世代」「ゆとり教育から転換」など、マスコミの見出しはゆとり教育からの方向転換に焦点を当てたものが多い。
文部科学省によれば、今回の学習指導要領改訂のポイントは、
①改正教育基本法等を踏まえた学習指導要領改訂
②「生きる力」という理念の共有
③基礎的・基本的な知識・技能の習得
④思考力・判断力・表現力等の育成
⑤確かな学力を確立するために必要な時間の確保
⑥学習意欲の向上や学習習慣の確立
⑦豊かな心や健やかな体の育成のための指導の充実
の七点だという。しかし、「理念の共有や学習意欲の向上」など、見えにくい部分については、マスコミの注目度は低い様だ。
教育の目標や指標を明文化することは、それほど難しいことではない。「確かで高度な学力を身につけるようにすること」「継続的に学び続ける態度を育てること」など、いくらでも“書くこと”は可能である。それでは、教育の目標を明示すれば、教育の改善は進むのだろうか。教育改善の真価は、実践によって行為されるか否かによって決まるのではないか。書かれた教育、理想的な結論としての明文化された目標を把握し、それを実践として行うことが教育を変えて行くのであろう。そして、理念を実践の次元に上げていくためには、教師の実践を支援することが必要であろう。
エンジンの排気量は同じ(指導資源)、バスに乗る子どもの数も同じ(子どもの数)、しかし、回るべきバス停の数(目標や指導領域)と走行距離(指導時間)は増加する。教師が使える教育資源を増やし、実践の場を動かしやすくする支援こそ、これからの教育に求められるのではないだろうか。“書かれたもの”を論ずるだけでなく、“教育を行う場”への支援を具体的に考えるべき時に来ているのではないだろうか。(2008/2/19)
|
110.大学生の“学欲崩壊”
①「1日1時間以下=64%」「まったくしない=13%」(計77%)
②「よくある=17%」「ときどきある=45%」(計62%)
③「まったく読まない=29%」「1冊しか読まない=28%」(計57%)
それぞれ、日本の大学生の①勉強時間②授業に関心がわかない割合③読書量のアンケート結果である。国公私立127大学の約5万人を対象に、東京大学の研究グループが調査を行った結果がこれだ。
一方で、高校3年生の勉強量は「1日4時間以上=34%」「3時間程度=23%」だという。大学受験を控えた高3時点が「瞬間最大学力だ」と言われるが、その言葉を実証する様な調査結果となった。
・勉強は試験で点数を稼ぐために、仕方なく行うものだ
・卒業さえできればよいのであって、特に学びたいとは思わない
・異性との交友や消費活動に関心のほとんどが費やされている
・知的な興味・関心に乏しく、学びを求めたり解決を追究する知的課題を持たない
というのが、一般的な大学生の知的指向性であるらしい。低学欲の学生を抱えている大学の苦悩は察するに忍びない。大学教育では、ファカルティ・ディベロップメント(指導・教授力開発)の推進が叫ばれているが、学び離れ、知識離れする大学生を講義につなぎ止めて置くことは容易ではないのであろう。
今、初等中等教育では、カリキュラムの過密化による学力の向上を目指そうとしている。知識を多く身につけさせなければ、知的関心の元を育てることができないというが、知識を身につけても学欲が育つとは限らない。繰り返せば覚えるという事実もあれば、繰り返すと飽きるという真実もある。今回の大学生の知的態度から、教育界は何を学ぶべきなのであろうか。“追いつく学力=知識”だけでなく、“追いつかない学力=知的好奇心” を育てて、確かな生涯学欲の定着を図りたいものである。(2008.2.5) |
109.「聞くこと」の難しさと、学び合いの指導
子ども達にとって、「聞く」という行為はなかなか難しい行為である。
学び合いや、伝え合いの指導をしようとしても、「聞く」ということができない子どもがいる。あるいは、「聞くことができる子どもと、できない子どもの差が大きい」という先生方からの指摘を聞かされることも多い。考えてみれば、小学校低学年の児童は、聞く、話すという行為に慣れていないのである。小学校低学年からそれほど「聞く」という行為に習熟しているのであれば、教育の必要は無いであろう。だからこそ、「聞く態度や能力」を育てて行く必要があるのだろう。
そもそも、「聞く」という行為は大人にとっても、かなり難しい行為なのである。身体的に「聞こえる耳」は持っていても、「聞く耳」を持っているとは限らない。「聞く耳=聞く態度」は育てなくては、育ちにくい社会になっているのだろう。柳原可奈子というお笑い芸人が、独り言を延々と繰り出す話芸で人気を博している。相手の状況とはお構いなく、一方的に話し続ける若者の姿を演じる芸である。彼女によれば、「一方的に話すだけで人の話を聞かないので、対話になっていない」という発話スタイルに、この芸の特徴があるという。
「聞く」という行為は、本来、事前に「問い」を必要とする行為なのではなかろうか。問いたい事柄があればこそ、聞く意欲や必要性は高まるのである。ところが、学習の場面では常に子どもの問いに応えている訳にはいかない。子どもが問いたい内容は、教師が教えたい内容だとは限らないのである。一方で、人間は自分が問いたいこととは無関係に、聞く必要、聞かされる必要に迫られる場合もある。子どもに聞く態度を育てることが、いかに重要なことであるかは言うまでもないことであろう。
子ども達は聞くことが苦手だから、学び合いの指導や伝え合いの指導が成立しにくい。だから、個別に手厚く指導したり、知識や語彙を教える学習を優先させたいという話もよく聞く。しかし、個別に指導をするということと、聞く態度を育てる指導を天秤にかけることはナンセンスであろう。どんなに手厚い指導を施しても、子どもが「聞けない」のでは、指導効果は期待できない。あるいは、知識の習得を優先するから「聞く態度の育成」を後回しにするということで、問題は無いのであろうか。「聞く態度」は学ぶ力の根元的な能力である。「聞く態度」を後回しにしても、教えればできる様になるのであれば、問題は無いのかもしれない。しかし、「聞く態度」を育てるには、学習や体験の積み重ねが不可欠なのではないか。「聞く態度の育成」が手遅れになった時、学級経営の問題や学習指導の問題とならないか心配である。(2008.2.1)
|
108.史上最悪の流行語
昨年末から、聞いているだけで気分が悪くなる流行語がある。「でも、そんなのかんけぇねぇ」。パンツ一丁でこの言葉を連呼する姿が、連日テレビで放映されている。芸人そのものの問題というよりも、この芸?を受け入れ、広めてしまう社会の方が病んでいるのかもしれない。
先日は電車の中で、菓子の取り合いをしている子どもを見かけた。「うるさい、迷惑になるからやめなさい」という父親に向かって、「でも、そんなの関係ねぇ」と子どもが言い放ったのには驚いた。教育の世界では、“伝え合う学びや”“自らを律し他者との協調を大切にした学び”が注目を集めている。その最中、テレビから「そんなの関係ねぇ」という人と人の間を切り離す言葉が、子ども達の中に刷り込まれていく。
この言葉で更に気になる点がある。それは、「でも」という表現だ。相手の気持ちや願い、相手の状況がわかっていたとしても、その一切を切り捨ててしまう言葉。他者の価値を無化してしまう力が、「でも」に含まれている。相手がどうであれ、“でも”関係ないとは、なんと冷たい言葉であろうか。
「どんな関係があるのか」という関係を見つけることこそ、すべての学びの本質である。モノとコト、コトとトキ、トキとヒト、ヒトとヒトはどこかで関係している筈だ。どんなに知識をため込み、知識と繋がったとしても、他者と繋がらない学びは寂しい学びだと言えないだろうか。(2008/1/6) |
107.総合の学びに見る
「オリジナリティ/クオリティ/リアリティ」
総合的な学習で学びの充実を感じている子ども達には、三つのキーワードがある様に感じる。オリジナリティ(独自性) クオリティ(質)リアリティ(現実性)の三つがそれだ。
オリジナリティ(独自性)は、自分(達)らしさである。例えば、福祉をテーマに取り組んだ子ども達が「他の人や立場の人とは違った方法でお年寄りを楽しませたい」と考える。あるいは、学校を綺麗にするプロジェクトに取り組む子どもが、「自分たちが卒業しても、学校を綺麗にするノウハウを後輩に伝えておきたい」と考えた。全校朝会でそのための時間をもらえないか、校長と交渉をする。
こうした事例からは、自分たちの学習活動に自信を深めて、自分達の手で自分達の納得できる活動を求める子どもの姿が見えてくる。課題追究を通して、どうしても取り組みたいことや関わりたい対象、考えたいことが生まれてくる。体験的な物語を含んだ課題解決の過程が“自分(達)らしいオリジナリティを持った活動”を創り出して行く。教科の学習でも、子どもが自分らしいオリジナリティに満ちた考え方にこだわるという場合があろう。しかし、総合の場合は課題追究の深まりと活動のオリジナリティの間に、教科よりも深い関係がありそうである。
教科の場合は時として、答えや解法のオリジナリティを重視しなくとも学習が成立する場合がある。同じやり方で、同じ答えを出せればよいという場合などがそうだ。問題に対する解法と答えの斉一性が重視され、子どもの個々のオリジナリティは不問にされてしまうこともある。ところが、総合の場合は追究が充実するほど、「自分(達)のやり方や考え方」に対するこだわりが強くなる。
「街の環境を良くするには、自分達の力だけでは無理だ。でも、自分達が何もしないでいろいろとお願いだけするのは筋が違うと思う」
「他の学校や、他の中学生が創った船じゃだめなんだ。僕たちのクラスでしかできない、世界初の船を創らないとダメなんじゃないか」
こうした、オリジナリティへのこだわりは、“私”と“課題”の強い結びつきを象徴している。
この、オリジナリティへのこだわりは、自分達の活動に対する「質の高い成果を期待する意志」から生まれてくる。結果へのこだわりが、結果のクオリティを高めたいという願いを膨らませて行く。
「公園の環境を調べるには、一回調べただけじゃだめだと思う。行く時間を変えたり、行く時期を変えたりしないと、本当の公園のことはわからない。だから、何回も行った方がいいと思う」
より深く、詳しく、丁寧に、確かに調べたい。そうした、質の高い結果へのこだわりが、「何回も公園に足を運ぶ」という活動を創りだしていく。この繰り返しは、「何回も足を運んで、詳しく調べてきなさい」と、誰かに指示をされて行う繰り返しではない。「もっと詳しく知りたい」という学習者の要求から生まれた繰り返しである。
「つけものの名人の話を聞くだけではなく、自分達でいろいろ試しにつくってみないと本当のことがわからないと思います」
学習者が自分達の手で実際に試してみたいと考えるのは、「納得がいく、質の高い結果」を希求しているからである。自分達の求める結果のクオリティを上げたいという願いの高まりも、学びの深まりを換喩しているのだと言えよう。
こうした質の高い結果を実現しようとするのは、学習者の課題追究が現実味を帯びて来るからである。PISA調査の問題が、現実社会での知の働きを想定して作成されたとしても、それは現実の問題ではない。そのテストが終われば、学習者にとって問題はではなくなる。リアリティを喪失し、色あせた問いになってしまうのだ。
しかし、総合の学びは深まって行くと、リアリティは学習者にとって一層重要度を増して行く。
「スカシユリが咲いている写真を見るだけでなく、自分達の手で本当にスカシユリの群落を再現してみたい」
調べたり、知るという活動がより現実的な目当てを生み出し、現実の世界で実現すべき事柄につながって行くのである。学習者がリアリティある活動と結果にのめり込んで行く姿も、総合の学びの充実を表していると言えるだろう。
「オリジナリティ」「クオリティ」「リアリティ」は、総合の学びの充実を示す学習者の表現である。この三つのどれも随伴しない課題追究は、学びの深まりに問題があるのであろう。学習者の姿こそ、学びの深まりを示すバロメーターなのである。2008/1/1 |
106.年賀状に思う礼の心
かつて、「学力裁判」という本の中で、「あいさつは学力の一部である」と書いた。他者や社会の中に潜んでいる知を引き出すためには、他者との関係が重要だ。日頃から挨拶がしっかりできる人は他者に何かを尋ねた場合にも、快く応じてもらえるだろう。社会から知を引き出すコンセントが「あいさつ」という行為なのである。
どの本の中であったか記憶が無いが、中国の古典の中で出会った言葉で「汝を以て我を礼とし、礼を以て我を汝とす」という言葉を読んだことがある。あなたの存在によって私の中に礼を行う心が起こり、礼という行為によってあなたと私の存在が融合して行くという意味であろうか。この言葉を読んだ時、「礼という行為があなたと私の距離を限りなく近づけていく」という考え方に感動したものである。
「人付き合いが苦手である」「友達をつくることができない」。こうした性格を個性だからと、放置しておいて良いものであろうか。独り静かな環境を好み、誰とも接したくない子どもは確かに存在する。だが、それが個性だという理由で、孤立させておけば子どもの発達に著しい障害を残すであろう。あなたが私と繋がるという連帯を知らずに、実社会を生きる力が育つとは考えにくい。アタラクシア(心の平安)も孤立世界ではなく、家族や仲間との繋がりが感じられてこそ訪れるものなのではないか。
いよいよ今年も年末を迎え、年賀状を投函する時期を迎えた。ネットで繋がる先生方には、この「論壇」を以て年賀状に代えたいと思う。来年も教育という共通のテーマで、繋がることができますように。
(2007/12/20)
|
105.静岡大学附属静岡小に見る指導知の醸成
今週、静岡大学附属静岡小学校で、授業研究会に参加する機会を得た。この校内授業研は二日間に渡り、授業実践と検討、授業の再設計と実践を繰り返す形で行われる。研究授業→指導者と実践者による授業検討会→検討会を受けた指導案の作成(翌日の授業試案)→全校職員による指導案の検討会→更なる、指導案の修正→翌日に前日の修正を経た指導案に基づく授業実践→再び外部指導者と教科担当教員による授業検討会→・・・という短時間で授業をリメイクする研修である。
授業者は自分の案を同じ担当教科の先生方と協議しながら、第一案を作成する。そして、実践は全ての教師と指導者に公開され、事後には再び協議による授業の検討会が行われる。この研究会は「大研」と呼ばれ、同校では伝統的な研究方法なのだそうだ。この研究方法の素晴らしさは、短時間で授業と子どもの生の変化と現象を捉え、しかも、外部指導者を含めた異見(異なる考え方)の出し合いにより授業を見つめ直し、翌日には授業修正の効果が複数の目によって再び評価される過程にある。
教師相互の話し合いでは、「ねらいの捉えが甘いのではないか」「子どもの考え方に指導が適合していないのではないか」「もっと能率が上がる指導法がある」「この教材で子どもの学びのどこに迫りたいのか」「私ならば、違う教材を提示する」等々。具体的な内容は書けないが、極めて具体的で積極的な意見交換が行われる。一つの授業に対して多くの改善案や意見、あるいは実践者の指導に対する質問が投げかけられ、次の授業への焦点化が進んでゆく。今回の授業では、一日目の授業で見えた子どもの迷いに着目し、二日目の授業を修正した結果、学びの深まりが一気に進んでいた。
一人の教師の授業を多くの教師が真剣に検討し、批判を受けた実践者はその声に耐えながら次の実践の糧としていく。実践を主軸にした協働的な指導知の創造は、端で見ていても躍動感を伴う動的な知的活動だと感じた。
現在、同校の研究主題は「自分らしくなる」である。多くの先生方の協議に次ぐ協議を通すことで、実践者の授業はより「自分らしく」なり、子ども達も自分たちの考えを確かめ「自分らしく」なって行く。今後も、「静小らしい研究と実践」による研究成果を出し続けて行ってもらいたいと願う。
(2007/12/7) |
104.山は学校である
ラインホルト・メスナーは世界的な登山家として知られている。先日、過去のメモ帳を整理していて、彼の言葉を再発見した。おそらく、テレビ番組で子ども達にアウトドアでの生活術を教える番組(外国局の制作と思われる)を観た折りに、記録をした言葉なのであろう。
「山は学校である。山はいつも我々に色々なことを教えてくれている。経験、体験としてそれを学ぼうとしない者は命を落とすことになるであろう」(ラインホルト・メスナー)
山は、積極的に何かを教えてくれる存在では無い。学ぶ側が学ぶ態度を持たぬかぎり、山の知はその輪郭を顕わにしない。しかも、知識として知るだけでは充分では無い。雪崩の危険は誰もが知っている。どんな条件で発生するのかを知識として知ることもできる。だが、体験として知ることが無ければ、畳の上の水練(タタミの上で水泳の練習をすること)に閉じる恐れもある。
「実社会は学校である。実社会は我々にいつも色々なことを教えてくれている。実社会の中から学ぶ態度を持たぬ者は、知識基盤社会を生き抜くことはできない。自らの置かれた環境を学び場にできる人こそ、実社会を生きることができるのだ」
メスナーの言葉を学習に当てはめてみると、上記の様な言葉になるのではないか。
主体的に学ぶ態度を持てば、五感に触れるもの全てを師に変えることができる。「今ここ」という現実から学べる力は、知的な充実を生み出す「知の根となる力」なのであろう。 (2007/11/28) |
103.S市中学校校長会にて
先日、S市中学校校長会の研修会で以下の二点について質問を頂いた。その場では、短い時間で充分な回答ができなかったので、ここで質問に対する私見を述べてみたい。
質問1 教育三法の改正により、学校組織が垂直化(副校長、主幹、指導教諭など)している。縦のラインが法的に強化されて行く現状の中で、横の繋がりを重視した学校経営をしていくにはどうすればよいのか。縦型組織化する教育行政の流れと、マネジメントのフラット化は相反するのではないか。
回答 組織の構造は「設計上の構造(書かれた構造)」と、「実際の組織風土(組織文化)」という二つの側面を持っている。組織を動かしている組織文化は組織図とは異なると考える。校長、副校長、主幹、指導的教員、という組織階層が、そのまま組織の運営に反映されるとは限らない。組織が直面している課題の性質によっては、縦系列(上位下達型)の指揮命令系統を生かした組織運営も必要であろう。
しかし、
①これから採用される若い人材は組織の上下関係を嫌う傾向がある
②上が指示しなければやらないという体質を生みやすい
③“鬼の居ぬ間の洗濯”という状況も生起しやすくなる
④多様な問題が次ぎ次ぎに出現する学校では、自主的自治的な免疫的組織が指示を待たず に結成される方がよい、
という理由から、フラット型の組織文化を開発するマネジメントが必要になると思われる。
同僚性の開発を行い、信頼関係を深めつつ互いの行動や思考の傾向を把握しながら、協働
的な組織の土壌を育てていくマネジメントが必要になる。
質問2 日本の教育予算はなぜ低いのか。子どもの人数に対する教職員の数が足りていないことは明らかだと思うのだが、改善される見通しはあるのか。
回答 日本の学校教育費(対GDP比)はOECD加盟国の中で最低レベルである。日本の教師は世界で最もコストをかけずに高い教育成果を生みだしていると言える。その成果は、学校、教員の努力と工夫によって生み出されて来たものである。今後も経済的な裏打ちが薄い中で、教師の創意工夫と努力だけに責任を負わせてしまうのはいかがなものだろうか。「未来を拓く公学力」にも書いたが、今の日本の社会繁栄は戦後の教育復興に頼るところ大である。そろそろ、社会全体が教育のために恩返しをしてもよい時期に来ているのではないか。環境問題、高齢化問題、格差社会の問題など、全ての社会問題と対峙してゆくのは、これからの子ども達である。人を育てること無くして、将来的な問題解決などあり得ないのではないか。
教育の効果は他の事業と異なり、成果全般を数値や可視化できる形で表せる性質のものではない。成果が見えないことは成果が無いことと同じではない。成果が見えにくくとも重視されるべき社会領域が「教育」なのであろう。現状で学校に充分な人材量が確保されているとは言えず、拡大し続ける業務を抱えた学校に人的、予算的な工面を望みたいところである。
(2007/11/16) |
102.言葉と体験の重視
▼「言葉は確かな学力を形成するための基盤であり、生活にも不可欠である」「体験は体を育て、心を育てる源である」(中教審審議経過報告)。この延長線上で、次期指導要領では「ことばと体験」が重視されるという。これからの校内研究/研修では、“言葉と体験の充実を重視した指導法の改善”という様なテーマを掲げる学校が更に急増すると思われる。今世紀に入り、総合、習熟度に続く教育界第三の波は「言語と体験」になるのであろう。
▼教育における「言葉の重視」は今に始まったことではない。「言葉」は教養教育の原点でもある。ローマ時代後期から「文法学=構文の知」「論理学=思考の法則についての知」「修辞学=説得の知」は三学と呼ばれ、教養教育の要を担っていた。一説によれば
「三学= (トリウィウム trivium) 」は 「トリビア(trivia)=三叉路」に通じるという。違う方向から歩いてきて、三叉路で出会った三人が共通理解を図るには、「文法学/論理学/修辞学」を修めている必要があるというのだ。言葉の力を中心とする思考力や表現力は、古くから教育の重要な領域だったのである。
▼一方の体験は言語に意味を与える力を持つ。文字情報としての言葉に個人的な経験をかけ合わせることによって、使える言葉から通じる言葉に変わって行くのである。かつてインターネットを使って、遠隔地の学校を結ぶ授業で興味深い光景を目にしたことがある。一方は都会の学校であり、一方は海が近い漁村にある小学校だ。
「そちらは、何がおいしいですか(都会の子)」
「イカはお刺身で食べると、甘くておいしいです(漁村の児童)」
「イカって海でとれるイカ?(都会の子)」
「そうです(漁村の子)」
「イカって甘い食べ物じゃないんじゃないですか(都会の子)」
「新鮮だと甘いんです(漁村の子)」
「どういう風に甘いんですか(都会の子)」
「噛むと甘みが出てくる感じです(漁村の子)」
「・・・・イカが甘いわけないよね(都会の子達のつぶやき)」
▼都会の子どもは甘いイカを食べた体験が少ないのであろう。言葉では「イカ」の意味も、「甘い」の意味も通じている様である。しかし、「イカが甘い」という表現は、新鮮で甘いイカを食した者にしか共有できないのであろう。言葉の意味が伝わっても、体験の共通性がなければ、ねらい通りの内容は相手に伝わらない。言葉と体験は、互いに補完をしあいながら意味を構成しているのである。言葉を持っていても、体験を欠いてしまうと意図や考えが「通じ合えない」こともある。
言葉と体験を重視する教育は、共通した意味世界に参加する力を育てることを目指すものであろう。そこで培った力が、体験的に人と通じ合い、繋がり合いを通した、次の次元の学びを実現する力になる。 (2007/11/7) |
101.「全国学力テスト」の波紋と教師の責任!?
このところ「全国学力テスト」の問題がマスコミで大きく取り上げられている。マスコミで焦点化されている問題点は、「基礎知識の定着を問う問題では概ね良好な成績を収めている。しかし、知識の活用を問うB問題の正解率に課題が残る」という点だ。
A問題の正答率よりB問題の正答率が低いというが、筆者なりにこの結果を言い換えると次のようになる。
「シンプルで解くことに馴れた形式の問題の点数はよかった。そうでない問題は解きにくかったので点数が伸びなかった」。ちょっと古いが、マーフィーの法則風に言えば、「基礎問題と応用問題は、応用問題の方が解きにくいことが常である」ということになろうか。
単純な100メートル走よりも、複雑な動きが必要な“借り物競走”で100メートルを走る方が時間がかかる。ゴールまでの道のり(解答までの頭の働き)が複雑になれば、ゴールに到達することが難しくなる。馴れていない道のり(解き馴れていない問題)ならば、なおさらのことだ。こう考えてみると、A問題とB問題で同じ様な点数を取ることの方が不自然に思える。しかも、基礎的な知識から学習が始まり、その知識が応用の場面で繰り返し使われることも多い。先行する基礎知識が活性化した形で身に付いていても不思議ではない。常識的に予測できた筈の結果に対して、国を挙げて大騒ぎをするのもいかがなものか。
また、今回はA問題とB問題という二つの領域で済んだが、今後は「C問題やD問題」が登場する可能性もある。「パソコンを使って課題解決をするテスト」「実際のディベートや話し合い活動をさせるテスト」などが導入されれば、その度に大騒ぎをするのであろうか。今回の結果を受けて、授業改善や指導法の改善がこれまで以上に声高に主張されることになるだろう。しかし、“基礎よりも応用ができないこと”の責任まで教師に取らせようとするのは無謀な気がする。今回の調査は、テストによる定量的調査だけでなく、質問紙による定性的調査も行われ、結果が公表されている。問題の性質と点数だけでなく、子どもの生活実感や、考え方に注目した教育の在り方も考えて欲しいものだ。
(2007/10/25) |
100.“数で比較”のわかりやすい間違い
先日電車の中で、「日本9%、アメリカ59%」という大きな文字が目に飛び込んで来た。その大きな文字の上には、「世界の先生は、大学院終了の時代」と書かれている。この数字だけを見れば、「やっぱり日本の先生は勉強不足なんだな」「だから、教師の指導力不足が問題になるのだ」という
感想を持つ人も多いであろう。IEAの調査結果を持ち出し、日本の教師の研修や再教育を促そうという魂胆が見える広告だ。
しかし、アメリカの子ども達の学力と、日本の子ども達の学力をIEAのデータで比較すると、数学が日本の5位に対しアメリカは15位、理科が日本の6位に対してアメリカは9位である。つまり、大学院卒が少なく、教員養成に時間的コスト、経済的コストを上げることなく、子どもの学力を伸ばしているのが日本の教員なのだ。
学歴や数値は“客観的で確かなデータ”に見えやすい。9%と59%という差は歴然であり、あたかもアメリカの教師の指導力が高そうに感じさせる。だが、日米の教員養成課程の違いや大学院でのカリキュラムの違いなどが考慮されず、大学院の卒業率だけを切り出して日米比較をすることに意味があるのだろうか。一方で、日本の授業研究(Lesson
Study)が持つ研修効果が欧米から注目されている。授業研究は、大学院卒という学歴と全く異なる次元で指導力向上に役立っているのだ。教師にとって大学院卒であるということは重要な価値を持つのかもしれない。しかし、「授業研究を継続し続ける教師文化」という、数値や学歴で表現されない部分にも、日本の教師力を支える大きな効果がある筈であろう。
数でやデータを鵜呑みにすることは極めて危険である。その背後に潜む数値化されない情報や状況を読まねば、判断の過ちを招いてしまう。数値の様に、一見、理解の必要性がなさそうな情報こそ注意深く読み解く必要がありそうだ。(2007/10/11) |
99.カリキュラムを創り・動かし・直す
9月は数多く授業を見る機会を得た。長野県の小学校では朝から5時間目まで連続で授業を拝見させて頂いた。こうした、実際の授業から学べる事柄は多い。論戦だけでは見えてこない学びの本質や、子どもの本質に気づかされることもある。特に、教師の指導力や授業術は、論ではなく実際の授業の中でこそ見えてくるものであろう。“暗黙知としての指導の知識(M.ポランニー)”が顕在化してくるのが、生の授業というものだ。
そうした生の授業を見ていると、「カリキュラム・クリエイト(創造)」「カリキュラム・ドライブ(実行)」「カリキュラム・リペア(修正)」という三つの力が、指導力と密接な関係にあることがわかる。
今の授業に至るまで、そして、今から次の時間に向かっての単元設計の見事さ(創造)。あるいは、子どもの行動や発言を授業のねらいに結びつける、授業運びの巧みさ(実行)。そして、子どもの反応や状況の変化によっては、授業や単元の方向を修正していく授業補正の力(修正)。授業を「つくり、はこび、なおす」という三つの力の一つが欠けても、質の高い指導力には結びついて行かないであろう。まして、子どもの活動は指導者の予測を超えることもしばしばであり、予定通りの授業運びでは追いつかないことも多い。
ドナルド・ショーンは「教師は反省的実践家であり、不確実かつ流動的な状況を修正していくタイプの専門家だ」という主張をしている。授業という複雑な状況の中で、学びの船を進めていくためには、授業をつくり、授業をはこび、授業をなおすという、柔軟な思考力が必要なのであろう。(2007/10/3) |
98.批判を金言に変える学校
夏休みが終わり、各地の学校では「提案/研究授業」を基にした授業研究が始まっている。授業の実践分析は、先生方の指導観や教材観などを知ることができ、大変参考になる。そうした研究協議の場でよく感じることは、学校によって、教師同士の言葉の意味や価値が大幅に違うということである。
ある学校では、ちょっとした意見が、非難として受け取られる。「もう少し違う方法があるのではないか」という意見が出されるだけで、なんとなく協議の場全体が妙な緊張感に包まれる。おそらく、教師間の関係が良好ではないのであろう。従って、協議でも当たり障りの無い、良かった点だけが取り上げられるが、協議の充実感は薄い。
一方で、かなり辛辣とも思えるやりとりが交換される学校もある。「そもそも、単元の設計に問題があるのではないか」「課題の示し方が曖昧すぎて、子どもが迷っているよ」。しかし、そんな批判的な言葉でも、互いに参考にしながら意見交換が続く。そして、協議が終わった後には、なんとも言えない充実感を先生方が共有している。
ある学校では、ちょっとした意見が批判的な攻撃として捉えられ、別の学校では参考になる意見として尊重される。同じ言葉でも、学校内の組織風土や人間関係によって、大きく意味が変わってくるのである。当たり前のことだと言われればそれまでだが、その差を当たり前で済ませておいて良いのかという気もする。批判を金言に変えられる学校。それは、自ら成長する学校に共通する特徴だと言えないだろうか。(2007/9/21) |